後編3
ユーリカが王女のもとへ通い始めて二十五年以上経った年の冬、オレイリー公が病を得、危篤が伝えられた。
「どうにかしてマグダレーナ様と公爵様をお会いさせることはできないでしょうか?」
白い息を吐きながら、そうたずねてきたのは王女が幽閉されている塔の使用人達だった。
寒さで頬を赤くさせた若い娘達。
時代の流れをユーリカは感じた。
もう、前王朝の王族に恨みを持つ者は少数になってきており、この娘達は朗らかに笑う王女を素直に慕っている。
「あなた達のその優しい心は尊いものです。ですが、マグダレーナ殿とオレイリー公のことは他人が口出しすべきことではありません。その優しさは自分達の胸にしまっておおきなさい」
「……はい」
身に染みついた尼僧流の諭し方で、ユーリカは娘達を黙らせた。
娘達はやや不満そうではあったが、うなづいた。
五年前に尼僧院の長に就き、大勢の尼僧を統率するユーリカに、この娘達では反論できないだろう。
王女は塔の最上階にいるとのことなので、一歩一歩階段を登っていく。
齢七十に達した身にはきつい道のりだ。
王女は窓から灰色の冬の空をながめていた。
「お風邪を召しますよ、マグダレーナ殿」
「やあ、ユーリカ」
王女はユーリカの姿を認め、窓の木戸を閉めた。
冷え切っていた室内に、暖炉の火の暖かさが巡りだす。
後から入ってきた使用人がお茶の準備をし、退いて、二人きりになった。
「オレイリー公のことはお聞き及びですか?」
「ああ、あいつ、死にかけているんだってな」
キャンベルの坊から手紙をもらった、と王女は言った。
ロイド=キャンベルは現キャンベル侯爵で、もはや初老に近い年齢だが、幼い頃から見知っている王女やオレイリー公からは相も変わらず坊と呼ばれている。本人はこの呼称についての抗議はもう諦めたようだ。
「オレイリー公にお会いになられますか?」
革命から五十年以上が経っている。
王位はエドワード王、オレイリー公の弟君を経て、今は三代目、公の甥にあたる三十代の若き王が襲っている。
代々の王が尽力したこともあり、前王朝への悪意はかなり薄れていた。
今、王女がオレイリー公に会いたいと言えば、その希望は叶えられる可能性が高い。
「……ユーリカは許してくれるか?」
「はい?」
予想外のことをきかれたので、茶碗を落としそうになった。
「ユーリカは、私がレオンに会うのを許してくれるのか? ときいた」
「私が許可を出す事柄ではありませんでしょう」
王女は指でとんとんと額を叩きながら、少しだけ昔語りをした。
「父王達が処刑された時、私は現場に見に行ったんだ。レオンに連れてもらって」
ユーリカは絶句した。
まさか、己の家族が殺される所へわざわざ行っていたとは思わなかった。
「皆、『死ね』と叫んでいたよ。処刑が終わった後、大神の祝福を受けたかのように喜んでいた」
王女は深い青の瞳で、ユーリカをまっすぐに見た。
「彼らは許してくれるだろうか?」
私がレオンに会うのを。
ユーリカは答えられなかった。
二十五年以上、毎日、顔を合わせていれば、それなりに情も湧く。
前王朝の乱れは王女ではどうしようもなかったということも、ユーリカは理解している。
だが、五十年以上経つというのに、心の奥底で恨みがとぐろを巻いて、棘のように刺さっている。
ユーリカは、許しますと言え、と自身に命じた。
笑え、と自身に命じた。
尼僧院の長ともなれば、政治力が要る。心にもない感情を顔に貼りつけ、心にもないことを言うことなど、得意だろうに。
ここで許しますと言わないと一生後悔する。
だから、必死で自身に命じたというのに、ユーリカは何も答えられなかった。
「すまない、変なことをきいたな」
王女は苦笑した。
「今の話は忘れてくれ。レオンには会わない。私自身の意志でだ」
「……」
掴むべき時機を掴み損ねたと、ユーリカは愕然とした。
「すまないが、一人にしてくれるか?」
ユーリカは黙ったまま頭を下げ、部屋を退いた。
オレイリー公の葬儀は国葬の礼をもって執り行われた。
前王朝末期の混乱を収めた功労者の一人として、また、革命後、王を補佐して新王朝の治世の安定に努めたとして、晩年は国柱とまで呼ばれるようになっていた。本人はそのように呼ばれることを厭っていたらしいが。
オレイリー公爵位は二年前に養子に迎えた男が継ぐことになっている。
長年家庭を持とうとしなかった公が養子を取っていたということは、もしかすると己の死期を察していたのかもしれない。
国葬であるので、王を筆頭に国の王族、大貴族のほぼ全員が参列する。
ユーリカも、最近は高齢を理由に公的行事への参加を避けがちだったが、故人と交流があったとして葬儀には出席した。
「尼僧長殿、お久しぶりです」
「閣下」
黒の礼装に身を包んだキャンベル侯爵が、ユーリカに呼びかけた。
相変わらず生真面目そうで、身だしなみをきっちり整え、痩身をまっすぐに伸ばし、姿勢よく立っていたものの、目が赤く、一挙に年をとったかのように十は老けて見えた。
「惜しい人を亡くしました。まだまだ教えていただきたいことが沢山あったのに」
「そうですね」
「最期にせめて、王女にお会いいただきかった。閣下は、王女は拒否するだろうとおっしゃっていましたが」
「……そうですか……」
その言葉は、ユーリカの心を抉ったが、表情には一切出さなかった。
「もう坊とは呼んでいただけないのですなあ……」
キャンベル侯爵は涙がこぼれそうになるのをこらえるように空を仰いだ。
空は腹立たしいほど澄んでいて、晴れ渡っていた。
「差し支えなければ、お手すきの際にマグダレーナ殿へお手紙を差し上げて下さいませ。返事は出されないと思いますが」
「そうですな。閣下の代わりなど務まらないでしょうが、せめて暇つぶしにでも読んでいただければ」
キャンベル侯爵の背後で、驕慢そうな若者がつまらなそうに欠伸をした。
若者が侯爵の息子のハロルドであることは察せられたが、侯爵は息子をユーリカには紹介しなかった。
国葬が終わった後も、塔での日々には変わりがなかった。
以前と同じように単調な日常が、淡々と続いていく。
翌年、王に待望の長男が生まれ、国中がお祭り騒ぎになったが、塔の中は静謐そのものだった。
ただ、王女はあまり笑わなくなった。