前編5
王宮でやらかした後、しばらくの間は、針の筵に座っているかのようだった。
まず、ヒューという名のおにいさんから鬼のような説教を受け、心が折れた。
カーマインはふてぶてしい方だが、初対面だというのに鬼は外すことなく痛い所を突いてきて、さすがのカーマインも心が死にそうになった。
あの後から文通しているグレイ君によると、鬼は北門の官なのだそうだ。そりゃあ頭もいいだろう。できれば、その頭の良さはもっと高尚な仕事に使っていただきたい。
そして、精神的に瀕死となったカーマインを、殺気をみなぎらせた侍女長が待っていた。
鬼に比べたら攻撃力は可愛らしいものの、じっくりと長い時間をかけて、執拗な説教をいただいた。
また、お嬢様の恋を応援している夢見がちな同僚達がきゃんきゃん噛みついてきた。こちらは大した攻撃力はないが鬱陶しかった。
だが、そういう状況も終わり。
なんと、尼僧長様がお二人を生まれ変わりだと認めたのである。
カーマイン達がやらかした後、何とはなしに散会になったそうだが、翌々日あらためて尼僧長様と会見があった。
今度は余人を交えず、尼僧長様と王太子殿下、お嬢様の三人のみで会ったそうだ。
その場で語られた内容は三人とも秘しているので誰も知らないが、さらに翌日、尼僧長がお二人を認めた旨、尼僧院が公式に通達した。
時を同じくして、キャンベル侯爵とそれに与する貴族が、脱税と収賄の容疑で逮捕された。
グレイ君の手紙によると、元々あの鬼を中心に北門の官らが秘密裏に捜査を行い、証拠を固め終わっており、後は逮捕の時機を計っている段階だったのだそうだ。……鬼が嬉々として侯爵達を追い詰める姿が、まざまざと想像できる。
その流れで、王太子殿下とアンジェリーナ嬢の婚約が解消され、また、お嬢様との婚約が成立したのである。
まったくもって、流れるようにすみやかに事態は進んだ。
誰かが仕組んだのではないだろうか?
誰とは言わないが、あの鬼とか、あの鬼とか、あの鬼とか──。
というわけで、喉元すぎればなんとやら、クロード卿が血相を変えてウェズリー家に乗り込んで来た時、カーマインは鼻歌を奏でながらお嬢様のお茶を淹れていたのだった。
「伯夫人、あなたは本気でマリーに王太子妃が務まると考えているのですか?」
招かれざる客であることをあからさまに示すように、クロード卿は応接間へ案内されず、正面玄関の広間にて奥様と相対していた。
怖いもの見たさに遠巻きに集まった使用人達──勿論、カーマインもその一人だ──の目にさらされ、クロード卿の誇りはいたく傷ついているらしく、憤怒の色は隠しようもない。
対する奥様は、女王のように堂々と、見下すように嗤っている。
「勿論、マリーさんなら立派に務まると考えておりますとも」
「責任の重い立場なのですよ? 可愛らしく笑っていればいいというものではない。マリーでは役者不足だと思いますがね」
「あなたさまは随分と──」
奥様の笑みが冷たさを増した。
「わたくしどもの娘を莫迦にして下さいますこと。そのようにお思いなら、捨て置いて下さればいいのでは?」
「マリーはそこがいいのですよ。私は女の賢しらなのは好みません」
「まあ、さようでございますか」
クロード卿の好みの真逆であろう奥様があげつらうような調子でそう言った時、二階からお嬢様がゆっくりと降りてきた。
「お母様、クロード様」
お嬢様は広間に降り立って、奥様の方をそっとうかがう。
クロード卿は勢いよく振り向いて、お嬢様の近くに迫るとその華奢な両肩をゆさぶるように掴んだ。
力が強かったのか、お嬢様は「きゃ」と小さく声をあげたので、周りの人々は軽く眉をひそめた。
「マリー、考えなおすんだ。君には王太子妃なんて務まらないよ」
「クロード様……」
お嬢様は深い青の瞳に困惑の色を浮かべ、クロード卿を見上げた。
