二
翌朝になるとお多恵ちゃんのことも薄れてきて、あれは夢だったのではないかという気がしてきた。あんなにも図々しい色は、私の身近にはないはずだ。
けれども長屋の外へ使いに出ると、あっさりと出くわしてしまう。嬉しそうな顔をしたお多恵ちゃんは、私に何を求めているのだ。
「お寿ちゃん。よかった、また会えた」
親しい友のように笑いかける。赤の他人だろうに。そんな美しい顔で荒んだ私に微笑みかけて、何かいいことでもあるのだろうか。同じ年頃の子はちゃんと手習所に通っていて、私のように日中には捕まらないだけなのかもしれない。
お多恵ちゃんは好んで私につきまとう。
私が行く先に、お多恵ちゃんもついてくる。
「お寿ちゃんの家はこの近くなの? 他に兄弟はいるの? 好きな食べ物はなぁに?」
矢継ぎ早に訊ねられて嫌気が差した。私の何がそんなに物珍しいというのだ。
お多恵ちゃんが十話す。私が二ほど答える。それでもお多恵ちゃんは楽しげだった。
お多恵ちゃんといた日々は短い。五本の指をすべて折りきれないほどだ。たったそれだけの時を共に過ごしただけなのに、私は生涯お多恵ちゃんを忘れることができない。
「ねえ、お寿ちゃん」
お多恵ちゃんは私を見ない。空を見上げながら私を呼んだ。
なんとなく、返事をするのが嫌だと思った。意地でもするものかと。
それが何故なのか、その意地がどこから来るものなのかもよくわからないくせに。
私の返事がなくとも、お多恵ちゃんは勝手に語り出す。
「もうすぐ行かなくちゃいけないの」
それは、裕福な実家からの迎えが来るということ。
そうか、帰るのか。帰ればいい。
未だに友という気がしない。それは、私自身が友を知らないからか。
どうすれば友と呼べるのか、まず私が知らない。
お多恵ちゃんは空を見上げるのをやめ、私を見た。
しゃぼんの玉のように艶めいて、儚い。そんな目をしている。
私の目は何に例えられるだろうか。考えたくもなかった。
「行きたくないわ」
こんな面白みのない土地に、お多恵ちゃんは一体なんの値打ちを見出したのだろう。帰りたくないと言う。私の方がずっと、家に帰りたくないと思っている。
「ねえ、お寿ちゃん。どこか隠れられる場所はないかしら」
紅い唇が弓なりに、お多恵ちゃんは美しく笑っている。
こんなものはきっと冗談だ。隠れてみせ、迎えの者に心配させて楽しむだけだろう。
本気で置いていかれるなんて考えてもいない。たちの悪い、子どもの悪戯。
それでも、この可愛らしい子に謝られたら、どんな大人も容易く許すに違いない。無事でよかったと、そんなことしか言われないはずだ。
私がもし隠れたりしたら、母は私の頬を張って、油を売っているんじゃないと叱るだろう。心配をかけないでおくれとは言われない。
そんな生温い言葉は母の口から零れない。もうずっと昔から。
「あるよ。私、知ってる」
そう答えた私は、とても意地悪な顔をしていただろう。無垢なお多恵ちゃんはそれに気づかず、喜んで手を合わせた。
「本当っ? 連れていって」
「いいよ」
近くに薄暗い沼地がある。子どもたちが近づいてはならない場所だ。
私も話に聞くだけで行ったことはない。行きたいとも思わなかった。
お多恵ちゃんのような子は汚らしい沼に耐えられず、すぐに連れて帰ってと泣くだろう。そんなお多恵ちゃんを見て、私は勝ち誇った笑みを浮かべることになるのだ。
お多恵ちゃんの泣き顔が見たい。いつでも笑っているお多恵ちゃんの可愛い顔が恐ろしさに歪めばいい。そうしたら、私の心が少しくらいは救われる気がする。
――曇った薄墨の空の下。私はお多恵ちゃんと歩いた。昼八つを過ぎると旅人も宿に落ち着き、出くわす人もいなかった。
途中、お多恵ちゃんの口数は少なかったかもしれない。家に帰るとあって、何が不服なのかが私にはとんとわからなかった。
可愛がられていない娘なら、そんな上等の着物は着ていない。私のように。
はぁ、と小さく溜息をついたお多恵ちゃん。
私の心がささくれだった。
私たちが近づいたら、沼にいた鷺が甲高く鳴いて飛びたった。
真っ白な羽を広げると、驚くほど大きい。細く長い首と脚を曲げて力強く羽ばたいていく。
薄汚い色の空に一羽の鷺が飛ぶと、とても清らかに見えた。
あんなふうに飛んでいけたら、どんなにかいいだろう。隣で空を見上げていたお多恵ちゃんも、私と同じことを思ったのかと考えて打ち消す。まさか、そんなはずはない。
「ここにいたら誰にも見つからずに済むのね」
お多恵ちゃんがぼんやりとつぶやいた。どこか夢見るような面持ちだった。
