誕生日落とし
誕生日落としが来るよ。
誕生日落としが。
学校の、校舎横なんかに鎮座するあの白い百葉箱の前。
そこに立ってダウンロードアプリを探せば夕方の六時四十五分から四十八分の間にだけ、ダウンロードできるラジオアプリがあるという。
真っ黒な四角に、白でか細くHBDと書かれたアプリ。
それが、この街に潜む不可思議『誕生日落とし』のターゲットになったという証明。
HBDアプリはタップしても何の面白みもない、ランダムにFMラジオ局の番組を再生するアプリらしい。
だがこのアプリは消せない。
スマホも、捨てたり、機種変をしようとしても事情が許さなくなり成功しない。
それでもラジオ番組を再生できるだけなら、無害なアプリと言えるのだが。
「この間の、隣の高校のやつが溺死した話知ってっか」
「ああ、ニュースでやってたね。毎年毎年、あの川で溺死してんのによくもまあ泳ぐよなって……」
「あれ、『誕生日落とし』らしいよ」
「ああーん? もっともらしく怪談こじつけんな」
「本当だって、誕生日の日の夕方、スマホからハッピーバースデートゥーユーが流れて、急に真下に開いた真っ暗な穴に落っこちてって、行方不明になったと思ったら、溺死で発見されたってよ」
昼食時のそんな他愛もない噂を陣太は聞き流そうとした。
なんとなく、意識をフォーカスすると肉類のおかずが不味く感じられそうだと思って。
その噂は中学と高校でだけ流行っている。
なぜだかわからないけれど、大人はくだらないと一笑にふすし、中学生以下の子どもは興味を持たないのだ。
陣太たち中高生にとっては真に迫った危険についての話だというのに。
とはいえ、条件はわかっているのだ。
やったら怪異のターゲットになって死にますよ。なんていうことをやる馬鹿はめったにいない。
いないはずなのだが……向こうみずに試してしまう者もいる、そういう気分になって越えてはならない壁の向こうにいくやつが一定数いる。
そして、あるいは、向こうみずな行為だが自分でやらずに、それを他人にやらせるという奴も──一定数いるのだ。
「ちょっ、HBDアプリダウンロードしちゃったって? ……マジ?」
「大声出さないで、美和たちに人に話すなって言われてるから」
夏休み前最後の通常授業日の昼休み、陣太は他生徒のいない屋上前の踊り場で、幼馴染の詩衣にスマホの画面を見せられていた。
黒い地にか細い、針で掻いたようなHBDの文字のアプリがそこにある。
それだけなのに、そのアイコンを見つめると陣太は背後が気になるような不安に襲われた。
「消せばって言いたいけど。本当に消せないのか」
「消せない。見て」
細くて桜貝のような爪ののった指がHBDを長押しし×部分を押す。
消えなかった。
「俺にも貸してみろ」
陣太が試しても、もちろん消えない。こればっかりは冗談で作った偽アプリにできる芸当じゃない。
「百葉箱の前でダウンロードした? なんでそんな馬鹿なこと」
「ここのとこ美和たちとぎこちなくなってて、菜々子の好きな人が私の事好きだ、って友達と話してたとかでさ……」
「仲、良さそうだったのに」
「女の子グループだと色々あんるんだよ、仲良くってもほんの些細なキッカケでエネミー化ってさ」
詩衣の黒目がちな目を透明な膜のように涙が覆い、長いまつ毛が震える干渉で涙は頬に流れていった。
「百葉箱の前でダウンロードできるか試したら、元に戻ってやってもいいって言われて、やっちゃった」
「……それで、また美和達と仲良くやれてんの?」
詩衣はふるふると首を振った。
気味悪い、あんた誕生日で死ぬんだ? 人に言わないでよあたし達が悪いみたいに思われたらヤだから、と馬鹿にしたように言われて距離を置かれたままに変わりなかったそうで。
「なんの、ために……陣太……わた、わたし……死んじゃうのかなあ」
窓のない、屋上前の踊り場は暑い。
行き場のない空気は蒸して、重く、一呼吸ごとに体力を奪う。
陣太は詩衣の不運に同情した。彼女の誕生日を覚えている。
