第七章:調和という名の奇跡
調査ポイントに到着すると、二人は手分けして作業を始めた。雫は水質測定を、美琴は植物の観察を担当した。しかし今回は、単独での調査ではなく、常に情報を共有しながら進めた。
雫が水質測定器を川に入れると、すぐにデータが表示された。しかし今度は、数値を見る目が以前とは全く違っていた。データの向こうに、生きた湿原の姿が見えている。
「pH7.2、溶存酸素量8.5mg/L、電気伝導度0.12mS/cm……」
数値を読み上げながら、雫はその意味を深く考えていた。これらの数字は、水中に住む生き物たちの生活環境を物語っている。魚、昆虫、微生物……見えない生命たちが、この水の中で営みを続けている。
特に興味深いのは、水温と溶存酸素量の関係だった。水温が1℃上昇すると、溶存酸素量は約3%減少する。これは、水の酸素溶解度が温度に依存するためだ。気候変動による水温上昇は、水生生物にとって深刻な問題となる可能性がある。
一方、美琴は雪の下に隠れた植物を注意深く観察していた。植物学者としての経験と直感を頼りに、雪の下から様々な植物を見つけ出している。
「雫さん、こちらを見てください」
美琴の声に雫が振り返ると、彼女が雪をそっと払って小さな植物を露出させていた。緑の葉が美しく、まだ生命力を保っている。
「これはヨシ(Phragmites australis)ですが、通常より小さく、葉の色も少し薄いんです。何らかのストレスを受けている可能性があります」
「どんなストレス?」
「水質の変化、気候変動、人間活動の影響……様々な要因が考えられます。植物は移動できないので、環境変化の影響を直接受けるんです」
雫は美琴の指摘に新鮮な驚きを感じた。これまで水質にばかり注目していたが、植物の変化から環境の変化を読み取るという視点は新しかった。
「植物って、環境変化の指標になるのね」
「ええ。植物は『セッシル』(固着性)なので、環境の変化をそのまま体で受け止めるんです。だから、変化に対してとても敏感なんですよ」
この会話の中で、新しい研究アプローチのヒントが生まれていた。水質データと植物の形態変化を統合的に解析することで、従来よりも精密な環境評価が可能になるかもしれない。
二人は調査を続けながら、お互いの専門知識を共有した。雫の化学的知識と美琴の生物学的知識が組み合わさることで、湿原の生態系の変化がより立体的に見えてきた。これは学際的研究の醍醐味でもあった。
昼食は湿原を見渡せる場所で取った。美琴が作ってきたお弁当を分けてもらい、雫が持参した温かいスープと一緒に味わった。屋外での食事は、室内では味わえない特別な美味しさがある。
「美琴さんのお弁当、とても美味しいわ」
「ありがとうございます。料理は母から教わったんです」
美琴のお弁当は、栄養バランスを考えた手作りの品々が美しく詰められていた。色とりどりの野菜、十六穀米のおにぎり、手作りの豆腐ハンバーグ、きんぴらごぼう、だし巻き卵。どれも愛情が込められた料理だった。
十六穀米は、白米に大麦、玄米、もちきび、もちあわ、黒米、赤米、ハトムギなど十六種類の穀物を混ぜたもので、ビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富に含まれている。プチプチとした食感が楽しく、噛むほどに深い味わいが広がる。
「私は最近、コンビニ弁当ばかりでした」
雫は反省した。忙しさにかまけて、食事をおろそかにしていた自分を恥じていた。
「忙しいからって、食事をおろそかにしてはいけませんね」
「食事は心と体を作る大切なものですから」
美琴は微笑んだ。その表情には、女性特有の包容力と知恵が宿っていた。
「私たち女性は特に、食べ物から美しさと健康を作り出すことができるんです。良いものを食べると、肌の調子も気分も良くなります」
この指摘は栄養学的にも正しい。ビタミンCやビタミンE、ポリフェノールなどの抗酸化物質は、美肌効果があることが科学的に証明されている。また、セロトニンの約90%は腸で産生されるため、腸内環境を整える食事は精神的な安定にも寄与する。
食事をしながら、二人は女性としての生き方について話し合った。研究者でありながら、女性としての幸せも大切にしたい。仕事と私生活のバランス、美容と健康への気遣い、人間関係の大切さ。
「雫さんは、将来どんな風に生きていきたいですか?」
美琴の質問に、雫は少し考えた。これは人生の核心に関わる重要な質問だった。
「自然と調和しながら生きていきたいです」
「調和?」
「研究者として自然を理解し、女性として自然の美しさを愛し、人間として自然と共生する。そんな調和の取れた生き方をしたいんです」
雫の答えは、ホリスティック(全人的)な人生観を表していた。分離されがちな職業人としての顔と私人としての顔を統合し、一つの調和した存在として生きたいという願望だった。
「素敵な目標ですね」
午後の調査では、さらに興味深い発見があった。雫の水質データと美琴の植物調査を統合すると、湿原の一部で微細な環境変化が起きていることが分かった。
「この変化、以前のデータには現れていませんでした」
雫はタブレットで過去のデータと比較した。水質パラメーターの微細な変動パターンが、植物の分布変化と相関している。
「植物の変化から読み取れたからこそ、気づけたのですね」
「そういうことです。一つの視点だけでは見えないことも、複数の視点を組み合わせることで見えてくる」
これは研究手法の革新だった。従来の単一分野のアプローチではなく、学際的な協力による新しい調査方法。雫と美琴の協力が、早くも成果を生み出していた。
特に注目すべきは、水質の化学的変化と植物の生理学的反応の時間差だった。植物の変化は水質変化よりも数週間遅れて現れる傾向があり、これは植物の適応メカニズムを反映していた。この発見は、環境変化の早期警戒システム開発につながる可能性がある。
夕方、調査を終えて研究所に戻る途中、雫は車を展望台の駐車場に停めた。
「夕焼けを見ませんか?」
二人は車から降りて、湿原に沈む夕陽を眺めた。オレンジ色の光が雪原を染め、美しいグラデーションを作り出している。タンチョウの鳴き声が遠くから聞こえてきた。
「クルル……クルル……」
その鳴き声は、湿原の静寂を破ることなく、むしろ自然の音響環境を豊かにしていた。タンチョウの鳴き声は、低周波成分が多く、数キロメートル先まで届く。これは密生した植物の中でもペア同士がコミュニケーションを取るための進化的適応だった。
「美しい……」
美琴が呟いた。夕陽に照らされた彼女の横顔も美しく、自然の美しさと人間の美しさが調和している瞬間だった。
「この美しさを守るために、私たちは研究をしているんですね」
「そうです」
雫は頷いた。声には確信が込められていた。
「データや理論も大切ですが、最終的には、この美しさを未来に残したいという想いが原動力なんです」
夕陽の中で、二人の友情と研究への情熱が深まった瞬間だった。科学的探究と美的感動が融合し、研究の本質的な価値を再確認していた。