「ねえ、クロード様。ジェラルド様とわたくしの婚約はもう決まったことなのよ。こういうことをされては困るわ」
「今からでも遅くないよ。君が嫌だと言えば──」
「わたくしはジェラルド様をお慕いしているのよ。嫌なわけないじゃない」
「だから何度言えば君は理解するんだ? そんな一時の気の迷いで重責を背負って、きっと君は後悔するぞ。いい加減にたわごとはやめて、私の言う通りに──」
「クロード様」
お嬢様は真剣な目でクロード卿を見た。
「ジェラルド様のことがなかったとしても、わたくし、あなたのお嫁さんになる気はなくってよ」
「マリー!」
クロード卿は怒りのあまり、お嬢様を強くゆさぶった。それを横合いから男の手が伸びて止める。
「クロード卿、娘に乱暴はやめてくれるかね」
「ウェズリー伯……、こ、これは失礼を。つい、カッとなって……」
いつもは気弱で曖昧な顔しかしない旦那様が、はっきり怒りと不快を表していた。
そう、全く存在感はなかったが、旦那様もさっきからずっとこの場にいたのである。
クロード卿から解放されたお嬢様は、そっと旦那様の背に隠れた。
奥様が、こちらも強い怒りの色を見せて、ずいと前に進み出た。
「クロード卿、今後、宅への出入りはご遠慮いただきたいの」
「伯夫人、今のはたしかに乱暴がすぎたと思うが、少し感情的になっただけなので、どうか──」
「薔園の人に聞いたのですけど──」
奥様の目が、獲物を追い詰めた獣のように、爛々と輝く。
「あなたさまは随分と後ろ暗いところに借金がおありとか」
「……」
「わたくしどもの財産を、あなたさまの借金のあてにされても困るのですわ」
クロード卿は血の気が引いて、顔が真っ白になった。
(おいおい、マジですか、クロード卿?)
薔園のお方自身、どちらかというと後ろ暗い世界に身を置いている人である。
そういう人が後ろ暗いと警告するとは、どれだけヤバいところに借金しているのか。
(ああ、それで、お嬢様に目をつけたのか)
ウェズリー家は裕福である。
旦那様は気弱で、家庭内では最底辺に位置づけられているが、なぜか金儲けが上手く、年々、資産が雪だるま式に増えていっている。
クロード卿はきっと、旦那様の性格を見て御しやすそうとも思ったのだろう。
しかし、女の毒牙にかかったり騙されたりすることはあっても、旦那様は金銭面では絶対に騙されないという謎な才能を持っているので、そう上手いこといかなかっただろうけど。
「クロード卿、賭け事はお遊びの内にとどめておいた方がよろしくてよ」
「…………ウェ……ウェズリー伯、本日は約束もなしに不躾に訪れて申し訳なかった。お暇させていただくよ」
さらに詰め寄った奥様を完全に無視して、クロード卿はひびわれた声で、綻びかけた誇りをなんとか取り繕って、旦那様に挨拶をした。
旦那様がうなづくと、卿は玄関前に待たせたままの馬車に乗り込み、どこか怯えた様子の従者がそれに続く。
慌しく馬車は出立し、ウェズリー家の者達はそれを見送った。
馬車がお屋敷の前の円環路に沿ってぐるりと位置を変えた時、細くて長い黒い影がしなって振り下ろされるのが、馬車の小窓を通して見えた。
気のせいかもしれない。
だが、カーマインだけではなく、他の使用人一同も苦いものを呑んだかのように目を伏せたので間違いないだろう。
「可哀想に」
奥様が乾いた声で言った。
王太子殿下とお嬢様の仲は無謀な話ではあったが、それでもクロード卿と結婚するよりはまだマシだろうと、カーマインを含む使用人一同は思っていた。
卿のロッシュ伯爵家は給金はいいものの、使用人への暴力がはなはだしいと、貴族に仕える者達の間では有名だ。
そんな人間性を疑う風潮のある家へ、大事なお嬢様をやりたくはなかった。
カーマインは顔を伏せていたので、この時、お嬢様がどういう顔で鞭が振り下ろされる光景を見ていたのか分からなかった。