シーン5:今まで
風が吹き抜ける古道を、ノクスとモーヴェと並んで歩いていた。
空は薄曇りで、遠くの山並みがかすんでいる。冷たい風が頬をなぞり、木々の葉がかすかに揺れた。
その風が、ふいに春の匂いを運んできた。
あの庭の、あの午後――
遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がして、私は立ち止まり、振り返った。もちろん、そこには何もない。だが、胸の奥に温かい光が差し込んだ。
花が咲き誇っていた。柔らかな日差しの下で、私は確かにそこにいた。
父の笑い声。庭の草の香り。レイラの手にしたカップのぬくもり。
それらは音もなく蘇り、私の周囲を包み込んでいく。
「エレナ、お前は特別だ。この力を恐れる必要はない」
父の声が、風の中に混ざって聞こえた気がした。顎髭をいじりながら微笑むあの顔が、すぐそばにあるようだった。
あの庭に咲いていた白い花――
今も、その花を見るたびに私は、もう戻れない日々を思い出す。
足元の土がやわらかく沈んだ。道の端に咲く野花が、春の風にそよいでいる。
その揺れが、ふと誰かの揺れるスカートの裾を思い出させた。
「姉さま、それ、似合ってる」
声が跳ねていた。あれは……ルカ。まだ幼かったころ。
あの子はいつも、私の後を追って笑っていた。誇らしげに、私の手を握って。
あのとき私は、笑って返したのだろうか。
それとも、ただ俯いていたのか――思い出せない。
でも確かに、その温もりは手のひらに残ってる。
ひとひらの花びらが風に乗り、道を横切った。
それを目で追ううち、目の前の風景がゆっくりと溶けていく。
耳の奥で、誰かの呼ぶ声がする。
「エレナ――戻ってきて。大丈夫、ここにいるわ」
それは、誰の声だったのか。ルーミエか、それとも……
私は、もう一度だけ振り返る。
過去にではなく、今の私が立っているこの道に。
あの時、まだ父がそばにいてくれたころ。
心の中で、あの穏やかな声が静かに響いている。
父がまだ生きていた頃――あの時間が、私の人生でいちばん輝いていた。
彼は私の魔力を、一度も恐れなかった。むしろ、それを誇らしく思っていた。
私が怯えないように、傷つかないように、いつも優しい声で語りかけてくれた。
「エレナ……お前は特別だ。この力を恐れる必要はない」
あの声が、今も私を支えている。
父はいつも、顎髭をいじりながら真剣な眼差しで話す癖があった。春の庭で、白い光に包まれたあの日も、彼はそうやって私に微笑んでいた。
父のその笑顔があれば、私は自分の力を信じられた。前に進める気がした。
あの頃、レイラともよく一緒に過ごしていた。庭で小さなお茶会を開いて、未来の話をして、くだらないことで笑いあって。
何の根拠もなく、ずっと幸せが続くと思っていた。レイラの笑顔を見ると、今でも胸の奥に温かいものがよみがえる。
白い花が咲いていた、あの庭。あの光景は、今も私の記憶に色鮮やかに残っている。
あのときは、世界が優しくて、未来は果てしなく広がっていた。
……でも、それは突然、終わった。
ある日、あの庭に、奇妙なカラスが降りてきた。
それを見た瞬間、胸の奥にひやりとした何かが走った。
まず、音が消えた。
風のざわめきも、レイラの声も、すべてが途切れた。まるで世界ごと沈黙に飲み込まれたようだった。
そのカラスは、金色の目をしていた。
普通の鳥じゃない。視線を合わせた瞬間、頭の奥が軋むような音を立てた。
視界が歪み、そのカラスが異様に大きく感じられて、私は動けなくなった。
耳の奥に、ぞわりとした音が響いた。言葉じゃない、でも意味だけが直接流れ込んでくるような……そんな感覚だった。
何かが、私の中に侵入してくる――そんな確信があった。
目を閉じても、あの金色の目が焼きついて離れなかった。
振り払おうと頭を振るけれど、ダメだった。
気づけば、手が勝手に魔力を集めていて、けれど何も放てなかった。
動けない。声も出せない。
そのカラスに見つめられているだけで、心が凍りついていく。