八
私が若旦那に連れられて着いた先は浅草だった。
「酉の日は鷲神社の市が立つんだ。今日だけでなく、二番目の酉の日、三番目の酉の日にも。今日は最初の〈一の酉〉で人が多いから、はぐれないようについておいで」
右手の方に浅草寺が見える。物珍しかったが、ぼうっとしていては若旦那の背を見失ってしまう。
私はまっすぐ前を向いた。田圃の、と若旦那が言った意味がよくわかった。見渡す限り田圃が広がっている。
青い田圃の向こうに見えるのが新吉原か。
外堀と高い囲いの中にある苦界。あそこにお多恵ちゃんがいるのだ。
酉の市は――いや、そこに至るまでの田圃の細道ですら人で埋め尽くされたようなありさまだった。葦簀囲いの露店や屋台も溢れている。日本橋界隈でさえ、まだ地面の土を見ることができた。
私は戸惑い、怯えながらも若旦那に続いた。人と人の隙間などなく、無理やり割り込んで進むしかない。体をすり鉢ですられているに等しいと思った。
掏摸、喧嘩、迷子、大変な騒動の中に埋もれて商売繁盛を祈願しているのだから、若旦那は商いを疎かになどしていない。
そして、人と押し合いながら露店で四寸はある熊手を贖った。煤竹に檜扇と張子のおかめ。お目出度いものがとにかくつけられているが、何故か物悲しい。
「さあ、行こう」
若旦那は熊手を担ぎ、私と神社の鳥居を抜ける。この時、若旦那の目が新吉原に向いていた。
新吉原の外堀――お歯黒どぶにははね橋が下ろされていたのだ。
まさか、と私は愕然とした。廓は、遊女が逃げてしまわないように厳しく取仕切られているのではなかったか。それがあんなにもあっさりと開かれている。
熊手を担いだ人々は吉原へ吸い込まれるように歩みを進めていた。
若旦那の足もそちらへ向き、私は思わず立ち止まった。
「わ、若旦那――」
私はどうすればいいのだ。女中とはいえ、吉原に女連れで入るはずがない。
しかし、若旦那は私の戸惑いもすべてわかりきっているふうで、振り返って微笑んだ。
「いいんだよ、おいで。何も怖いことはないから」
私は、若旦那を信じている。だったら、行けばいいのか。
お内儀が冗談めかして言ったようなことが起こるとは思わない。もし仮に起こったとしても、若旦那の中にはお多恵ちゃんしかいないのだ。
口惜しくないのは、お多恵ちゃんだからか。
白妙花魁には嫉妬した。あの気持ちはもう湧かない。
私はこれまで、見殺しにしたお多恵ちゃんの影に怯えていた。お多恵ちゃんが死んだというのなら、まずは冥福を祈るべきだったのに、自分のことばかり考えていた。可哀想なお多恵ちゃんを恐れるだけで思い遣れていなかった。
私を呪っていたのは、お多恵ちゃんではなく私だ。私が己を厭う心が、私を呪っていた。
ごめんなさい、と今さらのように詫びる。
それでも、私の中のお多恵ちゃんは清らかに笑っていた。
今でもまだ、あんなふうに笑えるのだろうか。
心が決めるまま、私は一歩踏み出す。また一歩。
若旦那はうなずいた。熊手を担ぐ人々が列を成す。それはおかしな光景だった。
「そこのあんた、大門までこれを持って出な」
呼び止められ、若衆に紙切れを手渡される。紙切れを受け取って私が首をかしげていると、若旦那がそっと教えてくれた。
「大門切手だ。女子の出入りには厳しいからね」
女郎が逃げ出せないように、切手がない女は大門を潜らせないということらしい。私は切手がくしゃくしゃになるほど握り締めた。
まっすぐに伸びた仲之町を、若旦那は歩幅を狭めてゆっくりと歩む。ああ、この通りにお多恵ちゃんの見世があるのかと察した。けれど、お職の白妙花魁が張見世に並んでいるわけがない。
男たちが籬の前に群がっている。八百屋の青物のように見世先で品定めされる遊女たちが微笑むのは、誰のためでもなく己のためなのだろう。
私は、作り上げられた花魁のお多恵ちゃんに会いたかっただろうか。お多恵ちゃんは私に会いたいだろうか。
若旦那は、私がお多恵ちゃんの言う子どもであると信じているわけではない。私をその子どもに仕立て上げたいのだ。お多恵ちゃんのために。
今、その子はつつがなく暮らしているよ、と安心させてやりたい一心から。
ふと、楼閣の障子に隙間が空いており、そこから白い色が見えた気がした。
そんなはずはない。それなのに、若旦那は木枯らしに吹かれながら遠い目をした。
「酉の祭が三の酉まである年には、吉原で必ず火事が起こるって言うんだよ。今年はどうだろうね」
ぽつり、とそんなことを言った。




