シーン7:囁き
その夜、討伐依頼の疲れが体に残る中、私はひとりで夜風にあたっていた。
静まり返った庭に出て、ふと見上げた夜空には、雲間から月が顔を出していた。
そのとき、気配もなくノクスが現れた。
黒い毛並みが夜に溶け込み、まるで最初からそこにいたかのようだった。
「ルカからの手紙、どうだった?」
相変わらず不思議な猫。私は小さく笑って頷いた。
「……やっぱり、あなたが運んでくれたのね。ありがとう」
ノクスは何も言わず、月を見上げた。その仕草がどこか人間じみていて、私は一瞬、言葉を失った。
ノクスのことを、初めて「ただの猫じゃない」と思ったあの夜のことを思い出す。
継母にひどく叱られて、庭で泣いていた私。孤独と無力感で押しつぶされそうになっていた。
そんな時、耳元で囁くような声がした。
「泣かないで、エレナ」
驚いて顔を上げると、そこにいたのはノクスだった。
ただの飼い猫だと思っていた彼が、初めて私に言葉をかけた瞬間――その不思議さよりも、なぜか安心感が勝っていた。
あの声に救われた。心の奥にある闇の力が、少しだけ静まったのを感じた。
それから、ノクスは徐々に言葉を話すようになり、私は彼に頼るようになっていった。
ある日、「友達を連れてきた」と言って紹介されたのが、赤い瞳のカラス――モーヴェ。
「泣いてても、何も変わらないぞ、エレナ」
その冷たくも現実的な言葉に、私は背中を押された。
立ち止まってばかりの自分を、ようやく前に進めたのは、あの時のモーヴェの一言だった。
それでも、あの金色の瞳のカラスの影は、今でも私の中に残っている。
闇の魔力が暴れそうになるたびに、あの視線が蘇る。あの存在が、私の運命を狂わせたのではないか――そんな思いが、ずっと消えない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ノクスがまた口を開いた。
「エレナ。君は、イリスといることで本当に満たされているの?」
不意を突かれた。私は少し間を置いて、静かに問い返す。
「……何が言いたいの?」
ノクスはじっと私を見ていた。その瞳に、哀しみのような光が浮かんで見えた。
「いや、ただ……君の目は、どこか寂しそうに見えるから」
胸がわずかにざわめいた。
イリスと共にいることで、確かに私は強くなった。孤独も前ほどではない。
けれど――それだけでは、何かが足りていない気がする。
「私は……」
答えは出なかった。言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。
「イリスは君を強くしようとしている。だけど、君が本当に求めているものは、それだけなのかな?」
ノクスはそう言い残して、背を向ける。
黒い尾がゆらりと揺れ、やがてその小さな姿は夜の闇に消えていった。
私はただ、その背中を見送るしかなかった。
使い魔としてのノクス――それだけのはずなのに、あの言葉が、妙に心に引っかかって離れなかった。