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 あと一度。

 もう一度だけ。


 若旦那の口から零れるのは、商いではなく花魁のことばかりになった。

 初めは息子の商才を喜び、豪気に振る舞っていた大旦那も、ついには難色を示す。


「近頃のお前と来たら、口を開けば白妙、白妙、と。うちの身代を潰す気かっ」


 それを言われて、若旦那は真っ青になっていた。想い人は花魁だ。通い詰めれば、身代が傾くほどの金子が要る。〈しら井屋〉が大店であろうと、それでも白妙花魁は手が出る相手ではない。それを一番よくわかっているのは若旦那のはずなのだ。


 以前ならば忙しく動き回り、ひとところに落ち着けない人であったのに、今は老年のような緩慢さで庭先を見つめていた。少しやつれながらも、目は切なく潤んでいる。


 心はまた、愛しい花魁のもとへ置き忘れていた。あれは、私が憧れた若旦那の抜け殻だろうか。抜け殻は、もとには戻らぬものだろうか。

 若旦那は通りかかった私に顔を向けてもいないのに、私だと気づいた。ふっと力の抜けた声でつぶやく。


「お寿、少ぅし私と出かけないかい?」

「ど、どちらまで」

「今日は(とり)の日だから、神社に縁起熊手を買いに行くんだ。つき合っておくれ」


 なんの毒気もない穏やかな顔で若旦那は言った。

 私が喜びを顔に出していたかどうかはわからない。多分、まったく変わりないとは言えないだろう。それでも、私は二つ返事で答えてはいけないと考えた。


「お許しがあれば、参りますが――」

「お寿が後で咎められたりしないようにするよ。じゃあ、行こうか」

「は、はい」


 本当は、少しくらい叱られたっていい。若旦那と二人で出かけるなんなことは二度とないに違いないから。




 若旦那と私は裏手から外へ出た。

 霜月。師走を前に日本橋の賑わいは、外の寒さとは裏腹に熱を帯びていく。

 そうだ、今年ももうふた月もせずに終わってしまう。私は若旦那の、淡い日差しを受ける梅幸茶の羽織を追った。


 活気づいた仲通りの店先。素見(ひやかし)に流れていく客を呼び止める店者たちの声が飛び込み、耳の中で暴れる。あちらからもこちらからも声が飛び交い、目が回りそうだ。私は大勢の人に紛れ、背中を丸めてつぶやく。


「どちらの神社まで行かれるのでしょう?」


 神社としか言われなかった。近場だろうと思っていたのだが、違うのだろうか。

 聞こえなければ聞こえなくていいと思ったが、若旦那は振り返った。


田圃(たんぼ)のお(とり)様だよ」


 微笑みを浮かべて答えてくれた。私にはその神社がどこなのかがわからなかった。

 誰でも知っている神社なのだろう。物知らずで恥ずかしいと、私は訊ね返すことをせずに知ったかぶりをした。


「そうでしたか」


 近いのだと、私が勝手に思っただけなのかもしれない。

 日本橋から離れ、しばし歩くと寺ばかりが目についた。この辺りに来たことはなかったかもしれない。若旦那は正面を見据えたまま、ぽつりと私に話しかける。


「お寿は駿河(するが)の生まれだったね?」


 私が思わず、えっ、と声を上げると、若旦那はおもむろに足を止めて振り返った。

 忙しく歩み去る人々が、私たちを通り越していくからか、世間から取り残されたような気分だった。


「そ、それがどうかなさいましたか?」


 すると、若旦那は庭先の猫のように目を細め、小さくうなずいた。そうしてまた歩き出す。私も若旦那の声を聞き逃さないように離れず歩く。私の郷まで覚えていてくれたと喜ぶには早い。若旦那はどこか言いにくそうに続けた。


「あの辺りは沼地が多いんじゃあないのかい」


 沼、と。決して近づいてはいけないあの暗闇。

 底のない沼に落ちれば沈んでいく。お多恵ちゃんのように。跡形もなく。そこにいたのだという証さえ沼の奥底に呑み込まれる。


 どうして若旦那の口から沼が飛び出すのか。私が自らの咎を忘れかけているから、それを知らしめるために誰かが言わせているのかとすら思った。


 若旦那は立ち止まった私の足元に目を留めた。ぽっくりの鼻緒は切れていない。


「どうした? 何か嫌なことを思い出させたのなら悪かったね。――沼に沈めばよかったと白妙が言ったものだから」

「白妙、花魁がですか?」


 脚が、みっともないくらいかたかたと震えた。白粉は、私の血の気の引いた肌を隠してくれているだろうか。若旦那は、まるで花魁との口説(くぜつ)を私に聞かせているような気まずげな顔を隠しながら再び歩む。


