オペラ喜劇・表
アリロスト歴1890年 1月
居間の飾り棚に大奮発をして購入したパルテの戦乙女のレプリカを置いた。
うん、其処の空気だけ香しい気がする。
そのことに満足し俺はジョンと珈琲ブレイク。
塩味のクラッカーと珈琲の組み合わせは不思議と合う。
この組み合わせの絶妙な旨さを教えてくれたジョンの珈琲には信じられない量の砂糖が入っている。
如何やら昔のロンドの珈琲ハウスではその量の砂糖入り珈琲が出されていたらしい。
その味に慣れたジョンには俺の淹れるティースプーンに一杯の砂糖では物足りないと話す。
「ジョンもウィルが領主館に居なくて寂しいだろ?」
「そうだな。此処まで長くウィリアム様と会わない事が無かったからな。ベラルド夫妻が生きていた頃はグラム本邸やイラド、ナユカ国へ共に付いて廻っていた。」
「それは申し訳ない事をしたな。俺にはレコが居るし遣る事も多いからジョンもウィルの元へ戻って良いよ。そして偶に遊びに来てくれると俺も嬉しい。」
「ふふ、それは中々に魅力的な提案だが遠慮しよう。ウィリアム様からウェットリバーに居る間はジャックが変な事に巻き込まれない様お前を守れと命じられてるからな。」
「それって監視かよ。大体俺は男だし守られる必要なんてないぞ。」
「俺よりひ弱なジャックが何を言っている。」
「いや世の中の大半の男がジョンよりひ弱だろうが。」
傷のある顔に大きなしわを寄せてジョンは笑う。
フロラルスの宮廷貴族もそうだったが、此処グレタリアンでも領主は居なくともランド・スチュワードやバトラーが居れば領地運営が出来てしまう。
上級使用人て無茶有能じゃねーかと俺は感心する。
ベラルド伯爵家のような歴史ある貴族家には代々彼等の様な有能な上級使用人がいる。
このような存在が貴族家ランクのステイタスだな。
ただ現在は労働者が土地に縛られなくなり、雇用形態が変化しつつある状況なので、準貴族家(地主)から高額な手当てが必要な男性使用人が減少していた。
まあ脚の形が綺麗な見栄えの良い若い男は従僕としてロンドでも引っ張りダコらしい。
俺には男に関しての審美眼が欠如しているので脚線美については理解不能だ。
うん。
飾り棚のパルテの戦乙女がとても麗しい。
さて緑藍から届いた懇切丁寧な手紙の書き方マニュアルを俺は素直に屑籠に捨てた。
俺はアルフレッド時代の反省として手紙や手記は残さないと決めていた。
流石に表に出回っては不味いモノは出版されて居なかったが、『英雄レオンハルトとエル公爵ー愛の往復書簡』、『プロセン哲人王フリード2世からの手紙』などエーデンのサディ馬鹿陛下やオーリア帝国の義兄ランツ3世の往復書簡本なんぞを眼前に並べられた時の羞恥を俺は忘れない。
あの時に誓ったのだ。
今世では記録に残されるような物は記さないと。
それにあの時は真剣に俺も悩んでいたのだ。
緑藍を応援するか如何かを。
緑藍は今、甘酸っぱく成りそうな恋の手前に居る。
「頑張れ」
そう背中を押したい気持ちが約1%。
止めろと後頭部から鉄アレイを投げたい気持ちが約99%。
うん。
俺は緑藍に、ほぼストップ掛けたい。
だって相手はあの純朴なシェリーだよ。
エロイ事に関してはフリーウェイな緑藍が、シェリーとの恋を成就させたとして、シェリーだけの単線道路にするとは思えん。
俺としては明るく健気なシェリーには、出来れば健全な相手と微笑ましい交際をして欲しいのだ。
貴族を止めて政略結婚路線を外れたのに、婚姻に関して事故物件な緑藍を近付けたく無い。
婚約者が居なければ可愛い曾孫ウィルの嫁にマジでしたかった。
それに緑藍は男を口説いた事があっても女を口説いた事はないと俺は確信している。
フロラルスでは勝手に貴婦人から緑藍の寝所へ侵入されてしな。
そう言う訳で俺が後押ししない限りはセフセフに成るのでは?と期待している。
なので俺にハウ・ツー・メイル本は不要なのだよ、緑藍。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
アリロスト歴1889年 12月
折角、シェリー達にプレゼントを渡そうとしたクリスマス前夜をパトに寄って台無しにされた。
パトは握り締めて来た皺くちゃになっている大衆紙を俺の目の前で広げて「読んでくれ」と喚く。
