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 ――ある日、あれは私が十三になった頃だ。


「お寿、ちょいとおいで」


 お内儀が僅かに開いた障子の隙間から手招きしている。私は埃を払っていたために汚れている手を前垂れでさっと拭い、お内儀の部屋へ三つ指を突いてから入った。


「何か御用でしょうか」


 すると、お内儀は障子を閉めるように促した。よくよく見ると、お内儀はいつも綺麗に化粧を施しているのに、素肌のままだった。大きな息子がいるとは思えないほど若々しかったお内儀も、化粧を落としてしまえば小さな皺や染みがある。肌はくすんでいて、まるで別人のようだ。


 見てはならないものを見てしまった心持ちがして、私が戸惑ったことなどお内儀は見通していたのだろう。くすりと笑った。


「よく見ておくんだよ」


 お内儀は黒塗りの鏡台の横についた抽斗を引き、そこからたっぷりとした刷毛を取り出した。それから、凝った瀬戸物の器に入っていた白粉を刷毛で取り、よく叩いて余分を落としてからそれを肌に滑らせる。小鼻の周りなどの細かいところは筆に持ち替え、丹念に白粉をごく薄くはたいていく。

 次に、お内儀は別の瀬戸物の器に用意してあった水で白粉を溶き始めた。


「水は少しずつ加えてよく溶いて滑らかにするんだ。丁寧にね。いい加減だと、せっかくの白粉も見苦しいだけさ」


 私はなんと答えていいのかわからず、うなずいた。

 白すぎるほど白い、水で溶いた白粉は、刷毛でお内儀の肌に載せられていく。塗りすぎなのではないのかと思うほど、こってりと。それから薄く延ばされた。長年化粧を続けて手慣れたお内儀の手際に見惚れる。まるで左官の職人技を見ている気分だ。


 せっかく綺麗に塗り込めた肌から、お内儀は濡らした手ぬぐいで白粉を落としてしまった。どうしたことかと私が驚いていると、お内儀はまた刷毛を手にしながら言った。


「これを繰り返すんだよ。何度も塗って、落として。化粧ってぇのは七面倒くさいものなのさ」


 笑いを含んだ声で言いながらも、お内儀は楽しんでいるように見えた。


「塗りすぎは野暮だ。塗って、落として、丁度いい薄化粧に仕上げるんだよ」


 店で扱っている白粉は主に〈はふに〉と呼ばれる京白粉と、〈はらや〉という伊勢白粉とがあった。〈はらや〉の方が格段に高価だが、肌が輝くように白く滑らかに仕上がると聞いた。歌舞伎役者が使うのも〈はふに〉の方で、〈はらや〉を使うのは公家や大名家などの特別な女人だけであるらしい。お内儀が使っているのも〈はふに〉だろう。


 〈はふに〉は鉛を酢で蒸して水にさらし、できた塊を乾かして砕いたものだという。女中の私にまで詳しく教えてくれたわけではないが、若旦那や手代たちが丁稚に教え込む声が聞こえてきて覚えたのだ。


「白粉は塗りむらがあっちゃいけない。境目を見せず塗るようにしないと」


 耳の裏、首筋、と襟を寛げて塗っていく。大変な手間だ。

 肌に艶を取り戻したお内儀は、それでもまだ手を止めない。


「これは白粉と油煙を混ぜた際墨だよ。あたしの額はあんまりいい形でないから、これで輪郭を整えて富士額に見せて、と――」


 あの額までも化粧だったのだ。化粧とは単純に肌を白くするだけのことではないと。

 こうして見せてもらわねば、私は何も知らないままだった。奥向きの仕事とはいえ、白粉屋で働いている娘が、年頃になっても化粧をしていないなんてことがあってはならないのかもしれない。だからお内儀は、私にこうして丁寧に教えてくれているのだ。


