前編3
「あら、ウェズリー家のマリー様じゃありませんか」
甘ったるいのに妙に険のある声に呼びかけられ、お嬢様はクロード卿とのとりとめのないおしゃべりを止め、声がした方を向いた。
「まあ、皆様、ごきげんよう」
知っている顔を認めて、お嬢様はまるで友人に出会ったかのように無邪気に笑った。
(誰にでもこういう笑顔を見せられるところはすごいと思うわ)
良くも悪くも自分に正直なカーマインにはできない芸当だ。
お嬢様にだって好悪の念はあるだろうに、決してそれを表に出さない。
子供の頃はもう少し感情を露わにしていた時もあったように思うが、社交界に出るようになった十六才の頃から、頼りなさげで愛らしい姿をくずさなくなった。
まさに淑女の鑑である。真似をしようなどとは髪の毛一筋も思わない。
「マリー様は今日はこちらへは何をしにいらしたの?」
王宮の庭園の長椅子に座るお嬢様とクロード卿を見下ろすように囲んでいるのは、三人の貴族令嬢だ。
どこのどなた様かは知らないが、状況から言ってキャンベル家のアンジェリーナ様の取り巻きの方々だろう。
(わーお、こういうの久しぶり……)
自分でもほとんど忘れているがカーマインは元伯爵令嬢だったので、社交界に出入りしていた時期があり、王宮へ来たこともある。
だから、ご令嬢方の人間関係が綾なすこういう雰囲気も知っていた──できれば二度と関わりあいたくなかったが。
更に言うと、縁を切った元夫や元家族に出くわしそうになるので、できれば王宮へは来たくなかった。
お嬢様には今後はご遠慮いただきたい。
「わたくしは尼僧長様にお会いしに来たの」
ご令嬢方の不穏な空気に気づいていないのか、お嬢様は愛らしく笑いながらおっとりとそう言った。
ご令嬢方が眉をひそめる。
「まあ、尼僧長様に……」
「それはあれですの? 生まれ変わりとかいう夢のようなお話をご判断していただく為なのかしら?」
「そうなの。尼僧長様がお時間を割いてくださることになりましたの」
「まあ」
ご令嬢方の顔に憎々しげな表情がちらつき始めた。
対するお嬢様はゆらぐことなく無邪気な微笑を浮かべている。
「……マリー様、ご高齢の尼僧長様をそのような夢物語でわずらわせるなんて、申し訳ないとは思いませんの?」
「たしかに心苦しいですけれど、ジェラルド様が気にすることないよとおっしゃって」
きゃっと頬を染めたお嬢様に、周囲の人間はイラッとした。
ご令嬢方もクロード卿もカーマインもだ。
素でやっているのか、わざと神経を逆撫でしているのか、どちらなのです、お嬢様?
「それで、もしも仮に、生まれ変わりだと認められましたら──まあ尼僧長様がそのような軽はずみなことをなさるはずはありませんけど──マリー様はどうなさるの?」
「わたくしどもが何度もあなたに忠告しております通り、殿下にはアンジェリーナ様がいらっしゃいます。まさか、お二人の間に割って入ろうなんて、考えていらっしゃいませんよね?」
挑むように問いかけたご令嬢方に、お嬢様は深い青の瞳にあどけない光を浮かべて、不思議そうに言った。
「ジェラルド様はアンジェリーナ様を愛してはいないとおっしゃったわ」
真ん中に立つご令嬢が震えながら扇を握りしめ、ぎりりと音がたった。
「そんな訳ありませんわ、お二人は昔からとても仲がよろしいのですから。あなたが惑わさなければ、殿下も正気に戻るはずです。そもそも、第一の忠臣であるキャンベル家のアンジェリーナ様になりかわろうなど、ご自分の分際をわきまえないその行い、恥ずかしいとは思いませんの?」
怒りのあまり震えた声で、だが、なんとか取り乱さずにそのご令嬢は言った。
しかし、お嬢様は何を言われているのか分からないと言わんばかりに、稚い風情で小首をかしげる。
その態度に、両脇二人のご令嬢方も頭にきたようだ。
「言っても無駄ですわ、シェリル様」
「そうよ、この方、生まれが生まれですもの、仕方がありませんわ」
「実の母親がああいうお仕事をなさっているのよ。マリー様が他人ひとの殿方を盗とろうするのは、生まれつきなのですわ」
お嬢様の実の母君のことを匂わせ始め、クロード卿は眉をしかめた。
貴族としての誇りが強いクロード卿は、お嬢様の出自を好ましく思っておらず、その話が出ることを毛嫌いしている。
(というか、クロード卿、少しはお嬢様をかばったらどうですか)
一見、クロード卿は紳士的で礼儀正しいが、女は別種の生物だと思っている風があり、あまり女同士の争いに割って入ろうとはしない。
求婚者として男の株を上げる機会だろうに、とカーマインは思うのだが。
ところで、棘々しさを増した空気に気づかぬかのように、お嬢様は嬉しそうな顔をした。
「まあ、皆様は薔園の母をご存知ですの?」
厭味がまるで通じないその反応に、ご令嬢方の憤りは増した。
「知っているわけありませんでしょ! 薔園だなんて!」
「あなたとは違いますのよ! あんなっ……あんな汚らわしい所と関わりあいがあるわけないでしょ!」
「まあ、うふふ」
薔園とはお嬢様の実の母君が営む高級娼館である。
薔園のお方は元高級娼婦で、旦那様との間にお嬢様を生んだ後、ウェズリー家から出させた資金を元に高級娼館を立ち上げ、現在は上流階級や経済力のある殿方、はてまた裏社会のお偉方に隠然たる影響力を持つ怖ろしい女傑である。
見た目はお嬢様に似て、可憐で頼りなげなのだが。
ちなみに、お嬢様は奥様のことを本宅のお母様、実の母君のことを薔園のお母様と呼ぶ。
この二人の母君はなぜか交流があり、奥様は奥様で社交界の淑女方に強い影響力を持つ女傑なので、お二方がお上品に微笑みながら会話する様は異様な迫力があって、侍る使用人らの肺腑が縮こまるのが常だ。
「そういえば、シェリル様――わたくし、薔園の母に聞きましたのよ」
お嬢様が優雅に立ち上がり、真ん中のご令嬢に近づいて、その耳元で何かをささやいた。
ザーァッと音がするのではないかと思うくらい、そのご令嬢の顔から血の気が引き、真っ青になった。
「シェリル様、どうなさったの?」
両側のご令嬢が訝しげにのぞきこんだが、真ん中のご令嬢は恐怖にひきつったように顔を振った。
「行……行きましょ……」
「え、シェリル様?」
真ん中のご令嬢はくるりと背を向け、足早にこの場を去った。
他のご令嬢方も戸惑いつつ、彼女を追いかけて去った。
「マリー、シェリル嬢に何を言ったのだい?」
クロード卿が立ち上がって、お嬢様の深い青の瞳を見下ろした。お嬢様は無邪気に笑って見上げる。
「大したことではないわ。シェリル様は厳しいことをいつもおっしゃるのって薔園のお母様に相談したら、お母様は面白いお話を教えて下さったの。それをちょっと言ってみただけ」
「マリー……それは脅迫ではないのかい?」
「まあ、クロード様、大げさだわ」
お嬢様は天使のように愛らしく笑った。
(いや、脅迫でしょ……)
あの蒼白な顔、そして、情報源が薔園のお方ということは、一体どれほどえげつない内容だったのか?
カーマインは知りたいとは思わなかった。