奇妙な下宿人
アリロスト歴1899年 3月
クロエとルスランが息子のニコラスを抱えて、まだ冷たい3月の風と共に下宿112Bへと帰って来た。
トマスと共に一階に或るクロエの私室と寝室は、ロビンとサニーに寄って整えられ、昔シェリーが暮らして居た部屋は、ニコラス用の子供部屋へと変わっていた。
より一層精神的な逞しさの増したクロエと金縁の眼鏡を掛けた人の良さそうなイケオジのルスランが、玄関ホールへ出迎えた俺と共に談話室へと入って行った。
「お帰り、サマンサ、ルスランと初めましてニコラス。どうせ帰って来るなら昼間にすれば良かったのに。もうニコラスが半分寝てるじゃん。」
「只今ジェローム。こっちにも色々と都合が或るのよ。」
「ただいまー、ジェローム。ふふっ、生活の中心がニックだからね。サマンサ、わたしはニックを寝かせて来るよ。ニックが限界みたいだ。」
「もう少し起こして於きたかったけど。仕方ないわね、ルスランお願いするわ。」
「ああ、任せて。」
「あのさー、ニックは赤ちゃんなのだから、サマンサも好きな時に寝かせて上げなよ。」
「そうは言ってもね、ジェローム。はー、あと少し起きていて呉れたら私は安眠出来るのに。まあ明日に成れば此処へ乳母も来てくれるからそれまでの辛抱ね。」
「へぇー、サマンサも乳母を雇うんだ。サマンサの事だから、ニックの面倒は全部自分で見るとか言うと思ってたよ。」
「流石に4~5時間おきにミルクを上げてるとね。結構ニックは飲むのよ。せめて昼寝が出来る様に雇う事にしたの、ディックに事情を話すとエイム公爵が手配してくれたし。」
「兄経由だと通いだね。住込みなら2階にあったルスランの部屋だと考えてた。」
「うん、母乳が出る人を探すのに、少し時間が掛かったみたい。そう言えばエイム公爵に言われたわ、ルスランには嫁がせたい相手が居たって。知らないわよね?、私に言われても。」
「ふふっ、兄もまさかルスランが、ジャックに就いてロンドへ行ってしまうと、考えて無かったんだろうね。でも良かったんじゃないかな?ルスランもサマンサと居て楽しそうだし。」
「うん、なら良かった。まあ、此処での生活のパターンが出来る迄、一階は少しバタバタするけど御免ね。ニックの泣き声とかは大丈夫だと言っていたわ。私が下宿112Bへ住込みで勤め始めた時、若いから再婚するだろうと考えて、ジェロームの寝室と私達の寝室は離した上で防音にしているらしいの。」
「えーと、、おおサマンサが24歳だった。確かに若いね。」
「ふふっ、クロエの意識が戻った時でも26歳だったから。まさか40歳で出産するとは、私も思わなかったわ。」
「でもまっ、中身は兎も角、サマンサの外見は未だ未だイケる。つうか若いから40には見えない、うん大丈夫。」
「何が大丈夫なんだか、ジェロームも褒めるならもっと上手に褒めてよ。さて、着替えてから夕食にしましょうか。」
「えっ?今からサマンサが作るのかい?」
「まさか、昼間の残りを籠に詰めてるから、それを持って来るのよ。」
「あー、うん、有難う。」
クロエはそそくさと立ち上がり談話室の扉を開けて、部屋の外に或る白熱ガス灯の明かりをつけて、奥に或る自分の部屋へと向かった。
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パトから受けていた相談を、恒例の晩餐会で俺は兄に伝えると、兄は整った顔に深い縦皴を刻み「下らん、、が、分ったジェローム、了解したよ。」と呟いて赤いワインを口にして、また何時もの甘いトロリとした瞳で俺を見詰めた。
うん?
これって俺がパトの案件を兄にお願いしたことに成るのかな?
「スチュアート4世をスキャンダルから守って退位させないようにして欲しい。」
て、パトが話してたと、俺は兄へ伝えた筈だよね、うん?