「若い娘と違って、あたしは眉墨を引くことはないし、あんたにお歯黒はまだ早いから、そこはいいとして、後は紅だね」


 ひっくり返してあった(べに)猪口(ちょく)の底をつまみ、お内儀は小筆で内側の紅を浚ってたっぷりと唇に載せた。

 紅は白粉以上に高価だが、大店のお内儀が慎ましくては示しがつかない。舟木町の紅問屋〈伊勢半(いせはん)〉の〈小町(こまち)(べに)〉だそうだ。

 お内儀は鏡から顔を逸らし、十も二十も若返った美しい顔で微笑んだ。


「女と生まれたからには白粉を塗らぬ日があってはならない、なんて世間じゃ言うほどさ。あんたはきっと化粧映えするから、丁寧に支度をするんだよ」

「あい。ありがとうございます」


 私は額を畳につけて礼を述べた。

 たかが女中にまで懇切丁寧に化粧法を教えてくれる。それが嬉しかった。胸の奥がはち切れんほど、何かで満たされた。こんなことは実家にいた時には一度もなかった。


 それなのに、この〈しら井屋〉では何度も起こった。

 これが〈一陽来復〉の春が訪れる兆しならばいいのに。




 〈しら井屋〉には、嫡男の若旦那の他にもう一人の子がいる。若旦那の弟、(さい)次郎(じろう)さんだ。私よりも三つほど年上だが、跡取り息子の出来がすこぶるよいこの(たな)において、才次郎さんの肩身は狭かった。すっかりひねくれてしまっている。


 顔立ちも若旦那ほど目を引くものではなく、似たところはあるが華がない。前髪を落としても、未だに言動が子どもじみていた。


「お寿はおっかさんのお気に入りだからなぁ」


 そう言って、いつも私に突っかかる。嬉しくはないが、邪険にもできない。


「ありがたいことでございます」


 私が丁寧に受け答えれば、才次郎さんの機嫌はますます悪くなった。


「そうやっていつも、いい子ぶってんのな」


 これには苦笑するしかない。もしかすると、私の性質を一番よく見抜いているのは才次郎さんなのかもしれない。

 きっと、この人は私とよく似ているのだ。だから感じるものがある。頭を下げてやり過ごし、才次郎さんの舌打ちを背中で受けた。



     ❖



 それから三年もすると、私も看板に描かれた鷺に怯えなくなった。お内儀が使う立派な鏡台は持てなくとも、化粧をし始める。少しは年頃の娘らしくなっただろうか。


 この頃、〈しら井屋〉の商いは順調かに見えたが、どんなところにも商売敵がいる。人気の歌舞伎役者の名を使ったり、凝った箱に入れたりと工夫を凝らした品が飛ぶように売れているらしい。


 今はまだ白粉の売れ行きが落ちたということもないが、商売というのはすぐ先のことでさえわからないという。


 大旦那よりもそこに気を揉んでいるのは若旦那だった。私がせっせと奥向きの廊下の板敷を拭いていると、若旦那と大旦那の声が聞こえてきた。


「引き札に女子の気を引けるような謳い文句をつけてばら撒いちゃどうでしょう」


 若旦那は商売熱心だ。立派だと惚れ惚れする。若旦那のことを考えると、胸の奥がほんのりと熱を持った。この不相応な憧れは、もちろん口に出して誰かに言うこともない。墓の下まで持っていく思い出だ。


「謳い文句なぁ。歌舞伎役者御用達か? 二番煎じじゃないか」


 渋った大旦那の声に、若旦那は畳をぴしゃりと打つ。


「極端なことを言うと、このお江戸では昔から流行り物の立役者は歌舞伎役者か遊女かのどちらかです。歌舞伎役者が二番煎じなら、遊女はいかがですか?」

「遊女と」

「そうです。吉原の花魁がうちの白粉を使っていると引き札に書いたならどうでしょう? 特に、肌の白さで右に出る者はいないとされる白妙(しろたえ)花魁が使っているとなれば、江戸中の女子(おなご)が一度は使ってみたいと考えるでしょう」

「しかし、ただで会えないのが花魁だ。大体、会ったところで頼みを聞いてもらえるかどうか」

「それでも、長い目で見れば儲けは出ます。うちの名を上げるためですから」


 吉原の花魁は、数多くいる遊女の中でも万人の憧れだ。天女のごとく美しい花魁が使っているとなれば、〈しら井屋〉の評判も上がるというもの。


 ただし、大旦那は乗り気ではないようだ。若旦那の声には熱が籠っているが、大旦那の方はそれを冷ややかに受け止めている。いずれ身代を受け継ぐ若旦那ではあるが、大旦那からしてみればまだまだ危なっかしいのだ。手放しで褒めてくれるでもない。


 それでも、頭からいけないと押さえつけるものではないと思い直したのか、大旦那は溜息をひとつ添えて許した。


「まあいい、お前がやってみたいのなら試してみなさい」


 渋々ながらに大旦那の許しが得られ、若旦那の喜色に満ちた声が障子を越えて聞こえた。私は、板敷を拭く手を再び忙しなく動かした。それでも、吉原、花魁、という私とは縁遠い言葉が耳に残った。


 ――ああ、爪が伸びている。そろそろ切らなければ。

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