仕方なくパトが指示した記事に俺は目を通す。
「議員で作家の同棲相手死亡。犯人は某作家?」
と書かれ、そして詳細な遺体発見後のパトの様子の記載がある。
この記事を読むと確かにパトが容疑者と言えない事も無い。
「まあでも此の記事だとパトの名前も出て居ないし訴えるのは無理だと思う。」
「でもこの記事の所為でアパルトメン住人からも舞台スッタフからもヒソヒソ噂されるし、エンプソンさんからは生活態度を改める様に叱責されるし。同棲相手の元夫からは訴えられるし。」
「エンプソン氏が誰かは知らないけど俺も彼の意見に賛成。丁度いい切っ掛けだから彼女の喪に服して自粛すれば?暫くすれば噂も消えるよ。じゃあお疲れパト。良いクリスマスを。」
「待てよジェリー、俺は此の情報を大衆紙に売った相手を調べて欲しいんだ。新聞社も教えてくれなかった。誰も居なかった筈なのに俺の様子が書かれていて気持ちが悪いんだよ。」
「--------うーん、その部屋が隣室と接しているのは?ザっと間取りも描いて。」
「ああ、、、、よし、そして此処の左隣だな。でも、そんな、、、。」
「うん、此処から見える情景描写に間違いはないだろう。そう言う訳でその部屋は使用禁止にすれば良いと思うよ。文句を言いに行っても開き直られたら如何にも出来ないしね。うん?」
「そんなエンプソンさんがまさか、、、。」
「知り合い、つかエンプソン氏の部屋なのか、左隣。」
「ああ。」
昔パトと付き合って居た相手で別れた後は友人としての付き合いだそうだ。
パトが住んでいる集合住宅の家主だった。
手頃な部屋を探している時に声を掛けてくれたらしい。
人間不信に陥ったパトは憔悴した顔で12月の凍える暗い路へと去って行った。
パトに取っては同棲相手に死なれるよりも友人に裏切られた方がショックが大きいようだ。
長い話を聞かされたお陰で既に深夜2時を過ぎていた。
食欲の失せた俺は其の侭寝室へ行き疲れた身体をベットに横たえ深い眠りに落ちて行った。
翌日の夕方に目覚めクロードに珈琲を淹れて貰い葉巻を口に銜えた。
そしてクロードは俺に珈琲を出しながら淡々と告げた。
「折角のクリスマスなので、サマンサ様とシェリー嬢は、マーサ夫人の家で今夜は過ごされるとの事付けがございました。ジェローム様、クリスマスの晩餐は如何為さいますか。」
「、、、、、。」
年が明けて、何となく気まずい俺はジャックからだと言って青と赤のハーブオイルを2人に贈った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
アリロスト歴1890年 1月
友情に後ろ向きになったパトだが、感謝の気持ち迄失わなかったようで、俺に先日の礼としてロンドで人気のオペラ歌手リリー・マグリット主演のチケットを、感謝の言葉と共に郵送して来た。
壁沿いにある机に向かいセインは、俺に附き合い携わった事件についてシェリーを見習い、新たに買ったノートへと書き記している。
「セイン、パトからリリー・マグリットのチケットを貰った。明後日、金曜日の夕方にエピロード座まで一緒に観劇しに行こう。」
「あのパトリックからか?」
「まあ、そう嫌な顔をするなよ。リリー・マグリットのチケットは、俺でも手に入れるのは難しいんだ。折角なのだから楽しもうぜ。」
俺からパトの名を聞いて露骨にセインは顔を歪めた。
俺の意識が目覚める前に、俺に関わって来ていたセインをパトは面白がって揶揄って居たのだ。
それほど酷い事をパトは言って居ないのだがセインには苦手意識が在るらしい。
どっちかと言うとジェロームの方が、セインの人格を攻撃する酷い台詞をぶつけていたのだが、不思議なものだ。
「ロレンスの結婚」と言う演目は18世紀後半に描かれた喜劇オペラ。
浮気者の伯爵が家臣の妻を見初め「初夜権」の復活を目論み、それを阻止する妻や家来たちの攻防を喜劇で描いている。
リリー・マグリットが主演の妻役を演じ、夫の心変わりを嘆く歌から、恋していた時の瑞々しい想いの歌まで曲調の変わる多くの歌を4幕の中で歌う。
緑藍の時には余り楽曲興味が無かったが、ジェロームの中で目覚めてからは、グレタリアンで聴く音楽は何故か耳に馴染む。
俺なんかは初夜権などあったら面倒じゃんと思うけどね。
