後編5
オレイリー公が亡くなって約十年後、王女が床につくようになった。
この数十年、数え切れないくらい繰り返してきたように、ユーリカは毎日一度は王女のもとを訪れる。
現在は、寝台に横たわった王女と会話して時間をすごす。
オレイリー公が亡くなった時の話は、二人とも頑なに話題にあげなかった。
──ある日、王女が久しぶりに笑った。
「キャンベルの坊は孫娘が可愛らしくて仕方がないらしい」
「ロイド殿ですか?」
「ああ、しょっちゅう手紙がくるんだが、やれアンジェが歩いただの、笑顔が可愛いだの、森へ連れて行くときれいな鳥を見てはしゃぐだの、たまには自分の近況を書けばいいのにな。仕事中毒が祖父バカになるとは、随分変わるものだ」
「さようですね」
ユーリカも王女に合わせて、ころころと笑った。
しかし、ロイド=キャンベルの状況は、それほど微笑ましいものではないことをユーリカは知っている。
五年程前、驕慢だが悪い意味で政治力のある息子ハロルドに家から放逐され、爵位も奪われたのだ。
今は南方の隠棲先に引きこもり、森での猟と孫娘のみが心の慰めだと、ユーリカへの手紙には書かれていた。
だが、王女への手紙には、そういう暗い側面は書いていないのだろう。
──ある日、王女がたずねた。
「今、世間は平和なのか?」
「そうですね。革命の頃に比べたら、夢のように平和で穏やかですよ」
革命を生き延びることができなかった友人、知人達に、今の世を見せてあげたい。
きっと、夢のようだと、皆言うだろう。
「そうか。だったら、私も生きた意味もあったかな」
「意味とは?」
「内乱が起こっていた頃、私は未成年だったが、エド小父様や当時のキャンベル侯に教えてもらって、できそうなことをやらせてもらっていたんだ。子供だったから、大したことはできなかったけど」
「そうだったのですか」
「だけど、世の中が平和になるだなんて、信じてなかった」
「……それは確かに、私もそうだったかもしれません」
「それだけエド小父様が偉大で、示した道筋が素晴らしかったということだろう。それを知ることをできただけで、生きてきた甲斐があったと思う」
でも、王宮には腐臭が漂い始めている。
父親を放逐した現キャンベル侯爵を筆頭に、革命時に功労のあった貴族の二世三世らの箍が緩んできている。
また、僧院も少し増長し始めている。
尼僧院はユーリカが目を光らせているが、自分が死んだ後は分からない。
だが、ユーリカはそれを王女には告げなかった。
──ある日、王女が問うた。
「ユーリカは尼僧だから、やはり輪廻転生を信じるのか?」
「勿論、信じておりますよ」
嘘だ。
信じるかどうか以前に、真剣に考えたこともない。正直、どうでもいいと思っている。
だが、大神カディスは人々の魂を巡らせ、転生させると信じられているので、僧籍にある者として、信じないとは言えなかった。
王女はユーリカの目をじっと見た。
深い青の目は澄んでおり、ユーリカの嘘を見透かしているかのようだった。
「私も信じている。いや、信じているというより、信じたいというところかな」
「信じたいのですか?」
「ああ」
「それはまた生まれ変わりたいということでしょうか?」
「ああ」
「それはまた、なぜでしょう?」
ユーリカは信じられなかった。
ユーリカ自身は生まれた時代を考えたら、割と幸運に恵まれた人生を送ってきたと思う。
それでも、人生は生き難く、重苦しく感じており、可能なら生まれ変わりたくなどなかった。
それなのに、運命に翻弄された王女は、生まれ変わりたいと言う。
「……初めて会った頃にさ、お前は『何を熱心に祈っているんだ?』ってきいただろう?」
「そうでしたか?」
「ああ。その時は、絶対、お前が怒るだろうと思ったから、答えられなかったんだけど。怒らずに聞いてくれるか?」
「お聞きしましょう」
これは遺言だと思った。
ユーリカは背筋を伸ばし、最期の言葉を待った。
「もう王族には生まれたくない。普通の人に生まれて、重い責任なんて背負いたくない」
王女はユーリカと目を合わさず、まっすぐ天井を、さらにその向こうの空を見ているようだった。
「そして、世の中がずっと、平和で穏やかでありますように」
王女はくすりと笑った。
「あとはレオンに会って、おいしいものを食べに行きたいな。あいつの手紙にはどこの店の料理がおいしいだの、そういうことばかり書いていて。あいつは肉が好きだから肉料理のことばかり書くんだ。それも書き方が上手でさ。ここの生活は菜食だから、ずっとうらやましくって」
最後に王女はユーリカを見た。
「さすが、前王朝の王族は無責任だろう? こんなことばかり、祈っていたんだ。恨んでいいぞ」
「え?」
「変な同情はいらない。前王朝の王族は無責任で、だから世の中は荒れた。だから、私を恨め。恨んでくれ、お前が苦しむ必要はない」
「マグダレーナ殿……」
王女はユーリカの手を強い力で掴んだ。
「恨んでくれ!」
「分かりました。恨みます。あなたのせいだと、恨みますから」
王女の手の力が抜け、安心してそのまま昏睡に陥った。
(でも同情してしまうのは仕方ないじゃないですか)
それこそ恨みを込めて、心中でユーリカは呟いた。
何十年、近くにいたと思っているのだ。
たとえ、どんな願いを祈っていたとしても、事実として、あなたは人々の恨みを背負い続けた。
最期まで。
(あなたはそうやって、私の心に棘を残していく……)
次の日の夜明け前、王女はひっそりと息を引き取った。
「下町の臓物の煮込ってそんなに旨いんですか? 食べてみたいなあ」
「ぜひ食べて! 食べなきゃ人生損するよ!」
王宮の青の間に場違いな会話が響き渡り、ユーリカは過去の回想から我に返った。
しん……と重厚な静寂が広がる。
ユーリカは扉近くに立つ、呑気な会話をしていた二人を見て、呆然となった。
あの悪戯っ気たっぷりの明るそうな侍従は、王女に似ていないか?
あの皮肉気な雰囲気の背の高い侍女は、オレイリー公に似ていないか?
もし、あの二人が重い運命を背負っていなかったら、きっとあのような、きっと、きっと──……
二人が文官に広間の外へ連れ出されようとしている時、ユーリカは目の前にいる、王太子と令嬢を見た。
王太子と令嬢は、今までの優しげで穏やかな雰囲気を少しだけ崩して、してやったりといった風な笑みを浮かべ、連行される二人を見ていた。
そして、こちらを向くと、二人とも強い眼差しで、挑むようにユーリカを見た。