「白妙は女衒に江戸へ連れていかれる途中、とある宿場町に立ち寄ったそうだ。この時、女衒が急な病に倒れた。それで旅籠に居続けすることになって、眠っている女衒の目を盗んで少ぅしだけ町へ抜け出してみたらしい」


 宿場町の旅籠屋というのは、旅先で仕方なく泊まる場であり、翌朝には出立しなくてはならない。病などで動けない時のみ、続けて泊まることを許される。


 女衒が連れている子は廓に売るための品だから、逃げられては大損だ。女衒は親に金子を支払って買い取っているのだから、見張られていたのではないのか。


「帰るところはないから、逃げるつもりではなかったそうだ。けれど、やはりこのまま連れていかれるのも嫌だった。どうにかならないかと、その宿場町で知り合った女の子と一緒に沼に隠れに行ったと」


 不意に喉を握り潰されたほどの苦痛に襲われた。疚しさが、私の息遣いを浅くする。若旦那は気づかない。遠くの山並みを眺めて歩いていた。


「白妙は足を滑らせて沼に落ちかけたそうだ。ただ、沼は思いのほか浅かったらしい。それを知らない女の子は、驚いて大人を呼びに走った」


 ――私は、お多恵ちゃんの苦悩を知ろうともしなかった。

 私が責め立てられるよりは、一緒に沈むよりは、お多恵ちゃんが一人で跡形もなく沈んでしまえばいいと、ほんの少し思った。

 お多恵ちゃんは私の心を知らない。けれど、私もお多恵ちゃんの心を知らなかった。


「このまま己の姿が見えなくなれば、沼に沈んだとされると考えた。あの子が白妙と沼に来たと大人に話してくれて、それで見つからなければもう捜されない。けれど、白妙は女衒に頼まれて後をつけていた宿の男によってすぐに連れ戻されたのだそうだ」


 私とお多恵ちゃんに似た二人が他にいると考えるより、素直に認めてしまえばいい。それは、私たちなのだと。お多恵ちゃんが沈んだのは沼の底ではない。江戸の苦界(くがい)だ。

 あの可愛らしい娘が、白粉の似合う花魁になっていてもなんらおかしなことではない。


 沼の底とどちらがよかったか。沼に沈めばよかったと言ったのなら、今の方がいいということはない。あそこは女にとっての生き地獄なのだから。


 それでも、お多恵ちゃんが生きていたことに私はほっとしていた。強く握り締めて冷たくなっていた手を開くと、指先にまでじんわりと熱が行き渡る。


 私はやはり、人でなしなのだろう。そうでなければ、お多恵ちゃんが吉原に売られたことを知って、それでも己のためによかったなどと思うものか。


「花魁の家は、子を売るほどに貧しかったのですか?」


 綺麗な紅い着物。しゃらりと揺れる簪――。

 あれが女衒に売られた子だろうか。そんなふうにはとても見えなかった。それならば、お多恵ちゃんとはやはり違うのか。若旦那は首を振った。


「むしろよい暮らしをしていたそうだよ。それが、父親が死ぬと後妻が幅を利かせるようになり、白妙を養女にやると言って内緒で女衒に売りつけた。後妻は白妙に、この人は案内人だとしか言わなかったが、白妙は売られたのだとすぐに気づいたらしい」


 お多恵ちゃんに気取られないために、後妻はあの綺麗な着物をはぎ取れなかった。それとも、せめてもの選別のつもりだったのか。子どもは大人が思うほど愚かではない。


「白妙はずっと悔いている。己の身勝手さからあの子にひどい重荷を背負わせてしまったと。今でも己が沼の底にいると信じているとしたら、こんなにひどいことはないと」


 若旦那は一度言葉を切り、白妙花魁の遣る瀬ない思いを一緒に背負ったように語る。


「その女の子はいつも赤ん坊を背負っていて、羨ましかったそうだ。家族がいて、頼りにしてくれる人がいて羨ましかったから、ほんの少し困らせてやりたいような気もしてしまって、その子の手を取れなかったって」

 違う。あの手は届かなかった。私は届かないところに立っていた。

 私が羨ましかったと。毎日を腐って過ごしていた、あんな私が。


「己は人でなしで、苦界にいるのが相応しいのだと諦めたなんて、悲しいことを言う」


 白妙花魁――お多恵ちゃんは、どうして若旦那にこんなことを話したのだろう。

 どうして若旦那は私にこの話をしたのだろう。


 私がその子だと知るはずもないのに。

 名前が同じ、郷里が同じ、そんな娘はいくらでもいる。


 理由などないのかもしれない。お多恵ちゃんはふと、風が吹くほどさりげなく、誰かに話したいような気になった。それは、お天道様が長年苦しんだ私たちを許してもいいと感じてくださったからだといい。


 私の暗い冬が終わり、あたたかな日差しが降り注ぐかに思えた。けれど、お多恵ちゃんは違う。このまま何も知らず、客を取りながら身をすり減らすばかりだ。

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