15話 ツクモヤオヨロズ
概念と物体の嵐の中で、あの赤と黒の布を纏った老婆を見た。ような気がする。
私が持ち込んだマトリョーシカも、傍で揺れていた振り子時計も、店長も、私も、等しく同じように店の外に勢いよく吐き出された。全身に色々なものがぶつかったが、近くにあったカーテンが運良く私の体を巻き込んだので、幸運にも怪我はなかったようだ。
「痛いなぁ」
と声を出して、顔に冷たく雨が打ち付けられるのを感じた。私は、伏魔殿を脱して外に出られたのだとその時分かった。
辺りを見回すと、先ほどまで恐ろしい音を立てて巻いていた時計が、力無く横たわっているのが見える。
「おかあさん!」
と遠くから誰かが走ってくるのも見えた。
私は、その子に向かって大きくゆったりと手を振った。
「久しぶり。どのくらい経ったのかな」
「久しぶり、じゃないでしょ!」
胸に飛び込んできたゆりえは、子供の頃のように泣きじゃくった。
「心配だったんだから! あれから1週間も経ってて」
そうか、1週間も経っていたのか。と私は思った。そして、短い1週間を共にした相手のことを思い出す。
「お母さん?」
「店長はどこ行ったんだろう」
中古品ショップツクモの前は、解体工事でもしていたかのように雑然と散らかっていた。
分類できないほどの物々が溢れど、私達の他に人の気配はない。
私はゆりえに声を掛け、2人で店長を探した。彼女は悪い事をしようとしたが、未遂である。情状酌量の余地はある。
結論から言うと、店長は見つからなかった。みっしりと天井までモノの詰まった店舗の中に取り残されているのかとも思ったが、その場ではどうしようもなかった。
雨が強くなってきた。冬の雨は、冷たく私の体温を奪っていく。
「良い天気だね」
私が言うと、ゆりえは怪訝そうな顔をした。
「え? 雨降ってるじゃない」
「私は昔から雨が好きなんだよ。雨が降ってる日のことを良い天気って呼ぶことにしてるんだ」
「変なの」
「変じゃないよ。私以外にもそう思ってる人は絶対いるって。まだ会ったことはないけどさ」
私達2人は傘を共有して、雨の中を帰っていく。雨が降っているからか、灰のような息苦しさはもうなかった。
家に着くと、夫がドッペルゲンガーでも見たかのように驚いた。そして私とゆりえに縋り付いて、おいおいと泣いた。娘の泣き顔は愛おしかったが、大の男が泣く姿はみっともなかった。でも、私のためにこんなに心配してくれたことが嬉しくて、私も思わず泣いた。
夫が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私は店での出来事を2人に話した。店長のこと、儀式のこと、御神体のこと。ツクモはただの中古品ショップに戻り、店長はどこかへ消えてしまったこと。
「その儀式の契約書はどうなってるの?」
「机の上に置いてあったからなぁ……」
と私が悔やんでいると、夫が私の鞄を指した。
「紙がはみ出てる」
取り出してみると、確かにそれはあの時の契約書だった。しかし、私の記憶にある契約書とは文面が違う。
『店長(以下甲)は四方谷 真理子(以下乙)に中古品ショップツクモの一切の権利を譲渡する。』
と書かれたその紙の最後には、『立会』として、あの印が押されていた。
「お母さん、あのお店の店長になったんだ」
「えー、店長なんて嫌だよ」
「でも神様はそれを望んでるんだよ?」
コーヒーを飲み、夫が笑った。
「いいじゃない。まりこさんがやるお店なら、素敵な品物がたくさん集まりそうだ」
「じゃあみんなが手伝ってくれるならやるよ」
私は、諦めてそう言うしかなかった。
荒れたツクモの片付けや清掃は、夫とゆりえが手伝ってくれて、思いの外早く済んだ。多すぎて収まらない荷物も、夫の伝手でどんどん捌けた。
ツクモは体内に置かれていた全てを私の手によって吐き尽くし、すっきりと空になった。
がらんどうになった店内に最後に残された椅子に腰掛けて、私はため息を吐いた。やってみるとは言ったものの、これからどうしたものか。途方に暮れていると、ゆりえが窓の外から手招きしているのが見えた。
「どうした?」
と言いつつも、私は彼女が何を言うのか分かっていた。
「あたし、この街を出るよ。依頼も達成したし、お母さんの悪い未来も回避したし」
「そっか。次はいつ帰ってくるの?」
「わからない。でも絶対にまた帰ってくるよ」
この子はそういう子なのだと、私はもう理解していた。私達はそれ以上何も言わなかった。それ以上は必要なかった。
ゆりえを駅まで送り、そのまま夫のアンティークショップまでゆっくり歩いた。店の前に立った時、いつもと何か違うような気がした。
「ああ、いらっしゃい。珍しいね」
夫は何やら書類と格闘しているようだった。私は違和感の正体に気づいた。店の中の品物が、ほとんどないのだ。
「まりこさんがお店を始めるなら、僕の方の店は閉めようと思ってね。合併だよ。夫婦で少ない客の取り合いをするのは不毛だろうと思ってね」
「それもそうだ」
合理的な理由だ、と思った。夫が書類にハンコを押して、思い出したように言った。
「そういえば、まりこさん、御神体はどこに行ったの?」
「わからない」
ツクモの中身は、全て精査した。細かいゴミまで全て。でも、あの印はどこにもなかった。
「わからないけど、大丈夫でしょ。きっと行きたいところに行ったんだよ」
確信があったわけではないが、あの印のことは心配する必要はないと思った。
「それより、合併するならお店の名前も変えないといけないよね」
「そうかな?」
「だって、あと店長のつけた名前をそのまんま引き継ぐのは嫌だしさ」
「いい名前あるかな?」
「実はもう考えてあるんだ。今度教えるよ」
「今度じゃなくて今教えて」
「店の名前は……」
冬の空は夕焼けからあっという間に夜になる。いつしか止んでいた雨に洗い流された空気の遥か彼方で、星が瞬いている。
この街のどこかで、少女の姿をした何かが星空を眺めて
「綺麗だね。」
と呟いた。




