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第一章:氷点下の迷い道

 研究室の窓から見える釧路の夜景は、十二月の厳しい寒さの中で静寂に包まれていた。雫は手に持ったマグカップから立ち上る湯気を見つめながら、三杯目のルイボスティーを飲み干した。南アフリカ原産のこのハーブティーには、抗酸化作用のあるフラボノイドが豊富に含まれており、カフェインレスでありながら心を落ち着かせる効果がある。最近の不眠症対策として選んだものだったが、今夜もまた眠れそうにない。


 雫の研究室は、北海道大学との共同研究棟の三階にあった。壁一面に並ぶ書架には、環境化学、生態学、水質工学の専門書が所狭しと並んでいる。机の上には最新のマルチパラメーター水質計、顕微鏡、そして雫が愛用している万年筆が置かれていた。この万年筆は祖母の形見で、1950年代のパイロット製。インクの流れが滑らかで、手書きの研究ノートを書く時の相棒だった。


 パソコンの画面には、釧路湿原の水質データが無機質な数字の羅列として表示されている。pH値7.1、溶存酸素量8.3mg/L、全窒素濃度0.45mg/L、全リン濃度0.018mg/L。これらの数値は、ラムサール条約で保護される湿原の生態系の健康状態を示す重要な指標のはずなのに、今の雫にはただの記号にしか見えなかった。


 興味深いことに、この水質データには音響学的な側面もある。水中の溶存物質の濃度は、水中での音の伝播速度に微細な影響を与える。海洋生物学者たちは、この原理を利用して水質を遠隔測定する技術を開発している。しかし雫は、そんな学際的な視点を見失ってしまっていた。


「また徹夜ね……」


 呟いて時計を見ると、午前二時を回っていた。デジタル時計の冷たい光が、雫の疲れた瞳に映る。明日――いや、もう今日の午後には、環境省の湿原保護委員会で研究報告をしなければならない。釧路湿原のラムサール条約登録から四十二年が経過し、現在の生態系がどのような変化を見せているのか。それを科学的データで示し、今後の保護策を提言するのが雫の役目だった。


 雫は三十二歳、札幌で生まれ育ち、北海道大学大学院で環境化学の博士号を取得した。指導教授は国際的に著名な女性研究者で、雫に「女性だからこそ見える自然の真実がある」と教えてくれた人だった。大学院時代、雫は湿原の物質循環に関する研究で、若手研究者賞を受賞。その後、釧路の環境研究所に勤務して七年になる。湿原の生態系保護に関する論文は国際誌に十二本掲載され、研究者としてのキャリアは客観的に見れば順調だった。


 しかし最近、何のためにデータを集めているのか分からなくなることがあった。子供の頃、祖父母の家の庭で蝶々を追いかけていた時の純粋な好奇心。高校の生物部で顕微鏡を覗き込んだ時の感動。大学一年生の時、初めて釧路湿原を訪れた時の圧倒的な美しさへの畏敬。それらすべてが、いつの間にか数字と格闘するだけの日々に置き換わってしまっていた。


 雫の心理状態は、実は多くの研究者が経験する「燃え尽き症候群」の典型例だった。心理学者ハーバート・フロイデンバーガーが1974年に提唱したこの概念は、当初は対人援助職に特有のものと考えられていたが、現在では研究者にも頻繁に見られることが知られている。特に女性研究者の場合、社会的期待と個人的な価値観の間で板挟みになることが多く、雫もその典型だった。


 デスクの上には、愛用しているローズクォーツのピアスが置かれている。今日の朝、鏡の前でつけようとしたものの、なぜか気分に合わず外してしまったものだった。ピンクゴールドの細いフレームに小さなローズクォーツの石が揺れるデザインで、女性らしさと知性を両立させる雫のお気に入りのアクセサリーだった。ローズクォーツは愛と美の石とされ、古代ローマ時代から女性たちに愛用されてきた。その淡いピンク色は、ネオジムとマンガンという微量元素によるもので、地質学的には数億年の時間をかけて形成された奇跡とも言える。


