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「砺波先輩、それでは進捗報告をお願いします」
朝日さんは俺と二人のランチタイムでやってきたカフェで、おしぼりで手を拭きながら切り出してきた。
「どっちがインストラクターか分からないね……で、何の話?」
「氷見さんとのことですよ。あれから進展ありました?」
「特に無いけど……」
「えぇ……あの秒読み感から何も無い……? 普段、二人で何をしてるんですか?」
「なんだろ……あぁ! 先週は抜いてもらったりとかだね。白い……ほ、ほら、あれだよあれ」
言葉が出てこない……あぁ! 白髪だ、白髪。最近は言葉が出てきづらくなってきて困るな。
朝日さんは俺が言葉を思い出す前に「えぇっ!?」と声をあげて驚いていたので一応通じてはいたみたいだ。
「抜いてもらった……えっ……てっ、手ですか?」
「そりゃそうでしょ」
「それって……な、何回もしてるんですか……?」
「……回? 3本くらいかな? 結構痛かったけど、人に抜いてもらうと気持ちいいんだよね」
「へあっ……そ、そんなことを……家で?」
「……家? 普通に店の中だよ」
「店で!? ちょちょ! やりすぎですって! めちゃくちゃ進展してるじゃないですか!」
「そうなの?」
「えっ、じゃあもう告白とか……」
「なんでそんな話になるの……」
単に髪の毛を抜いてもらっただけなのに。
「なりますよ! 順番があるじゃないですか!」
「じゅ、順番があるの? 抜いてもらうのに?」
「ありますよ! そんな爛れた関係……氷見さんはそれでいいんですか?」
「抜くのが楽しいとは言ってたけど……」
「た、たのっ……」
「年取ると増えちゃうんだよねぇ。朝日さんもそのうちわかるよ。まぁ体質によるだろうけどさ」
「ひょえっ……」
朝日さんは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「ど、どうしたの?」
「とっ……とと、砺波さんこそです! そんな人だとは思いませんでした!」
「そんな白髪を抜いてもらったくらいで大袈裟な……」
「しらっ……え? 白髪?」
「うん。白髪」
朝日さんが固まる。しばらくして「あぁ!」と言ってわざとらしく頷いた。
「あっ……そ、そうですよねぇ!? 白髪をたーくさん抜いてもらってたんですよね!? おほっ……おほほほ!」
朝日さんは慌てた様子で何かを誤魔化しているが、いまいち理由が分からない。
「俺、なんか変なこと言った?」
「いえ、何も。とにかくですね、そんな何かの拍子で店に来られなくなっただけで壊れるような脆い関係はつらいですって」
「そうなの?」
「そうですよ。だって、お店に行くのが義務感に変わると辛いじゃないですか。せめて連絡先くらい交換しておけば、タイミングは各々が行きたい時に相談して決められるようになりますし」
「うーん……まぁけど、店に来なくなってる時点で連絡先を知っていてもその程度って気はするけどなぁ」
「うっ……それはそうかもしれないですけど……とにかく! これは氷見さんと同年代の女子の意見ですよ。ご参考まで!」
「あ……うん。ありがと、朝日さん。頼りになるね」
「れっ……礼には及びません……」
朝日さんは照れくさそうに顔をそらしてそう言ったのだった。
◆
金曜日の夜、氷見さんはいつものようにカウンター席でスマートフォンをいじりながら俺を待っていた。
「お待たせ」
荷物を床においてジャケットを壁にかけ、ワイシャツの腕をまくる。
氷見さんは俺の一連をルーチンを見届けた後に「今きたとこだよ」と言った。
氷見さんのグラスの空き具合を見ればそれが嘘だというのはすぐに分かる。
なぜか、ふと朝日さんとの会話を思い出してしまった。
「氷見さんってさ……ここに来るのって負担に思ったりしてない?」
「どうしたの?」
「あー……いや、趣味とかも義務感が出ると辛くなる、みたいなことってあるじゃん。そんな風になってないかなーって……ふと思ったり」