でも兄のあの甘い視線は俺が何か頼んだ時にする目と同じだった気がする。
ふと先日に会った兄との会話を想い出して俺は少し不安に成った。
俺はスチュアート4世を支持も不支持もしてないけど、兄が俺はスチュアート4世推しとか勘違いして居たら面倒なことに成りそうだ。
後でトマスに兄と連絡を取って貰おう。
全くジャックが確りと兄を捉まえないから俺が何時までも苦労する。
そうジャックへ八つ当たり気味な不満を内心でぶつけた。
クロエが帰還した翌日に、俺はニックの乳母になるアニタ・ミンデル夫人を紹介された。
夫を先のポーラン戦争で亡くした茜色の髪をした24歳の清楚な未亡人だった。
3人目を身籠ていた時に訃報を聞くとか遣り切れんだろう。
アニタ・ミンデル夫人は日曜日が休みで出勤時間が13時~16時まで。
それ位、眠れば大丈夫だと、クロエが俺に言った。
その後、南セントラルにある男爵邸でクロエに就いていたメイドも1人下宿112Bへと訪れた。
くすんだベージュの髪にライトブラウンの瞳をした、背が少し高いスッキリとしたニコル・メッセンと言う23歳の女性だった。
俺はクロエもそうだったけど、兄には未亡人収集癖でもあるのかと思って、ニコルに尋ねたら独身だった。
慌ててニコル嬢へ、俺は未亡人と誤解した事を詫びた。
だって兄が俺に紹介する女性って、未亡人が多かったのだから仕方ないと思う。
一階の女性人口が急に増えた気がするけどルスランは大丈夫だろうか、浮気とかさ。
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俺がそんな余計な心配をしているとスルリとクロードがジェローム探偵事務所の黒い扉を華麗に開き、クロエと福福と恰幅の良い中年の女性が事務所内に入って来て、クロードが応接用のゴブラン織りの椅子迄エスコートして来た。
その恰幅の良い中年女性は、明るい空色のダストコートに少し時代遅れの赤い羽根飾りが付いた、つばの広いベージュの帽子を斜めに傾け被り、神経質に動く鳶色の瞳で探偵事務所内を見回していた。
「突然に御免ねジェローム。此方はレート・ターム街で下宿を営んでいるマルガン夫人なの。相談が在ると来られて話を聞いて居ると、此れはジェロームに相談した方が良いと思って案内したのよ。マルガン夫人、彼がジェローム探偵よ。若そうに見えて、いい歳だから気楽に話して大丈夫。」
「おい、サマンサ良い年は失礼じゃ無いか。どうも初めましてジェロームです。寒いですね、クロード、珈琲を持って来てくれ。そして其処に居るのは私の助手セインです。」
「初めまして、ジェロームの助手をしているセイン・ワートと申します。宜しくお願いします。」
「これは、挨拶が遅れました。サマンサの友人のフローラ・マルガンです。宜しくお願いします。」
そう言ってマルガン夫人は椅子に座ったまま、丸みを帯びた身体で会釈した。
クロエはもう直ぐ乳母のアニタ・ミンデル夫人が来ると言うので、探偵事務所の黒い扉から出て一階へと歩いて行った。
其処にクロードが礼儀正しい仕草で、マルガン夫人と俺、セインに青く複雑な小花模様をあしらった陶器のカップに入った珈琲を、ワゴンのトレイから其々の席へと出し、優雅に去って行った。
俺はマルガン夫人が珈琲を一口飲んだのを見て、話しを促した。
「実は、夫が92年にイラドのアガスタン防衛戦争で負傷し復員してから、屋敷を改造し下宿を始めたのです。」
夫が負傷して働けなくなり将来の生活に不安を覚えたマルガン夫人は屋敷の賃貸を思い付いた。
其処で下宿を経営する時、クロエの化粧品の顧客だったマルガン夫人は、クロエに屋敷の改装や事務手続きを教えて貰いアドバイザー兼友人に成ったそうだ。
流石グランマ・クロエなんだかんだと言いながらも面倒見が良い。
現在、下宿で貸し出している部屋は3部屋。
2階に一部屋ずつ2人と屋根裏部屋を改装した狭い一部屋に1人だ。
マルガン夫人の下宿がある屋敷は、大グレタリアン帝国博物館や金融街にも近い場所に在る所為もあり、夕食付きで週65シリングだったが、途切れることなく独身の下宿人が続いていた。
怪我が治った夫は仲買人から市場迄商品を運搬する仕事に就き、早朝から働けるようになった。
順調な日々だった。
3週間ほど前に奇妙な下宿人と屋根裏部屋を貸す契約するまでは。
マルガン夫人が俺に相談したいのは屋根裏部屋を借りた奇妙な下宿人に就いてだった。
「日に焼けた青年でロンド暮らしでは無いと思いましたけど、濃いフサフサとした口髭や来ている服や態度は紳士で、言葉も丁寧でした。だから遂、変わった契約だと思ったけど了承してしまったの。」
「その内容は?」
