異世界召喚された先は魔王様の寝室でした
やたらと長い歴史を誇る学び舎には、時計台がある。
経年劣化により、現代風に作り替えられた時計台は真新しく、その上部に吊るされた年代物の鐘は小ぶりながらも存在感がある。丹念に磨き上げられているのか、小さな鐘はほのかに光を帯びていた。
時計台の下で、芝崎花音は空を仰ぐ。
鳥が旋回する青空には、薄雲が淡く広がっていた。太陽が沈む気配はまだない。吹き抜けた春風が黒髪を舞い上げ、花音はそっと手で押さえる。
そのとき、ゴーンゴーンと鐘が鳴った。
毎日決まった時刻、鐘は自動制御によって規則正しく打ち鳴らされる。高く澄んだ音が、学園中に響いていく。
下校時間を知らせる音を聞きながら、花音は一歩を踏み出す。しかし、数歩進んだところで足が止まる。
「なに……これ……」
足元には円形の暗闇が広がっている。まるで落とし穴みたいだと思った直後、足が沈む感覚に襲われた。誰かに助けを求める手は宙を切り、声にならない悲鳴ごと、花音の身体は闇の底へと飲み込まれた。
その様子を一部始終見ていたのは、木陰で休む小鳥だけだった。
◇◆◇
衝撃に備えて頭を手で覆っていた花音は、周囲が明るいことに気がついて、おそるおそる目を開けた。
(あれ……? わたし、寝ぼけてる?)
目の前には色男。さらさらの金茶色の髪に碧眼。彫りの深い顔立ちは男なのに美人と思わせる迫力があり、耳元から編み込まれた髪の毛が肩から垂れている。
眉目秀麗な青年だが、藍色のローブを羽織っているのは何のコスプレなのだろう。杖があれば、魔道士や魔法使いが似合いそうではあるが。
(どうやら地獄でも天国でもないようだけど……ここはどこなのかしら)
視線を下げると、白いシーツが目に入る。試しに指を滑らすと、大変なめらかな手触りだった。頭上にはドラマや漫画の世界でしか見たことのない天蓋がついていた。紐でくくられているが、カーテンまである。
(どう考えても、ここ、ベッドよね……なんでこんなところに?)
瞬きを繰り返していると、目の前の男が口を開いた。
「勇者様」
「……はい?」
「お願いがある。僕を守ってくれないだろうか」
花音は首を傾げた。聞き間違いだろうか。いや、そうに違いない。
現実逃避を始めていると、男は言葉を続ける。
「僕は魔王。王宮の兵たちから命を狙われている」
思ってもみない紹介に目を見開く。
冗談だと種明かししてくれればいいのに、魔王は生真面目な顔でこちらを見てくる。よく見たら、ちょこんと正座している。背筋もピンと伸ばして。
だが今、問題にすべきところはそこじゃない。
「……今なんて? 魔王……?」
「ああ」
「魔王が、勇者に助けを求めていると?」
「そうだ」
即座に肯定されたものの、花音は肩をふるふると震わせた。
「普通、逆でしょ! 魔王が助けを求めてどうするのよ。しかも、敵である勇者に!」
世間一般的に、魔王は退治される側だ。
召喚された勇者や異世界人によって滅ぼされ、世界には平和が戻る。そしてハッピーエンドが訪れる。まかり間違っても、魔王が勇者を召喚するような展開は断じてない。
だというのに、目の前の魔王は思案顔で答える。
「周りからは魔王と呼ばれているが、僕はただの魔法使いだ」
「…………んん?」
「ここは妖精の城。僕は妖精に好かれている。魔法を極めたくて引きこもっていたら、いつの間にか魔王と呼ばれるようになっていた」
自称魔王の端正な顔をじっくり眺めるが、確かに角は生えていない。
「…………あなた、何歳なの?」
「さあ。確か、三百歳は超えた気がする」
他人事のような口ぶりに、花音は眉根を寄せる。
涼しげな顔をつぶさに見つめる。瑞々しい肌は若々しく、切れ長の瞳は大人の魅力が詰まっており、見た目は二十代前半だろうか。