氷見さんは真顔で「ふ〜ん」と言いながらグラスの水滴を人差し指で拭い、物思いに耽るように視線を落とす。
しばらく時間をあけて「ないかな」と答えが返ってくる。
「そうなんだ」
「うん。けど……気になるなぁ……」
「何が?」
「砺波さんらしからぬ着眼点だなって。誰かに――あ! あのモデル女に何か吹き込まれてる?」
「うっ……鋭い……」
俺が暗に認めると、氷見さんは俺との距離を一気に詰めてきた。
「砺波さん、焦らなくていいよ」
すぐ近くで氷見さんがそう言う。クールな目つきから感情は推し量れないが、声は優しいので怒っているわけではないみたいだ。
「あ……うん……」
「ま、焦りたいなら焦っても良いけど。そしたら私も焦るだけ。まったりチルがいいなら、まったりチルで。波に浮かんでプカプカするみたいにね」
「……どういうこと?」
「……こりゃまったりチルだね」
氷見さんはふふっと笑って自分の定位置に戻り、残っていた飲み物を一気に飲み干す。
「後は何て言われたの?」
「連絡先くらいは交換しておけってさ」
「ふぅん……」
氷見さんはスマートフォンを右手で持つ。だがすぐに左手で自分の右腕を抑えた。まるで意思の相反する2つがぶつかり合っているかのようだ。
「なっ、何してるの?」
「私の気持ちはこんな感じ。前から聞きたいなって思ってる本能と、聞くと多分たくさん連絡しちゃって迷惑になるからやめとけって理性の勝負なんだ」
「なにそれ……」
「平日の昼間は仕事中でしょ? けどその時間ですら、未読のままだと不安になっちゃいそうでさ」
「あー……今時だねぇ。未読無視が嫌だってやつか。ジェネレーションギャップだなぁ」
氷見さんはふふっと笑う。
「そうだけどそういうことじゃ……あ、でも今回はそうなのか。ま、そうだしそうなんだけどそういうことじゃないよ」
「複雑だね!?」
「それに、私は信じてる――うーん……信じてると言うか、期待してる、だね」
「期待?」
「うん。来週もその次の週も更にその次も。事前連絡も示し合わせもナシで砺波さんが来てくれる。そういう期待」
「なるほど……」
「ま、『また来週』が無限に続けばいいけどね。けどそんなことは現実的にありえなくて、いつかは途切れて、終わっちゃう。その時、どうなってるのかな?」
氷見さんは俺を試すようにニヤリと笑う。
「どうだろう……寂しい話だね」
「でしょ? だから、交換しよっか。ライン」
「するの!?」
「うん。もしものために、ね。普段は連絡しないよ。本当の緊急事態の時だけ」
「なるほどね」
こまめにやり取りをしたいタイプじゃないなら別にそれでいい。これはただの保険。
「本当に緊急の時だけ連絡するからね」
「はいはい……」
もはやフリにしか聞こえない氷見さんの宣言を聞きながら氷見さんのアカウントのQRコードを読み取った。
◆
帰宅後、スマートフォンを開くと早速氷見さんから緊急の連絡が来ていた。
『漏れた』
「緊急だ!?」
慌ててメッセージを開くと帰宅直後と思しき氷見さんが自宅の鏡の前でキメ顔をした写真が送られていた。深夜の疲れからか、アンニュイな雰囲気が増していて確かに実物の可愛さを超えていた。
「……漏らした上にキメ顔?」
『漏らしたの?』
俺がメッセージを送るとすぐに既読がつく。
『盛れた』
「そういうことか……」
『緊急だね』
『でしょ』
良かった。お漏らしをした氷見さんはいないらしい。会話はそこで途切れる。下手に続けると氷見さんも眠いかもしれないしどうしたものか。
悩みながらアプリを閉じてベッドに横になっていると、知らない間に寝落ちしてしまっていたのだった。
◆
「うー……返ってこない……? 寝ちゃった? 即既読で? うー……はぁ……よくないよくない……よくないぞ私……」
氷見はベッドでうつ伏せになり砺波との数回のやり取りを眺め続け、スタンプを送ろうとしてはキャンセルを繰り返す。
「おはようは送って良いのかな……? 朝の挨拶だし……むずかし……」
氷見は枕に顔を押し付けて深いため息をつく。ニヤける顔を両手で抑え、緩む頬を押し止めるのだった。