 研究所を出て、人気のない釧路の街を歩いた。いつもなら車で帰るのだが、今夜は無性に外の空気を吸いたくなった。釧路の十二月は平均気温が氷点下五度まで下がる。息は白く凍り、頬は北海道の厳しい寒さで痛いほどだったが、それが心地よい刺激でもあった。


 寒冷地における人間の生理反応は興味深い。体温を維持するため、交感神経が活性化し、末梢血管が収縮する。同時に、甲状腺ホルモンの分泌が増加し、基礎代謝が上がる。この生理的変化は、実は思考にも影響を与える。寒さは集中力を高める一方で、創造性を刺激することが知られている。多くの詩人や哲学者が冬の散歩を好んだのは、偶然ではないのかもしれない。


 雫は温かなダウンコートに身を包んでいた。カナダグースの「エクスペディション」モデルで、北極探検隊も使用する本格的な防寒着だった。ダウンの保温メカニズムは、羽毛の間に閉じ込められた空気層による断熱効果にある。水鳥の羽毛は進化の過程で完璧な断熱材となり、その構造をヒントに現代の高機能素材が開発されている。コートの下には、モンゴル産カシミアのタートルネックセーターを着ていた。深いターコイズブルーの色合いが、雫の透明感のある肌に美しく映える。


 足元は、ソレルのカリブーブーツ。カナダの厳冬地で生まれたこのブーツは、マイナス四十度まで対応できる本格的な雪用靴だった。アッパーにはヌバックレザーを使用し、インナーブーツには着脱可能なウールフェルトライナーが入っている。機能性とエレガンスを兼ね備えた、北海道の女性らしい装いだった。


 目的地はなかった。ただ歩いているだけ。気がつくと、釧路川沿いの住宅街に入り込んでいた。このあたりは戦前からの古い建物が多く、昭和初期の面影を残す地区だった。釧路は明治時代から石炭の積出港として栄え、その後は漁業と製紙業で発展した。街の歴史は釧路湿原の形成史と密接に関わっており、人間と自然の複雑な関係を物語っている。


「どこまで来たのかしら……」


 スマートフォンのGPSを確認しようとしたが、なぜか圏外になっている。これは奇妙だった。釧路市内は携帯電話の基地局が十分に整備されており、こんなに電波状況が悪い場所があるはずはない。GPSシステムは、地上約二万キロメートルを周回する人工衛星からの信号を受信して位置を特定する。通常、四個以上の衛星からの信号があれば正確な測位が可能なのだが、今は一つの衛星信号も受信できていない。


 困惑しながら歩いていると、古い蔵のような建物を見つけた。木造の風格ある建物で、築年数は少なくとも八十年は経っているように見える。小さな看板には「夜間蔵書館」と記されている。釧路にこんな図書館があることを、雫は知らなかった。建物の構造から判断すると、明治後期から大正時代の建築様式で、当時の商家の蔵を改装したもののようだった。


 重い木の扉は開いていた。扉は桜材で作られており、表面には美しい木目が浮かんでいる。中に入ると、薄暗い照明に照らされた本棚が並んでいる。普通の図書館とは明らかに様子が違った。本棚は天井まで続き、まるで無限に高く伸びているように見える。


 室内の香りが独特だった。古い木の香りに、ほのかに香る白檀のお香が混じり合っている。白檀は学名をSantalum albumといい、インド原産の香木だ。その香りの主成分はサンタロールという化合物で、副交感神経を刺激して心を落ち着かせる効果がある。古来より瞑想や宗教的儀式に用いられてきたのは、この科学的根拠があってのことだった。


 さらに驚くべきことに、図書館内の音響環境が完璧だった。足音がほとんど響かず、かといって無音でもない。微かに聞こえる空調の音さえも心地よく、まるで計算し尽くされた音響設計のようだった。音響工学の観点から見ると、本棚が効果的な吸音材として機能し、同時に適度な反響を生み出している。これは現代の図書館設計においても理想的とされる音環境だった。