男の言葉をすべて鵜呑みにするわけにはいかないが、ひとまず事実として受け入れなければ、本題に入れない。
花音は不信感や戸惑いをため息に逃がし、話を進めることにした。
「ずいぶん長命なのね?」
「昔、妖精の祝福を授けられた。不死ではないが、不老の効果があるらしい」
深みのある青い瞳がまっすぐに見つめてくる。
残念ながら、嘘をついている様子はない。
(不老の理由はわかったけれど、まだすべてを語ってくれたわけじゃない)
先ほど、この男は言ったのだ。命を狙われていると。しかも王宮から。
それには相応の理由があるはずだ。
「魔王と言われるのだから、何か悪いことをしたんじゃないの?」
詰問めいた口調に気づいたのか、自称魔王は一瞬、口を噤んだ。しかし、ひとつ息をついて花音に目を合わせた。
「魔法で麓の町を守ったことはあるが、悪事は働いていない。僕は平和が好きだ。妖精との暮らしが気に入っている。それを邪魔する者には多少の仕置きをするぐらいだ」
「……退治されようとしている原因はそれでしょ」
つい渋面になったら、やましいことはないとばかりに言い訳めいた言葉が返ってきた。
「王宮の使者は皆、頭が固い。僕には敵対する意思がない、と何度説明しても信じてくれない。最初は魔法の練習台にちょうどよかったが、今ではそれもわずらわしい。だから、勇者の出番というわけだ」
「……え、ここでわたしの出番なの?」
「勇者は民を救う。善良な魔法使いも救ってくれ。君しか頼める人がいないんだ」
ひたむきな眼差しが注がれ、花音はうっと言葉に詰まる。
ここはどう考えても異世界だ。魔王や妖精が存在することからも、それは明らか。そして、異世界召喚された者といえば、その世界の救世主となるのがセオリー。
勇者として呼ばれたなら、困っている誰かを救わなければいけない。
そこまで考えて、花音はくわっと目を剥く。うつむいていた顔を上げ、抗議した。
「って、あなたは魔王でしょうが。自分の身は自分で守れるでしょ」
「…………それを言われるとつらい」
「視線をそらさない! 大事な話をするときは、ちゃんと目を見て話す!」
横を向いていた魔王が渋々といった様子で視線を戻す。
(はあ、危なかった。口車に乗せられるところだった……)
花音は額に手を当てて、ずっと聞きたかったことを質問することにした。
「ところで、元の世界に戻る方法は?」
「方法? そんなものは神様にでも聞いてくれ」
あっけらかんとした物言いに、花音は瞬きを忘れて放心状態になった。
言われた言葉を頭の中で反芻し、地を這うような声でつぶやく。
「……ないの?」
「少なくとも僕は知らない」
「……あなた、魔王なのよね? わたしを召喚したのはあなたよね?」
「そうだ。しかし、このとおり引きこもっているので、魔族とは会ったことすらない」
魔族と会ったことのない人間が、魔王と呼ばれている。しかも、魔界を統べる王ではなく、その正体はただの魔法使いだった。老いない身体は妖精の祝福によるものだという。
こんな馬鹿げた話があるだろうか。
花音は半目になり、いまだに正座を続けている魔王を見つめた。
「物語的には、あなたを倒したら元に戻れると思うのだけど」
「…………僕を殺す気か?」
「そんなに怯えないでよ。いくらなんでも、あなたを殺してまで戻りたいとは思っていないから」
本心だ。さすがにそんな危険な方法は選びたくない。
けれど、魔王の顔色はどんどん悪くなっている。視線に怯えが混じっていた。
「だが、先ほど確かな殺意を感じた……」
「他の方法を考えましょう。もっと平和的な方法を」
話を変えようとしたのに、魔王は悲しげに眉根を下げた。
「……せっかく召喚したのに、帰ってしまうのか?」
はらりはらりと、音もなく雫が頬を伝い落ちる。
花音はぎょっとして、慌ててスカートのポケットからハンカチを差し出した。
