三
帰り道、そんな娘はいなかったと思い込もうとしても、できるはずがなかった。
私は卑怯で、弱い心を捏ね回してわかったような気分になるだけだ。だからこそ、お多恵ちゃんの命を背負って生きられない。見つかった時のことを考えると、黙っておく方が余計につらい気がした。
家に戻るなり、私は寝たきりの父に訴える。
「お多恵ちゃんが沼に沈んだの。助けて」
父は落ちくぼんだ目の奥から私を見た。私は、起き上がることもできない父に何を言っているのかと、相手を間違えたことに気づいた。
「お多恵ちゃんてぇのはどこの娘だ? なんでお前、沼に行った?」
薄暗い長屋の中、父の目の奥にも沼と同じ泥の色が見えた。ああ、嫌だ。沼に囚われる。背中の妹がぎゃあと泣いた。襁褓が濡れている。けれど、どうでもいい。
私はねんねこ袢纏を脱ぎ捨て、妹を茣蓙の上に転がした。父が顔を顰める。うるさいからか、臭いからか。
泣き叫ぶ妹と、低く嗄れた声で唸る父に背を向けて家を飛び出した。そして、長屋の大人たちにすがる。
「お多恵ちゃんが沼に落ちたの。助けて。お願い」
「お寿ちゃん、お多恵ちゃんってぇのはどこの子だい?」
「わからない。でも、急がないとっ」
大人たちは、私が必死に訴えるのだからと、番屋へ一緒に行ってくれた。
「近くの沼か。わかった、すぐに行こう」
番屋にいた大人たちは壁にかけてあった刺又を持った。私もついて行こうとしたが、小母さんたちに止められた。
「お寿ちゃんは家にいな。後は大人に任せるんだよ」
家になんていたくない。けれど、沼に足を向けることもできない。あれから時がたったから、お多恵ちゃんはきっと沈んでいる。背を向けた私を恨みながら沈んだのだ。
私は恐ろしくなって、妹に負けないくらい大きな声を上げて泣いた。
男手は沼へ割き、残っている小母さんたちが私を慰めてくれた。けれど、悪いのは私だけだ。泣く方が図々しい。それを知らない小母さんたちは優しかった。
日が暮れていく。家の中で私は息をするのも苦しい時を過ごした。それこそ、沼の底のように息が続かない。泣きすぎたせいだろうか。
ひっ、ひっ、と浅く息をしていると、家の戸が開いた。長い影を落として入ってきたのは、母だった。母は土間から上がるなり、私の肩口をつかんで揺さぶった。
「あんたは手のかからない子だと思ったのにっ」
首がかくん、と揺れる。母の形相が、剣幕が、私をさらなる暗がりに突き落とす。父は止めなかった。妹は泣くばかりだ。母は、今度は突き放すように私から離れた。
「お多恵ってぇのはどこの子なのさ?」
「親戚の家に遊びに来ているって、言ってた」
「この辺りにはそんな子はいないんだよ。この嘘つき」
母の言葉は、私の心に穴を空けた。そこから零れていくものはなんだろう。もともと空っぽの心には、零れて困るようなものも詰まっていなかった。
冷たい母の目が光る。どうして、母が泣くのだ。
「お多恵なんて子、端からいなかったんだろっ」
それこそ、嘘だ。いないはずがない。呆然と母を見上げていると、母は唇を噛み締め、手を振り上げた。しかし、その手が私を引っぱたくことはなかった。ゆっくりと手が下ろされる。私は母の指先をぼんやりと見つめていた。
「お寿はあんたが構ってあげないから寂しかったんだよって、皆があたしを責めるんだ。あたしは働けない亭主の分も必死で働いてるってぇのに、なんなのさ」
全部あたしが悪いのかい、と母は泣き崩れた。じゃあ、悪いのは私か。全部私が悪いのか。私には何もわからない。お多恵ちゃんはどこに行ったのだろう。見つからないほど深く、泥の底に沈んだということか。
うちで預かっている子が帰ってこないと届け出がなければ、もう多恵ちゃんは捜されない。実は遺体は上がっていて、それでも私を気遣って大人たちが本当のことを伝えないだけではないのか。
何度も問い質せば、誰かが口を滑らせるかもしれない。けれど、私にそんな胆力はない。何度も自らの傷を抉るようにして口の端にお多恵ちゃんの名をあげることができなかった。可哀想なのは泣いている母でもなく、傷ついた私でもなく、沼に沈んだお多恵ちゃんだ――。
❖
お多恵ちゃんは、私の中で触れてはならない傷痕になった。誰も私に沼のことを言わない。皆、生温い風のような優しさを私に向ける。毎日震えながら眠った。
それでも私は生きている。悪い子なのに、急に息の音が止るようなことは起こらなかった。
母はあれから怒ることがなくなった。泣いて心に溜まっていた憂さが晴れたのかと、そんなふうにも思えた。しかし、人はそうわかりやすくできてはいないのだ。
憂さが晴れたのなら、笑えただろう。けれど、母は一度も笑わなかった。ただぼうっと毎日を過ごしていた。
母と私は同じだ。私もあんなふうに笑わず、泣かず、ただ毎日を生きている。私も母もただ曇った空が広がるような心を抱えていた。
そうして、母はふわりといなくなった。ふわりと、ある日突然消えた。鷺が飛びたつようにして。どこへ消えたのか、生きているのかさえ、知らない。
ただ、それによって私たちの生き方は大きく変わった。
私は女中奉公へ出ることになった。稼ぎは入るが、家にはそうそう帰れないから、父のことは長屋の人たちが見ていてくれる。妹は――貰われていった。
まだ何も話せない妹は、最後に、あー、あー、と唸っただけだ。それなのに、妹が私との別れを惜しんでくれたなどと感じたのは、おこがましいにもほどがある。
あんなに疎ましく思っていた妹だ。その妹と別れ、どうして胸が疼くのか。
これから、ひたすらに不幸が続くのだとしたら、お多恵ちゃんが恨んでいて、私を呪っているからだ。私は涙を呑んで、お多恵ちゃんに詫びるしかない。