「いらっしゃいませ」


 振り返ると、上品な着物姿の女性が立っていた。年齢は判然としない。五十代にも見えるし、七十代のようにも見える。不思議な存在感を持つ女性だった。銀髪を美しく結い上げ、深い紫色の着物には菊の刺繍が施されている。その菊の刺繍は、よく見ると実に精緻な手仕事で、一針一針に込められた技術と時間が感じられる。


 女性の立ち居振る舞いには、茶道や華道の心得を感じさせる品格があった。日本の伝統的な美意識である「間」を大切にした所作、自然な調和を重んじる姿勢。まるで時代劇から抜け出してきたような、凛とした美しさを湛えた女性だった。


 着物の紫色も興味深い。古来、紫色は最も染めるのが困難な色とされ、高貴な身分の象徴だった。紫根という植物から抽出される紫色は、化学染料が普及する以前は極めて貴重で、「紫より高い色はなし」という言葉もある。この女性の着物の紫色は、まさにその伝統的な紫根染めのような深い色合いだった。


「こんな夜更けに蔵書館が開いているとは思いませんでした」


 雫の声は、静寂の中で適度に響いた。


「ここは夜間蔵書館です。疲れた魂をお持ちの方のための図書館ですよ」


 女性は柔らかく微笑んだ。その微笑みには、母性的な温かさと、長い年月を生きた女性だけが持つ深い慈愛が込められていた。声の質も特別で、まるで古典音楽の弦楽器のような美しい響きがあった。


 興味深いことに、この女性の存在そのものが、量子物理学の「観測者効果」を連想させた。観測者の存在が現実を変化させるという理論は、ハイゼンベルクの不確定性原理としても知られている。この蔵書館と女性の存在は、雫の意識状態が変化したことで初めて認識可能になったのかもしれない。


「どのような書物をお探しですか?」


「特に何か探しているわけでは……」


「では、ご案内いたします」


 雫は女性について本棚の間を歩いた。足音が響かないよう、自然と忍び足になった。よく見ると、本の背表紙に書かれているのは普通のタイトルではない。


『1995年の桜並木』『初恋の記憶』『母の手料理』『最初の挫折』『友情という名の宝物』『雨の日の読書』『夏祭りの夜』『卒業式の涙』


 これらのタイトルは、具体的な出来事や感情を表していた。まるで個人の記憶がそのまま書籍化されているようだった。


「これは……」


「時間の書物です」


 女性が説明した。声は静かで、まるで釧路湿原の朝霧のような神秘性を含んでいた。


「この蔵書館には、あらゆる時間が書物として保管されています」


 雫は困惑した。時間を書物として保管するという概念は、アインシュタインの相対性理論における時間の概念を思い起こさせた。相対性理論によれば、時間は絶対的なものではなく、観測者の状態によって変化する相対的なものだ。過去、現在、未来は同時に存在し、私たちは四次元時空の中を移動しているに過ぎない。


「時間が書物に?」


「そうです。過去の時間、未来の時間、そして失われた時間も。あなたがお求めになっているものがきっと見つかるでしょう」


 さらに歩くと、雫の目に一冊の本が飛び込んできた。


『雫の失われた季節たち』


 自分の名前が入った本がある。手に取ると、ずっしりとした重みがあった。装丁は美しく、表紙には釧路湿原の四季の写真がコラージュ状に配置されている。春の新緑、夏の青空、秋の黄金色、冬の雪景色。そして中央には、タンチョウが舞い踊る姿が描かれている。


 タンチョウは学名をGrus japonensisといい、ツル科の大型の鳥だ。成鳥の体長は約140センチメートル、翼を広げると240センチメートルにも達する。日本では特別天然記念物に指定されており、一時は絶滅の危機に瀕したが、保護活動により現在は約1800羽まで個体数が回復している。その優雅な舞は求愛行動の一環で、ペアの絆を深める重要な役割を果たしている。


「これは?」


「あなたが忙しさに紛れて失ってしまった時間たちです。開いてみませんか?」


 雫は本を開いた。すると、ページから淡い金色の光が溢れ出し、周囲の風景が変わった。光の波長は約580ナノメートル、暖かみのある黄色系の光だった。この色は心理学的に安心感と創造性を促進する効果があるとされている。


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