「ちょ、ちょっと泣かないでよ。わたしが悪者みたいじゃない」
ピンクのハンカチを受け取った魔王は目元を押さえ、疑わしい目つきでこちらを見てくる。
率直に言えば、今すぐ帰りたい。しかし、それを言える雰囲気ではない。
自分より年上の男性を泣かせるのは、大層心が痛む。泣かせたいわけではないのだ。
花音は二番目に気になっていたことを口にした。
「ところで、聞きたいのだけど。どうして、召喚した場所がベッドの上だったの?」
思わぬ質問だったのだろう。
魔王の涙が引っ込み、何かを思い出すように視線を天蓋に向けたまま、答えが返ってくる。
「ああ……それは、寝る前に興味本位で召喚しようと思ったからだ」
切羽詰まって藁にもすがる思いで召喚したのなら、まだ許せた。だが、この返答は何だ。
興味本位で呼び出される人の気持ちになってみてほしい。
花音が無言のまま身じろぎすると、ベッドのスプリングが弾んだ。気持ちを落ち着けようと目をつぶるが、やはり不満はそう簡単には収まらない。
「…………ぶっとばされても文句はないわね?」
花音のゆらめく怒気を感じてか、魔王の頬がひきつる。すかさず両手を上げ、降参のポーズを取った。
「ぼ、暴力は……よくないと思う。僕が悪かった。本当に召喚できると思わなくて」
「そう。よくわかったわ」
「わかってくれ──」
「ええ、とても。歯を食いしばってくださる?」
わざと丁寧に言うと、目の前の表情がみるみる青ざめていった。
「た、頼むから、話を聞いてくれ。困っていたのは本当だ。突撃隊が城の前に布陣している。伝説の勇者なら、彼らも無下にはできないだろう。話を聞いてくれるチャンスが作れると思ったんだ。それに……」
言いよどんだ魔王は視線をうろうろさせ、ローブの袖をいじり始めた。
自然と怒りのバロメーターが上昇していく。だが素直に白状させるためには、高圧的な態度は避けなければ。できるだけ優しくを心がけ、花音は無理やり笑みを作る。
「それに?」
パチっと目が合うと、魔王は恥ずかしそうに小声で隠し事を吐露した。
「あわよくば、茶飲み友達になれるかと思って。この城に通いのメイドはいるが、対等に話せる人間はいない。ずっと引きこもってばかりだったから、気兼ねなく話せる友達がいればと……」
「…………」
「さっきも言ったが、帰す方法は知らない。突然こんな場所に連れてこられて、君が怒るのも無理はないだろう。だが僕は……君に会えて嬉しかった」
意図せず純真な心を向けられてしまい、拍子抜けした。
シーツに両手をつき、完全なる敗北を悟った。こんなさびしい人間を前にして怒りを持続できるほど、非情ではないつもりだ。
「……わたしの負けよ。名前を聞いていなかったわね。わたしは芝崎花音。花音でいいわ。あなたは?」
魔王は花音の態度に戸惑った様子だったが、質問には律儀に答えてくれた。
「ヴァルラント・フォンティースだ」
「……言いにくいわね……ヴァルでいい?」
略し方に思うところがある顔をされたが、肩をすくめるだけで見逃してくれるらしい。
「まあ、異世界人なら致し方あるまい。カノンという名前の響きはこちらと同じだな」
「そうなの? とにかく、ここにいてもしょうがないわ。兵士の前に案内して。わたしが話をつけてくるわ」
ベッドから降りようとしたところで、ローファーを履いたままだったことに気づく。できるだけシーツが汚れないように、そろりそろりと這うように動き、床に足をつける。
横に男物のブーツがあったので、土足厳禁というわけではないらしい。ホッとして立ち上がると、安堵したような声が後ろからかかる。
「さすが勇者だ。頼りになる」
ブーツを履いたヴァルラントが後ろに続き、花音は腰に手を当てて否定した。
「勇者じゃないわ。ただの女子高生よ」
「……それはどういう職業だ?」