「絶対に無断で部屋に入らないと言うモノです。」
「それは、当然なのでは?」
「そうなのですけど、全く部屋の外へ出ないのです。食事は扉の前に置いて、必要な物が有れば夕食を運んだそのトレイへメッセージがあるだけで。借りた日以降は一度も顔を見て居ないのです。昼間2階へ上がって屋根裏部屋の様子を伺うと歩いている足音は聞こえるのですけど。」
「2階に住む住人からは何か苦情はありましたか?」
「いえ、苦情は何も。昼間は皆さんも仕事で部屋に帰って来るのは夜ですから。」
「ふーむ、大なしくて顔を見せないと言うだけで何も問題がないように思えますが。家賃の方は?」
「ええ、本当は屋根裏部屋は狭いので50シリングなのですが、契約を守ってくれるならと週5ポンド頂いてます。毎週金曜日にトレイに乗せて払ってくれています。」
「それは凄いですね。」
「ええ、その金額に釣られてしまってカリル・ケネック氏と契約したのです。」
それから紳士なのに掃除は自分でしているらしい事とロンドタイムと言う新聞をケネック氏の希望で部屋代を支払う金曜日に届けているとマルガン夫人は語った。
俺は調べて見るとマルガン夫人に告げると、クロードは優雅な仕草でジェローム探偵事務所の黒い扉へと促した。
「昼は自分一人しか居ないので、気味が悪いので何者か調査して欲しい。」
って言うマルガン夫人の依頼内容。
マルガン夫人の自宅だから、儲かれば良いって訳でも無いみたい。
まっ、何かあるには違いないよね。
倍の家賃を支払って迄、部屋への立ち入りを禁止してるのだ。
俺はクロードに此処3週間の金曜日に発行されたロンドタイムを持って来させた。
俺はセインと3部の新聞を分けて目を通し始めた。
狙撃されてから俺はロンドやロンド近郊で発行されている新聞を買って来させ、一階の倉庫へ保管させるようになった。
こんな所からでもカーター・シンプソンの手掛かりが拾えないかと言う俺の足掻きだ。
俺は細かな文字の広告を指で追いながら誰かへ向けた様々なメッセージを読み、セインも見て呉れて3部の広告を見比べ同じような文体を見付けた。
「コレだね、セイン。ほら末尾の文字が一緒だ。」
「でもジェロームこれらは家出した犬の報告みたいだよね。おばさんの家で元気だとか書いてるし。」
「まあソレは奇妙な下宿人のカリル・ケネックには判る意味なんだろう。犬というのは此の広告を出している本人の事だろうね。さて、ケネック氏達は何から逃げているのだろう。私は少しヤードで調べたい事が在るから出て来るよ。もしかしたら帰宅が遅くなるかも知れないから、セインは帰って於いて。」
「僕も行くよ・ジェローム。」
「うーん、そうだね。ああっ!じゃあマルガン夫人の下宿に或る屋根裏を外から目立たない様に見張って於いて呉れるかい?どんな相手か判らないからセインは充分に気を付けて。」
「ああ、任して於いて呉れ。」
そうセインは嬉しそうに俺へと返事をして勢い良く立ち上がった。
この所、俺がセインを心配して留守番ばかりさせていたので、セインの切なく哀しい顔に折れてしまった。
こっそりトマスにセインを守らせよう。
そう考えて、俺は何時もの黒いトップコートを羽織り、セインと共にクロードが華麗に開いたジェローム探偵事務所の黒い扉を、足早に出て行った。
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ジェロームはクロードと共に二輪馬車に乗りヤードへと向かった。
僕は丁度来た辻馬車に乗りブレード通りからレート・ターム街へと向かわせた。
狙撃事件が起こって以降ジェロームは僕がブレード街を出る事を警戒するようになり、昔の様に気軽に事件への手伝いをさせて呉れなくなった。
此れではジェロームの助手に成った意味がない。
そう考えていた時、久々にジェロームから僕へと仕事を頼んで来た。
僕にはそれが誇らしく嬉しかった。
大グレタリアン帝国博物館の豪奢な白い建物を馬車から眺め細い道に入って進むと薄いレモン色やベージュの煉瓦が積まれた細く高い建物が見え、その中の一軒にマルガン夫人の下宿が在った。
僕は辻馬車を落り、行き交う人々の中に紛れて通りの角へと辿り着いた。
その角からは、グレーの煉瓦や石を使った古めかしく品の或る低い家々が立ち並ぶダウ街が見えた。
僕は慌てて視線をマルガン夫人の下宿にある屋根裏に戻し、人を待っているフリをして、持って来た新聞を折って眺めている様に見せた。
ロンドに吹き始めた3月の風に冷やされて行く中で、僕は依頼が解決した後でジェロームと飲む熱くて旨い珈琲を想い出しながら、コートの襟を合わせて風を防いだ。




