後編1
夜毎、夢を見る。
麻のごとく乱れた世に、翻弄され虐げられた人々の、慟哭の夢を。
※※※
人生も終わりが近づき、尼僧長ユーリカのこのところは夢の中をたゆたっているようで、現実感が日々遠ざかっていた。
そのような心境にさざ波が立ったのは、久しぶりにマグダレーナ王女の名を聞いたからだ。
王女が亡くなって以降の二十年近く、ユーリカの心は凪いでいたのに、名を聞いただけでこれほどまでにまだかき立てられるのかと、己の囚われぶりを忌々しく思う。
青の間で会った、生まれ変わりだと噂される二人は、確かにオレイリー公と王女によく似ていた。
その後の問答でも、あの二人でしか知りようのないことを知っていた。
(でも、違う)
あの二人に似ている二人。あの二人の記憶を持つ二人。
しかし、雰囲気と為人が全然違う。
茫洋とした表情の下、ユーリカはもどかしさを抱えて叫びだしそうになっていた。
ユーリカとマグダレーナ王女は同い年だ。
初めて王女に会ったのは四十代も半ばにさしかかった頃で、正直な話、それまで王女に対して良い想いを持っていなかった。
もっともそれは、個人的になにかあったからというわけではなく、ユーリカと同じ時代を生きた者の大半が、前王朝の王族に対し同じような怨嗟えんさをいだいていたことだろう。
それくらい前王朝の末期は乱れ、荒れていた。
ユーリカは信仰心ゆえに尼僧になったのではなく、食い詰めたから僧籍に入った。
同じ村で育った幼馴染のほぼ全てが、餓死したり、争いに巻き込まれ殺されたり、徴兵され戦死したことを思えば、生き延びたユーリカはとても幸運だと言える。心は傷だらけになったけれども。
「ユーリカというのか。よろしくな」
どこか少年じみた話し方をする王女が軽やかに挨拶した時、頭がくらくらするような白熱した殺意がたしかに身の内にあった。
残酷にいともあっけなく命を摘まれていった友人、知人の顔が脳裏をよぎり吐き気をもよおした。
エドワード王が前王朝の王族を処刑した時、人々は喝采を叫び、狂喜したものだ。
人々はさらなる死を求めた。
熱に浮かされたように、なぜあの王女を生かしておくのか、と。
エドワード王が王女の処刑を拒んだ時に、人々は歯噛みし、身をよじるようにして嘆き、悔しがった。
王が人々の希望の星でなかったら、王もまた殺されてしまったかもしれない。
ユーリカは善人ぶった尼僧の顔の下で、その狂乱を無感動にながめていたが、王女にまみえた時、同じような憎しみが自分の中に存在することを思い知らされた。
当時のユーリカの役目は、表向きはマグダレーナ王女の話し相手、実態は監視役だった。
その為、日に一度は王女のもとを訪れた。
幽閉された王女の一日は単調だ。
尼僧院の預かりだったので、日課は尼僧のそれに準じる。
夜明けとともに起き、まずは祈りの時間。簡素な朝食をとった後は、幽閉されている塔の清掃。昼食。午後は寄付金を募る為のつましい雑貨作り。時間が余れば読書をし、また、ユーリカとお茶の時間を持つ。黄昏時に夕食をとり、祈りを捧げ、日が暮れるとともに就寝する。
使用人はいたが、皆、ユーリカと同じ年頃で、王女に向ける態度は冷ややかだった。
ユーリカは彼女らほどあからさまな冷たさは表さなかったものの、どうしても素っ気なくなりがちだった。
そのような状況の中でも、王女は朗らかに笑っていた。
ある日、ユーリカはたずねた。
「あなたはなぜ笑っていられるのですか?」
王女は虚を突かれた顔をした。
ユーリカがまともに会話めいたことを言ったのは初めてだから、驚いたのかもしれない。
「私が楽しそうにしていないと、助命してくれたエド小父様やレオンに申し訳がたたないだろう?」
そう答えて、笑った。
だが、その笑みは悲しみを伴うもので、もしかすると王女は他の王族とともに処刑されたかったのでは、と思った。
顔には出さなかったものの、生き延びることのできなかった友人、知人を思い出し、ユーリカはとても腹立たしかった。
王女の朝夕の祈りの時間は長く、とても真剣なものだという報告を受けていた。
「あなたは、毎日熱心に何を祈っているのですか?」
「さて、何だろうな」
王女はその問いには答えてくれなかった。
王女は尼僧院の預かりではあったが、幽閉されている塔は尼僧院の敷地外にあった。
オレイリー公レオンは塔に出入りはできなかったが、よく近くを訪れ、塔を見上げていた。
「よお、尼殿」
「こんにちは、閣下」
オレイリー公はユーリカを見ると、にいっと皮肉気な笑みをよこした。
「マギーの奴は元気かい?」
「いつも通りでございましたよ」
黙って澄ましていれば優美で気高い貴族中の貴族に見えるオレイリー公だが、実態はかなり柄が悪い。
十代の半ばから戦場に出て、庶民出身の兵士らと交流していたせいだと本人は主張するが、必要であれば貴族らしく振る舞えるらしいので、わざとこういう態度をとっているのかもしれない。
堅苦しい宮廷人の中には眉をひそめる者もいると聞くが、王朝交代の混乱を収めた功労者の一人であり、本人が辞退しなければ次代の王になっていただろう公に強く物を言える者はそうそういないだろう。
よって、この人は王宮でかなり好き勝手に振る舞っている。
一見、細くて弱そうに見えるが、近くによると鍛えあげているのが分かり、威圧感がある。手袋をしていない手はごつごつしており、無数の傷跡があった。
「閣下!」
ユーリカと公が雑談をしていると、生真面目そうな若者が駆けよってきた。
「おお、どうした、坊?」
「どうしたじゃありませんよ、居場所を知らせずにうろつくのはやめて下さいと何度も申し上げていますでしょう。それから坊呼びもやめて下さい」
「おお、悪いな、坊」
「だから、その呼び方をやめて下さいと……」
まったく改める様子のない公に、若者はがっくりと肩を落とした。
ちなみにユーリカはこのやりとりを今まで何度も聞いている。
「で、何の用よ?」
「キャンベル侯爵とのお約束の時間ですよ。既に侯爵はお待ちです」
「……お前、いくら勤務中だからって、自分の父親を侯爵呼びはないだろ」
「公私の混同はよろしくありません」
「はぁ、真面目なこって。というか、お前、仕事中毒もいいけど、たまには家に帰れよ。三つのガキがいるんだろうが」
「息子の教育は妻に任せておりますので」
「男親にしかできんこともあるだろ」
「結婚せず、家庭を持とうとしない閣下に説教されたくはございません。さ、行きますよ」
業を煮やしたのか、キャンベル侯爵家の若者は、遠慮なくオレイリー公の襟首を引っつかんだ。
「待て待て。尼殿、これ、マギーに渡しといて」
公はユーリカに手紙を渡し、その後、キャンベルの若者に引きずられていった。
オレイリー公は頻繁に王女へ手紙を送る。
王女から返事を出すことは決してなかったが、公からの手紙を大切に保管していることを、ユーリカは知っていた。
封筒の宛名の筆跡はとても美しく、深い教養を感じさせるもので、やはりあの柄の悪さは擬態だろう、とユーリカは思った。