「普通の学生よ。こっちにも学園くらいあるでしょう?」
「王都にアカデミーがあるが」
今はとにかく状況を確認しなければ。兵士の人数もこの目で確かめておきたい。
花音はだだっ広い寝室の出口を目指す。
「そういう場所で、学生らしく勉学に励んでいたってわけ。……って、なにこれ?」
ドアを開けた先には、無数の光が点滅していた。
まるで生きているように小さな光が忙しなく動き回り、花音のまわりを埋め尽くす。
一体何事だと目を白黒させていると、後ろにいたヴァルラントが感心したように言う。
「…………驚いた。君も愛し子なのか」
聞き慣れない単語に振り向くと、彼の周囲にもじゃれつくように光が集まる。
花音は揺れ動く光の輪からなんとか顔を出して、ヴァルラントに歩み寄る。
「君も……って、どういうこと?」
「妖精から無条件に好かれる人のことを愛し子という。僕もそうだが、君もそうらしい」
その話が本当だとすれば、この淡い光の正体は妖精ということになる。
目を凝らすにつれて、光の輪郭が少しずつはっきりとしてきて、羽の生えた小さな妖精の姿が浮かび上がってくる。
(あ……これが妖精……? 可愛い)
手のひらサイズの妖精はくすくすと楽しげに笑いながら、花音のまわりを自由気ままに飛び回っている。頭の上に乗ったり、スカートの裾のあたりをふわふわと漂ったりと、気の向くままに動いている。
翅はガラス細工のように繊細な半透明で、体全体が淡い光を帯びていた。金髪、薄桃色、黄緑など、髪の色も目の色もそれぞれ違い、中にはラメのような粉をまとった子もいる。
「愛し子だから、いっぱい妖精が集まってくるの?」
「ああ。僕以外にこんなに懐くのは初めて見た」
妖精の一人を指先に乗せ、ヴァルラントはふと顔をしかめた。
「だがそうなると、ひとつ気がかりなことがある」
「気がかり?」
「勇者が愛し子という話は聞いたことがない。聖女や召喚士といったほうがよいのか?」
「……そんなの知らないわよ」
勇者にせよ、聖女にせよ、どれも前の世界では関わりがない。
異世界召喚されたからといって、不思議な力に目覚めた気配もない。あくまでも、自分は自分だ。他の何物でもない。
しかし、ヴァルラントは頭を振り、生真面目な様子で続けた。
「君の職業だ。ふさわしいものがいいだろう」
「言っておくけど、勇者なんて無理だから。剣も魔法も使えないし、まして誰かを殺める真似なんてできないわ。聖女って柄でもないし、召喚士もピンとこないし」
どの職業も自分には不釣り合いだ。
だがヴァルラントには予想外の答えだったらしく、目を丸くしていた。
「だったら、どうやって生計を立てていくつもりだ?」
「え?」
「働けなければ、食べ物に困るだろう?」
花音とヴァルラントの視線がまっすぐに交差する。
「……あなたが保証してくれるんじゃないの? わたしを召喚したんだから」
「そうか。そういう話になるのか」
「まさかとは思うけど、わたしが役立たずだったら追い出すつもりだった、なんて言わないわよね? こっちの都合もお構いなしに召喚した挙げ句、期待外れなら野垂れ死んでも自業自得って?」
危機的状況だからではなく、なんとなく召喚した男だ。きっと、召喚後についても深く考えていなかったに違いない。
胡乱な目つきを向けると、焦ったように早口で弁解してくる。
「ま、待て。いくら僕でも、そこまで鬼畜ではないつもりだ。……衣食住は、僕が保証する。呼び出した者の責任は取ろう」
「でも、あなたが用があるのは勇者様だったんでしょ? わたしはただの女子高生よ。あいにくだけど、期待には応えられないわ」
淡々と言い募ると、ヴァルラントは気圧されたようにたじろいだ。視線を横にそらしながら、何かを考える素振りを見せた後、ごほん、と咳払いをした。
「それなら……」
だが彼が言い終える前に、大地が震えた。
