九
私が若旦那と酉の市に出かけてもお咎めはなかった。大旦那とお内儀が、若旦那が白妙花魁を諦めてくれる気になったのかと胸を撫で下ろしていたのなら気の毒だ。
若旦那はまたすぐに吉原へ足を運んだのだから。
大旦那は二度と金を出さないと怒っていた。
それでも、若旦那はお多恵ちゃんに会いに行く。会わねば息の音が止ってしまうとばかりに。
「――兄さん、店の金に手をつけたんだ。遊女の手練手管に騙されて、馬鹿だよな」
奥の畳を掃いていた私に、戸口から才次郎さんが言った。師走の寒い日であったからか、光を背にしていたからか、才次郎さんの顔は青白く見えた。目は暗く、沼に似た光を宿している。
あの二人は、最早ただの客と遊女ではない。そうでなければ、お多恵ちゃんは沼の話などしない。深いところで結ばれていて、切り離すことは誰にもできやしないのだ。
「花魁の身請けはこのお店にも難しいことなのでしょうか」
苦界という沼から、お多恵ちゃんが飛び立てる日はいつなのか。
私はその日が来ることを願わずにはいられない。これは本心だ。お多恵ちゃんが生きていてくれたと知れて、私は春に一歩近づいた。
それでも、才次郎さんは私の言葉を信じない。
恋敵を悪し様に罵らないのは、己が一番可愛いからだと。
「こんな時でもお寿はいい子ぶるんだな」
鼻面に皺を寄せ、吐き捨てた。才次郎さんが荒々しく足音を立てて去っても、弁明するつもりなど起きない。私はこれからお多恵ちゃんの仕合せを願うと決めたのだ。
誰も味方をしてくれない二人だから、せめて私くらいは味方をしてもいいだろうに。
――世間はそんな二人を引き離そうとする。私は、二人に何もしてやれない。
「白妙花魁の見受けが決まったってよ。なんでも神田の山城屋が落籍すってぇ噂だ」
「いいねぇ、あやかりてぇもんだなぁ」
「花魁は首を縦に振らなかったらしいが、紋日だって具合が悪いとかって休んだり、いくら看板のお職でも金にならなきゃ亡八は手放しちまうよ」
買い出しに出た折、日本橋の通りでそんな話を聞いてしまった私は足を止め、後ろを歩いていた女に散々文句を言われた。それが耳の外を滑ってどこかに消える。
私は急いで店に戻ったが、表を掃く丁稚も、客をあしらう手代や番頭も、白粉を買い求める客も、何も変わりはない。
外の寒さにかじかんだ手で障子を開き、若旦那の姿を捜すと、小寒にうっすら雪催いの庭を眺める若旦那がいた。
燃え尽きた灰のような侘しさだった。酉の日に贖った熊手は、若旦那の仕合せを掻き込んではくれない。
声に出して、若旦那に何かを問うことはできなかった。ただ私は、二人のために声を殺して泣いた。
やはり、それでは何も変わらなかった。
だからか、若旦那は寒い冬の最中、お多恵ちゃんの白い首に手をかけ、自らは障子に南天のごとく赤い血を点々と撒いて逝った。
お多恵ちゃんには抗った跡はなかったという。むしろ安らかで、季節外れの八朔の白無垢を着た懐に二人の名が刻まれた起請文が入っていたそうだ。
この相対死にに、世間は湧いた。日本橋の大店の跡取りと、吉原大見世のお職。見目麗しい二人の悲恋を、皆が面白おかしく語った。
そして、そのすぐ後、吉原に火が出た。ひどく広がりはしなかったものの、人々は若旦那の赤い血が火を呼んだと噂した。
〈しら井屋〉は、以前の活気を失った。
喪に服しているのではない。雨戸を閉ざして世間から隠れたがっている。
次々と暇乞いをする奉公人たち。怒りがすぎて倒れた大旦那、魂が抜けたお内儀、その中にいて一番変わらなかったのは才次郎さんだ。
暗くて寒い部屋の中、ただ座っている。ただ座って、畳に拳を叩きつけた。何度も、何度も。
叩いているのは畳に落ちた己の薄い影でしかない。
「〈しら井屋〉はおしまいだ。お寿も出ていくんだろう?」
才次郎さんは私が後ろにいることに気づいていたようだ。それでも影を叩き続ける。
「兄さんはひどい。お店のことなんてどうだってよかったんだ――」
私は、畳と才次郎さんの拳の下に手を滑り込ませた。才次郎さんは驚いて拳を止めた。驚くほど柔らかく、拳が私の手の甲に落ちる。
ほんの少し若旦那の面影がある才次郎さんの目を見て、私は告げた。
「いいえ、私はどこにも行きません」
すると、才次郎さんは無理をして笑った。それを笑顔と呼べるのなら。
「ああ、お前には帰るところがないのだったな。お前一人くらい口入れに頼めばどうとでもなるさ」
「私はここにおります」
私を嫌っていた才次郎さんだから、落ちぶれていくところを見せたくないのか。それでも、私にはここに留まる理由がある。
才次郎さんがそんな私の心を知るはずもない。怒ったように赤い目をつり上げた。
「意地を張るな。もう兄さんはいないんだ」
「いないからこそ、私はここに留まります」
若旦那にとって商いは己のすべてで、〈しら井屋〉は宝物だった。そんな若旦那が、店を選ばなかった。己の一番大切なものよりもお多恵ちゃんを取ったのだ。
その決断が苦しくなかったはずはない。刃で首を掻き切った時よりも、それと決めた時の方が苦しかったかもしれない。
それでも、どんなことをしてでもお多恵ちゃんの望みは叶えてやりたかったという気がしてならない。想い人と結ばれず、またしても売られていくお多恵ちゃんがこの世に見切りをつけた時、若旦那は一人で逝かせなかった。
若旦那の手にかかって死にたいとお多恵ちゃんが願ったのだとしたら、安らかな死に顔はきっと美しかったことだろう。
「若旦那が守りたかったのは、白妙花魁とこのお店です。ふたつを同時に守ることはできませんでしたけれど、少なくとも白妙花魁は救えたはずです」
二人がこの世を去ったというのに、私は泣けなかった。二人はやっと本当の意味で結ばれたのだと思えた。それなのに、今になって遅れて込み上げてくる。
「一方を選び取るのはさぞお苦しかったでしょう。勝手だと詰るのは、身を切るような決断をしたことのない者の言い分です。近頃の若旦那は、平気そうに見えましたか?」
あの柔らかく艶めいていた頃からは見る影もなくやつれた面立ち。悲しげな微笑み。
弟である才次郎さんがわからないはずがない。
才次郎さんは私の手の甲に拳を押しつけ、うつむいて呻く。肩が大きく上下して、そこに揺れる心が表れていた。
「おしまいじゃあありません。終わらせないために私はお力になります。私を育ててくれたこのお店にも、優しく接してくださった若旦那にもたくさんのご恩がございます」
若旦那は、私が救えなかったお多恵ちゃんを救ってくれた。だから、私はお多恵ちゃんを救ってくれた若旦那のためにできることをする。若旦那の選べなかった方を守る。
それこそが、これからの私の標になる。
才次郎さんの骨ばった手が、私の手を握り潰した。畳にできた雨漏りのような染みからそっと目を逸らす。
雨戸を開いたら、空は晴れているだろうか。
目を閉じると、沼から真っ白な鷺が飛びたった。
二羽の番は、沼のように生きづらい世を抜け、どこまでも天高く羽ばたいていく。
春の日差しの中を。
―了―