この苔むした汚い沼地で何故そんな顔をするのか。お多恵ちゃんは変わっている。それでも、白い顔は先ほど飛びたった鷺ほどには清らかだった。
お多恵ちゃんは純白の鷺なのだ。もしくは蓮の花だろうか。この沼地でも美しくいられる。私とは違う。小半時もすれば、お多恵ちゃんは不気味なばかりの沼に飽いたと言って帰りたがるはずで、私は背中の妹を揺さぶりながらそれを待った。
うっそりと沼を眺めて立ち尽くすお多恵ちゃんのほつれ毛が風に揺れる。不意にその頼りない背中を突き飛ばしてやりたくなった。泥まみれになって泣きべそをかけばいい。
けれど、私がそんなことを考えたせいか、途端に背中の妹が狂ったように泣き始めた。お多恵ちゃんがはっとして振り返る。
――あんなのは、ほんの少し考えてみただけだ。本気ではない。
本気で突き飛ばしたりしない。それとも、考えただけでいけないと、背の赤ん坊は言うのか。人を羨み、妬み、そんな私のことが嫌いだと。
私も嫌いだ。こんな私は嫌いだ。
お多恵ちゃんのようになれたなら。姿かたちが美しいだけではない。性根の綺麗な、心優しい笑みを浮かべられる子であればよかった。どうしてそうなれなかったのだろう。
不意に涙が溢れ、お多恵ちゃんは泣いている私に驚いていた。
「どうしたの、お寿ちゃ――」
沼の淵から私に駆け寄ろうとしたお多恵ちゃんは足を滑らせた。小さな悲鳴を上げ、お多恵ちゃんは沼に落ちる。重たい水音がして泥が跳ねた。
綿のたくさん入ったお多恵ちゃんの袷は水気をよく吸う。お多恵ちゃんは沼の淵に生えた草を握ったが、泥塗れの手では滑ってつかめない。
「お、お多恵ちゃん」
私は手を伸ばした。けれど、もしこの沼に化け物がいて、お多恵ちゃん共々引きずり込まれたらと考えて怖気づいた。
私はお多恵ちゃんとこの沼の底に沈むのか。何ひとついい目を見ていない、この短い生を汚い泥に埋もれて終わらせられるのか。
人は死ねば溶けていく。水が出て、肉が腐って溶けるのだ。
棺桶の底から水が漏れるのを見て、大人が、もう腐ってきたと言った。腐ったら人は水になる。それは臭い、汚らしい水に。
それなら、この沼が汚いなんてこともないのか。
私の手を、お多恵ちゃんは取らなかった。取れなかったのかもしれない。私は、手を差し伸べながらも間を保っていた。届かないとわかっているところに立っていた。
怖かったのだ。暗い沼は嫌だ。勝手に沈んでしまえと、どこかで思っていたから足が前に出なかったのか。背中の妹を守りたいのとも違う。守りたいのは己だけだ。
浅ましい。
けれど、生きるという執着はそういうものではないのか。
誰かを見捨てても、それは仕方のないことではないのか。
お多恵ちゃんは沼の淵から手を放した。それが意味することを、私は考えないようにした。
私はこの時、叫んだだけだった。駆け寄って手を伸ばしたりはしていない。
お多恵ちゃんに背を向け、沼から逃げた。
大人を呼んでこなければ。私ではとても引き上げられない。だから、お多恵ちゃんに背を向けたのだ。
――違う。私は、怖くて逃げたかった。
ただし、背中で火がついたように泣いている妹がすべて見ていた。私のおぞましさを知っている。けれど、赤ん坊だから、このことを誰かに言えやしない。このまま忘れてくれたらいい。
どうして子どもだけで沼に行ったのかと責め立てられたら、悪いのは私だ。お多恵ちゃんはごめんなさいのひと言で許される。怖い思いをしたと慰められる。けれど私は。
お前がそそのかしたからだと責め立てられる。そうだ、私が悪い。私がお多恵ちゃんを誘い出したから。
誰も、私を庇ってくれない。遊びたい盛りに家の手伝いをして偉いと褒めてくれる長屋の小母さんたちでさえ、私に嫌な顔をするだろう。
助けを呼ばなければ。でも、怖い。駆け出した足がぴたりと止まった。沼を振り返る。草に埋もれた沼は、何事もなかったかのように静かだ。
お多恵ちゃんは沼に沈んだのか。もう助からないのかもしれない。助けを呼ぶだけ無駄なこと――。
それなら、黙っていればいい。とても恐ろしいことを考えた。
お多恵ちゃんの家を私は知らない。お多恵ちゃんの家の人も私を知らない。
私が口を噤んでしまえば、今日のことはなくなる。今日は、何も起こらなかったと。
そもそも、お多恵ちゃんという娘は本当にここにいたのだろうか。お多恵ちゃんが物の怪であればいい。私が化かされていたのならいい。そんな娘は端からいなかった。
私は、私のためにお多恵ちゃんを物の怪にしたくなった。