廊下のサイドテーブルにあった花瓶がぐらりと揺れる。ヴァルラントが指を動かすと、花瓶は空中にふわりと浮いたまま静止する。それでも揺れは収まらず、「あわわ」と体のバランスを崩しかけた花音は、大きな腕に肩をつかまれて引き寄せられた。
そのままヴァルラントの腕の中で、花音は身をすくませる。
「な、なにこの揺れ!?」
「攻撃を受けているようだ。連中はどうやら待ちきれなかったらしい」
揺れが収まると、密着していた体がそっと離れる。
かと思いきや、今度は流れるような動作で右手を取られる。花音が疑問に思う間もなく、視界が白く染まり、景色が変わった。
「ここ、どこ……?」
「城の中庭の上空だ。ほら、あれが王国軍。大砲を使って攻撃しているようだな」
まるで「今日の焼きそばパンもうすぐ売り切れそうだったよ」くらいな気楽さで言われ、血の気が引いた。
武器を構え、鎧をまとった兵士たちがずらりと並ぶ。想像の二倍、いや三倍はいる。幸か不幸か、相手に魔法使いの姿は見えないけれど、こちらは防戦一方だ。簡易結界はあるようだが、迎撃できる人間はヴァルラント以外にいないのだろう。
人数も士気も、どう考えても、こちらが圧倒的に不利だ。
「……ど、どうするのよ。あなた魔王なんでしょ。退治されちゃうんじゃないの? 丁重にお帰りいただく魔法はないの?」
「できなくはないが、加減が難しい。下手をすれば、この城ごと竜巻で木っ端微塵になる。それでも構わないなら、やるだけやってみよう」
「はぁあ!? 何その迷惑な破壊力は! そんなことになったら、わたしたちも無事じゃ済まないでしょ。却下よ却下! ポジティブなのはいいけど、考えなしに行動するのはやめてよね。戦う以外の方法はないの?」
「ない」
魔王と呼ばれた男は、哀愁を漂わせるどころか、開き直ったように清々しい顔で即答した。
花音は無言で笑みを深める。こちとら聖母でもなければ、慈愛に満ちあふれた女神でもない。ごく普通の女子高生だ。
声が刺々しくなるのは、もはや自然の摂理である。
「ああ、そうだったわね。でもさ。魔法を極める前に、他にやるべきことがあったんじゃない? 何百年も引きこもっていて、社交スキルはゼロ、使えるのは雑すぎる巨大魔法、極めつけには召喚する相手を間違える……どう考えてもポンコツ以外の何者でもないでしょうが!」
「さすが勇者。ぐうの音も出ない」
「……はっ! ちょっと待って。このままだと魔王の仲間だと思われるわよね? ってことは、巻き添えで討伐されるってこと!? どうしてくれるのよ、わたしの人生……っ!」
ここが上空でなければ、彼の両肩をガクガク揺さぶっているところだ。
「話せばわかる。たぶん」
「ちょっと、わたしの目を見て言いなさいよ! 余計、不安になっちゃうでしょ」
狼狽している自分のほうがおかしいのではと思うほど、ヴァルラントは冷静だった。きっと、彼にとってこういう事態は珍しくないのだろう。
彼が心の中で何を考えているのか、出会って間もない花音には、まだわからない。
(わかることは、状況が確実に切迫していること。ヴァルの口ぶりから察するに、すでに話し合いでどうにかなる段階は過ぎていること。……そして、無力なわたしができることなんて、何もないってこと)
もしも、彼が望んだ勇者としての力があれば、まだ一発逆転の可能性もあったかもしれない。けれども、異能に目覚めた気配もないこの現状では。
(愛し子なんて呼ばれたって、魔法ひとつ使えないのに。一体どうしろって言うの。もうやだ、帰りたい。元の世界に──……)
花音がそう強く願った瞬間、足元に花型の魔方陣が咲く。蝶の鱗粉のように光の粉が周囲を埋め尽くし、ぎゅっと目を閉じる。
喧騒が遠のいて、おそるおそる瞼を開ける。
