70
金曜日の夜、いつもの時間に居酒屋に行くと砺波さんが先に来ていた。
そして、何故か私の定位置に誰か知らない女が立っている。背は低めで古着で売っていそうな柄物のワンピースを着た女だ。
「やっほ、砺波さん」
平静を装い、いつもの場所より少しだけ右に寄ってカウンター席に立ち、砺波さんに話しかける。
砺波さんと隣にいる女が同時に私を見てきた。
背が低く、乳がでかく、たぬき顔。男ウケの擬人化のような女がそこに立っていた。
「こんばんは、氷見さん」
「あー……こ、この人は……」
嫌な予感がして言い淀む。2人の手には同じデザインの指輪がついていたからだ。
「この人? 婚約者なんだ」
「こっ、婚約者!?」
「うん。俺ももういい歳だし。そろそろ身を固めようかなって。ほら、氷見さんは大事な友達だから一番に紹介したくて」
エッ……エッ……友達!?
動悸が早くなって目の前が真っ暗に――
ガバっとベッドからずり落ちる。
「ってて……」
寝ぼけ眼でベッドに上がり直し、スマートフォンで時間を確認。『x/xx(金) 4:45』と書かれていた。これで4のゾロ目はメンタルがやられてしまいそうだ。
「ギリギリ耐えた……」
日付を見てゆっくりと太陽が昇った後の予定を考える。
今日は金曜日。砺波さんと飲む日。先週は2人だったはずだし、程々の酔い具合だったので記憶の欠落もない。
よって、さっきのはただの夢、もといただの悪夢だ。
「悪夢……? いや、普通に悪夢か。ただの友達なわけないっしょ。うんうん」
自分にそう言い聞かせ、もう一度布団を頭から被って架空の砺波さんの婚約者を脳内でしばき回す夢を見れないかと思いながら二度寝に入った。
◆
金曜の夜、仕事を終えていつもの居酒屋に行くと氷見さんが先に来ていた。
氷見さんは珍しく花柄のワンピースなんてものを着て一人で待っていた。
「お待たせ」
「うん。今来たとこ」
俺を見て無表情に頷く氷見さんはいつも通りの雰囲気だ。
「服、どうしたの? 珍しいね」
まさか誰かとデート? と嫌な考えが頭をよぎる。
「たまには気分転換もいいかなって」
「あるよね。そういう時」
「砺波さんもたまにはスーツ以外着てみたらいいじゃん」
「会社のルールが厳しくてさ……オフィスカジュアルもしづらい感じなんだよね」
「ふぅん……」
氷見さんは焼酎のグァバジュース割をグイッと飲むと俺の方を向いて距離を詰めてきた。
「なっ……何か?」
「砺波さん、いい年だよね? 結婚しないの?」
「急に親みたいな事言いだすじゃん……」
「で、しないの?」
「しないよ……ってか相手もいないし……」
「ふぅん……たぬき顔で巨乳で古着屋で売ってそうな花柄のワンピースを着た男ウケの塊みたいな婚約者候補はいない?」
「やけに解像度が高い架空の婚約者だね……」
「いない?」
氷見さんが言質を取るために真顔で詰め寄ってくる。
「い、いないよ……」
「良かった」
それをきっかけに氷見さんは定位置に戻っていった。
「何かあったの?」
「いや……まぁ……あったといえばあったんだけど……」
「どうしたの?」
氷見さんはじっと下を向いていたがやがて顔を上げて俺の方を見てきた。
「夢を見たんだよね」
「夢?」
「うん。夢の中で私が砺波さんより後にこの店に来るんだ」
「夢の中でもここに来てるんだ……」
「ま、それはいいじゃん。で、私の定位置に知らない女がいて、その人が婚約者だって紹介される夢だったわけ」
「なにそれ」
ケラケラと笑うと氷見さんは頬を膨らませた。
「だって夢の中でお揃いの指輪をしててさ――えっ!? 砺波さん、指輪してるじゃん!?」
氷見さんが俺の手を見て目を丸くする。
「あぁ、これ? スマートリングだよ」
「スマートリング?」
「うん。スマートウォッチなんかでもできるけど、心拍数とか血圧とか睡眠時間とか、そういう健康データが取れるんだよね」
「そんなのつけてるんだ……」
「ほら、俺もいい歳だからさ」
「被った……」
氷見さんがまた目を見開いて驚く。
「何が?」
「いや……こっちの話。けどこんなので分かるの?」
「うん。ほら、アプリで連動してて。心拍数が今90くらいかな」
「ふぅん……」
氷見さんは俺のスマートフォンの画面を見ながら身体を俺の方に寄せて密着してきた。ふわっといい匂いがして、妙にドキドキさせられる。
「おっ、上がってきた上がってきた」
画面に表示されている心拍数が100を超えたのを見て氷見さんは嬉しそうな声でそう言う。
「ち、近いよ……」
「どこまで上がるかなぁ?」
そう言うと氷見さんは俺を更に照れさせるためにグイグイと胸を押し当ててくる。
「ちょ……ヤバいって……」
「あのたぬき顔女に負けるもんか」
「イマジナリー婚約者と張り合わないでくれる!?」
心拍数は尚も上昇。ただ照れているところを見られるならまだしも、定量的に把握されているのでより恥ずかしさが増してくる。
「氷見さんつけてみなよ」
自分の手から指輪を引き抜いて氷見さんの指に差し込む。特に考えもなく、ただ近くにあってちょうど良さそうという理由で氷見さんの左手の薬指に指輪をはめた。
それでも指の太さはまるで違っていて、氷見さんの指に対してはかなりブカブカだ。
「おっ……うぅ……これは……」
顔を真っ赤にして氷見さんが俯く。画面の心拍数表示はさらに上がり130を突破した。
「めっちゃ早くない!? 大丈夫!?」
「だっ、大丈夫! 私、早いほうだから」
「は、早すぎない? 平常でこれは……」
「平常じゃないってことだよ」
「それ……本当に大丈夫なの?」
俺は心配な目を向けると、氷見さんは落ち着きを取り戻して指輪を取り外す。
「そういうとこだよ、砺波さん。左手の薬指につけちゃうんだからさ」
「あぁ……ごめんね。変な意味はないよ」
「期待しちゃったなぁ」
氷見さんはニヤニヤしながらそう言う。
「さすがにスマートリングでプロポーズはしないよ!?」
「じゃ、本命もくれるの?」
「えっ……それはさすがに困るでしょ……」
「困らないよ。指は十本あるから」
「そんなにつけるの!?」
「ふふっ……どうしよっかなぁ。砺波さんがたくさん
くれるんだろうなぁ」
氷見さんはそんな冗談を言いながらまた俺のスマートリングを指につけた。
「あれ? 心拍数30? って遅すぎない?」
「あぁ……これさあんまり質が良くなくて。感度が鈍いんだよね」
「ふふっ……持ち主に似たんじゃない?」
「言い返す言葉がないね……」
氷見さんは笑いながら俺のスマートリングにブイニーリングと命名をしたのだった。