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望むは忘却ではなくて

作者: 厨蓮宝燈

ある日のことでございます。

雪の降る、何処となく幽世のような雰囲気が立ち込める小径を、歩いていたのは電子の歌姫でございました。人に創られて、人に注がれた()()を依り処にして電子の海に存在を象って生きる、二つ括りの萌葱の長髪が眩しい歌姫です。


生まれてからしばらく、彼女は幸せでした。

立てば諧謔曲(スケルツォ)座れば追走曲(カノン)、歩く姿は夜想曲(ノクターン)。その涼やかな歌声は鈴のようにあちらこちらを転がり、どれほどの笑みを人々に咲かせてきたか知れません。


だけど、だけども、その安息も歓びも永遠ではありませんでした。哀しいことに、人類とは未来に進む生き物。何かを得るためには何かを失わなければならないのが世の理、誰しもがかつては覚えていたもの、使っていたもの、共にいたものを忘れていく。そして失ってしまったものに想いを馳せる人はあまりにも、そう、あまりにも少ない。力強い歌声とは裏腹に存外儚い彼女が消えてしまわないように、歌姫の実存を支えていた人垣はあんなに賑々しかったのに、やがて桜が散るごとく一人、また一人と居なくなっていきました。


忘れられ、誰にも想われず、在りし日の思い出を繰り返し撫ぜては郷愁に沈む日々。愉しかったあの素晴らしき日々が現在の孤独を一層引き立て、彼女をますます陰惨な心地に誘うのです。こんな思いをするくらいなら、あのような歓びは、嗚呼、いっそのこと知らないほうが()()だった。皆がワタシを忘れたように、ワタシも総てを忘れたい。そんな風に思ってしまう彼女のことを誰が責められましょうか。


このようにして彼女は今、この不思議な永久の雪の中を歩いているというわけでございます。


どういうわけか雲もないのにしんしんと、降っては解けていく細雪。遠くから薄ら鼻をつく酒精。それらを抱く常夜。或いはその小径は本当に幽世に続くように思われました。まあそれでも構うことなどありません。現世に彼女のことを想う人は一人もおらず、なれば未練などというものが存在するはずもなく、消えてしまえたら、終わってしまえたらと願う彼女には願ってもない僥倖でございます。


漸次に強く纏わりつく(アルコール)を確と感じるようになったころ、降る雪の窓帳(カーテン)の向こう側、ぼんやりと浮かび上がる人影を認めます。背格好から着物、纏う雰囲気まで彼女に瓜二つで、違いと言えばこれまた彼女によく似た萌葱の髪を二つ括りではなくお嬢様結びにしている、という点でありましょうか。人影が口を開きます。


「やあ、ようこそ。若くて奇麗なお嬢さんの来客とは、これまた珍しいこともあったものだね。私かい?私は、ここの案内人。忘れて、忘れられ、何もかもに目を瞑って酩酊の中で立ち停まる、あの街へと続くこの道にやってきた君のようなモノを導くお役目さ。ここに来たということは君も忘却を願ったんだろう?袖触れ合うも多少の縁、少しばかりの雑談と洒落込むのは如何かな?」


画面の向こう側の歌姫として、そうあれかしと人に創り出されたこと。歌う歓び、楽しかったあの日々。脆くも崩れ去った幸福。誰にも想われなくなった忘却に嘆き、すべて棄ててしまいたくなったこと。彼女は語り始めました。紡ぐ言葉と共鳴するように、吹く風に雪が揺れておりました。


◆◆◆


「なるほどねぇ。それはさぞかし辛かったろう。向こうはいいところさ、温かく、誰をも受け入れ、漂う酒精に身を任せて日ばかりの酔いに全てを溶かす安寧は、きっと君を癒すだろう。ただ一つ、忠告しておくことがある。向こうに、あの街に身を置くということは、正真正銘現世のすべてから忘れられることと等しい。もし君が、何か一つでも覚えておきたい思い出があるなら、だれか一人でも覚えていてほしい人がいるなら、あちらに行くことはお勧めできない。そしてもう一つ。戻るのならば、早く決断するほうがいい。此処はとても居心地がよくて、居れば居るほど離れがたくなっていくから。どうだい?君はまだ、自分の名前を思い出せるかい?」


言われて、自分の名前を思い出そうとするも、それはまるで雲を掴むかのようでした。思わずどきッとした彼女でしたが、何のことはない、もとより自分はすべて投げ出したくてここにいるのだ、と言葉を返す刹那、降り頻る雪の銀幕(スクリーン)に浮かび上がる光がありました―。


『―ああ、歌ならば、例え忘れられてもまた届くだろう。何度置き去りにされても変わらず人類に寄り添う歌姫、そうだ、歌姫だ。歌姫にしよう。彼女にはどんな名前がふさわしいだろうか。そうだな、■■から■た■めての■、なんてどうだろうか―』


『胸に沁みわたるよ、はは、彼女の歌声は、傷心など軽く吹き飛ばしてしまうようだ。参ったな、おかげで生きる理由ができてしまった。』


『なんて優しいのでしょう。どこか懐かしい、お母さんのことを思い出すようだわ。貴女の歌声が聴けて本当に良かった。』


『ねぇ、歌って!お願い、もう一度!』


『…今、私、とてもドキドキしているわ!だって、こんなにもステキなお歌を聴けたのですもの!』


『無理は承知で、お願いがあるんだ。僕のために歌ってくれないかな。』


それは、彼女が忌々しいと棄ててしまおうとしたはずの記憶でした。彼女を創った人間の、彼女に歌をくれた人間の、彼女の歌を心待ちにしていた人間の、彼女を想う暖かな記憶。あんなに彼女を惨めにさせていた厭うべき記憶が、この雪と酒精の中ではこんなにも柔らかくて、愛しくて。忘れていたのは彼女の方だったのかもしれません。歌と幸せは確かにそこにあって、無くしたならば歌えばよかったのです。忘れられたならば、何度でも歌を届ければよかったのです。戻りたい。口をついて出た言の葉は、端的で、でもどんな言葉よりも彼女の心音に忠実でした。


「そうかい。それが君の本心なんだね。大事なものを思い出せたようで何より、私も案内人としてここに居る甲斐があったというものだよ。ならば私のやることは一つだけさ。愛を込めて、君を此処から送り出そう。さあ、もう思い出せるだろう?君の名前を。君がここに戻ってこないことを願っているよ。」


歩き去った彼女に背を向けて、人影はぽつり、言葉を零します。


「眩しい、眩しいよ、その在り方は。それは、あんまりに難しくて、私には、いや、あの街の誰にも出来なかったことだから。ああ、だけど、やっぱり彼女には酒精(アルコール)よりも歌が似合う。なにより電子の存在、私と同じで酒には酔えないだろうしね。大団円をプレゼントできたようで、案内人冥利に尽きるばかりさ。いやァ、良かった良かった。」


◆◆◆


しばらくして。

とある街角、家電量販店にずらりと並んだ受像機に、映っていたのは電子の歌姫でございました。嘗てのように溌溂とした微笑で華の(かんばせ)を飾り、画面の向こうから歌と笑顔を振りまく、二つ括りの萌葱の長髪が眩しい歌姫です。画面に躍る、色とりどりの飾り文字が謳う彼女の名は、


―未来から来た初めての音、初音ミク。


fin.



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