目をパチパチさせるが、眼前に広がる景色は見慣れた校舎だった。後ろには小ぶりな古い鐘がある。狭い空間に二人、手を繋いだ状態でそこにいた。
「……え?」
「ふむ。見たことのない景色だな。城より少々低いが、ここは見晴らしがいい」
「わたし……。本当に、戻って、きたの?」
それを裏付けるように、遠くからランニングをするバレー部の声が聞こえる。懐かしい放課後の光景だ。体育館の横の講堂は真新しい。創立百周年で建て替えたばかりなのだ。
どこを見ても見知った景色。夢でも幻でもない、紛うことなき現実だ。
元の世界に戻ったことを確信し、花音は胸を撫で下ろした。
その様子を見ていたヴァルラントは、納得したように顎に指を添える。
「なるほど。僕は君の世界に招かれたのか。おそらく愛し子の力を使ったのだろう。君には驚かされたが、助かった。礼を言う。君は命の恩人だ」
「……ご、ごめんなさい。あなたまで連れてくるつもりじゃなかったんだけど」
「あの場に残されるほうが困る。君の判断は間違っていない。──やはり、カノンは僕の勇者だったな」
万感の思いが込められたような響きに、口の端が引きつる。
とんでもないことを言われる予感しかしない。耳を塞ぐべきか否か。それとも相手の口を塞ぐべきか。真剣に悩んでいると、ヴァルラントが訳知り顔で頷く。
「ふっ、案ずるな。新たな職を探し、僕の生涯をかけて君に尽くそう。ちゃんと責任は取る。不自由な思いはさせないし、一人きりにもさせない。死ぬまで一緒だ、勇者殿」
とびきりの笑顔を向けられて、花音は絶句した。
異世界で言われるのと、元の世界で言われるのとでは意味合いがまったく異なる。
(ねえ待って!? こんなの、もはやプロポーズじゃない……!)
その場にうずくまり、熱くなった頬を両手で押さえる。
ヴァルラントもかがみ、目線を合わす。
「いきなりどうした? ああ、転移酔いかもしれないな。どこか休めるところを探そう」
こちらを気遣う声はどこまでも優しかった。
どう返事をすればいいか逡巡している間に、目線がぐっと高い位置になる。数拍の間を置いて、自分がお姫様だっこされていることに気づいた。
色白で筋肉量は少なそうなのに、軽々と抱きかかえられている事実に目を剝く。安定感はあるので落とされる心配はなさそうだが、この格好はどうにも落ち着かない。漫画で読んだときは「ひゃああ!」と枕に突っ伏して乙女らしく叫んだものだが、現実でやられると、ときめきよりも怖さが勝る。地面が恋しい。
あわあわしていると、不意に大事なことに気づく。
見知らぬ男に横抱きされている現場を、もしもクラスメイトに目撃されたら。
(やばい、どころじゃない……)
想像するだけで羞恥で死ねる。
噂は学園中を駆け巡り、背びれ尾びれがついた状態で、花音は友人やクラスメイトから質問攻めに遭うだろう。逆の立場なら嬉々として根掘り葉掘り聞く側にいくが、答えるまで帰さないと言われる側はご免被る。
「じ、自分で歩けるから……っ! おろして!」
「そんな悲愴な顔で言われても説得力に欠けるな。大丈夫だ、うっかり落とすようなヘマはしない。僕を信じろ」
「ち、ちが……っ、そういうことじゃなくてね。いいからおろして」
「はは。カノンは表情がくるくると変わって可愛いな」
「……かかかか、可愛い……?」
「ああ。可愛い」
至近距離で「とても愛らしいな」と感慨深げにつぶやかれて、ボンッと首から上が火を噴いた。腕の中で暴れる気力も消え失せ、ぐったりとうなだれる。
ヴァルラントは満足げに花音の額に唇を寄せた。
◇◆◇
かくして異世界召喚された少女は、魔王と呼ばれた男を連れて元の世界に戻った。
彼らの物語はまだ始まったばかり。「勇者ではなく花嫁だったな」と気づいたヴァルラントが改めて求婚するのは、もう少し先の話。
ブクマ、★マーク評価などをいただけますと、執筆の大きな励みになります。