それでも70年前までは上演禁止だった事を考えると割と切実な話だったのかも知れないな。
ジャックはリアル嫁、詰りアルフレッド時代にアンジェリーク妃達とオペラは3回見た位だと言っていたから「ロレンスの結婚」についての逸話とか知っていそうに無いな。
憶えていたら今度ジャックに会った時に聞いて見よう。
そして金曜日。
少しめかし込んで俺とセインの2人は、底冷えのする宵闇のロンドをエイム公爵家の馬車に乗り、デイリー通りに在るパラディオ様式で建てられたエピロード座へと向かった。
多くの観客が華やかな出で立ち姿で、其々の席へと案内され、騒めきと舞台に対する興奮で、空気は熱されていた。
軽やかな曲と共に演者が登場し、やがて主演のリリーマグリットが伸びやかな歌声と共に登場。
美しい黄金の髪に耳に飛び込む素晴らしいソプラノ。
パトがべた褒めして居たのも頷ける。
ドタバタ喜劇の「恋は蝶々のように」の曲が謳われて2幕が終わり休憩に入った。
舞台美術や照明も素晴らしくセインと讃え合って居た。
すると休憩中に背景が描かれた薄い幕が降りた舞台袖で甲高い悲鳴が聴こえてきた。
俺は思わずセインと目を見合わせた。
「如何したのだろう。」
「さあ、その内にエピロード座から何か話してくれるさ。」
「何か事件じゃ無いよねジェローム。」
「セインそう言うのは言葉に出したら駄目なんだぞ。」
ガヤガヤとする観客の声に押されてエピロード座の人間が舞台に立ち主演のリリー・マグリットが急病の為舞台中止と成ったことが告げられた。
「急病だって良かったね、ジェローム。」
「、、、ああそうだな。」
今夜のチケットを持って居れば、料金の払い戻しの対応を何時でも可能と講演者に挨拶された。
そして俺達は靄もやとした気持ちを抱えノロノロと歩いて馬車へと向かった。
俺とセインは、2幕迄の完璧なリリー・マグリットの演技と歌声、終幕が見れずに残念だった想いを話し合いながら、闇と霧に包まれたロンドの街をブレード通りに向かって馬車を走らせた。
遅くに起床し俺はガウンを羽織って扉を開き探偵事務所に入るとセインが既に来ていた。
俺が入室したのに気付いたセインは焦った声で話し掛けた。
「リリー・マグリットが昨夜、殺害された。犯人は準主役のオデットらしい。」
「えっ?」
「それは残念だ」と俺は思った。
あの美しい歌声がもう2度と聴けないのは。
リリー・マグリットとは違う若々しい歌声の準主役オデットを想い出していた。
衣装やメイクの所為も在るのかも知れないが可愛らしくリリーに仕える小間使いの役を演じていた。
2人で重なる歌声は悪くない物だった。
可笑しいな。
リリー・マグリットに対してオデットはそれ程の殺意等を俺は感じなかった。
「ほら、此処に書いてあるだろ。ナイフで胸を刺され血塗れの右手の中にはオデットと書かれたメモを握っていたのが見つかった。」
「うん、書いてあるね。でも詳しい情報はマダみたいだね。」
「ヤードに行ってみるか?」
「そうだな、でも先ずは珈琲を飲んでからだな。セインも飲むだろう?」
「ああ、来る途中で記事を見掛けて急いで来たから飲み物が欲しかった。」
俺は側に立つクロードに珈琲を淹れるようにと頼んだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
【僕がパトリックを嫌う理由】fromセイン
僕は本当に気付かなかったし、気付きたく無かった。
だがパトリックはたった2回会っただけで僕に言ったんだ。
「其処まで嫌がれても構い続けるのはジェロームに触れていたいだけなのだろ?単純にジェロームを抱いてやれば良いのに。ワンコの癖に小難しいのな。」
その言葉を聞いて、僕は血液が激流の様に体内を駆け巡ったのを感じた。
才能ある美しい僕の後輩を馬鹿にするなと怒りも湧いた。
パトリックの言葉が真実を衝いていたと気が付いたのはジェロームが僕に詫びに来た日。
友人でいたいと話してくれた時嬉しくて激情のままジェロームを抱き締めた。
そして気付いた。
知ってしまった。
パトリックの言った言葉の意味も、僕の想いも。
あの日以来僕はジェロームからパトリックの名を聞く度に血が逆流する様な怒りが湧いてくるのだ。