幼馴染は、盆に生まれた陣太の一週前に生まれた。
「八月八日……あと、十九日しかない」
詩衣の死の運命に抗う、準備時間はそれだけか。
「ただ待つんじゃたぶん持ってかれる。探してみよう、『誕生日落とし』を免れる方法を」
陣太は翌日終業式後に最寄りの寺を訪ねてみた。が、成果はなかった。
つかまえた住職に『誕生日落とし』の話をしても話半分で。
「学校に心理カウンセラーの先生はいるかい?」と言われる始末。
元々、こういった話で当てになるお祓いが寺や神社にいて救われた試しはろくにない。
もう少し、『誕生日落とし』とは何か、いつが出所で、何なのか理解を深めたほうがいいだろう。
いつから出た? ラジオアプリなのだ。
江戸時代から続く呪いによりラジオアプリから流れるハッピーバースデーの歌声と共に攫われる、はずがない。
この怪異話はおそらく生まれて年月が浅い。
せいぜい、遡ってここ十数年内。
陣太は友達、さらにその友達や先輩、塾の知り合いにまで確認して『誕生日落とし』の噂の広がり方、いつ初めて聞いたかを取りまとめた。
詩衣の前で角の取れてきたキャンパスノートをバサリと振る。
八月に入った日差しは、詩衣の部屋のローテブルの上まで容赦なく入り込み、陣太の調査内容がみっちり記載されたノートと、並んだ麦茶入りグラスを照らした。
「時期は、絞れてきたんだ。『誕生日落とし』を三年前の夏より前から知っている人はいなかった。その時期手前に発生したものじゃないか? 場所もきっちり市内、それも線路で区切られた東半分でしか広まってない……詩衣?」
「毎日」
「え?」
「毎日夕方になるとラジオアプリが勝手につくの。六時四十五分から四十八分の間で。番組は普通なんだけど、たまに音が急に大きくなるの」
──次の曲は『あ』る恋の情景を歌った『と』っても胸に響く──
「前の音の余韻が切れる前にはっきりと次の音が大きくなる。繋げると……昨日は『あと七日』って」
項垂れている詩衣は、盛んに鳴く蝉の声に打たれてでもいるようだ。
「なあ、家こもってたって解決しないし、気分転換がてらいっしょに『誕生日落とし』の出だしについて調べて──」
「帰って」
「詩衣」
「今日は帰って、わたし、今そとにでたくない。あと七日しか生きれないなら、少しでも自分の部屋で心を落ち着けたいの」
クッションを抱き込む詩衣は頑なで。
大人しく帰ることにした陣太は、うつむいて帰り道を歩いた。
ああやって冷たくされても詩衣を見捨てられない。
なんとかしてやりたいという気持ちにまったく変わりない。
詩衣より一週後に生まれた陣太。
誕生日は盆で、訪れる親族や先祖の供養にいつも陣太の誕生日は後回しにされた。
ケーキだって、売ってる店は限られるし、友人も帰省だとか親族集まりでいなくなる。
「わたしが祝ったげるよ、陣太。ほら、ケーキ。コンビニのだけど。プレゼントも」
蒸し暑い縁側で、ろうそく一本たてて祝ってくれる。その瞬間が胸に温かくて。
思い出して、陣太は絶対に詩衣を助けるという気持ちを新たにした。
今は恐怖で陣太へのあたりが強いのは仕方ないことだと。
「誕生日の、自殺」三年前の夏手前に起きた事件を取り上げた一片の記事。
検索で行き着いた自分の街の事件に、陣太は日光に当たって光る糸をつかんだような、直感があった。
当時のニュースだけでなく、掲示板なんかのログをたどり、遺書画像を得た。
そのか細い糸のような字に、HBDアプリの字体が重なる。
「『誕生日落とし』はおまえか?」
集合写真からとったのだろうネットに流された本人画像では、何てことない印象の、けれど決して前に出てこれるタイプではない少年が虚な顔をしている。
まだ小学校の高学年だった。
「何を、その年でそこまで」
陣太だって、まだ十六で、そこまで生きたわけじゃない。でも自分の歳まで耐えて生きてみようと思えないほど、この少年は追い詰められたという事が、哀しかった。
翌日からの、陣太の調査の方向は定まった。
生前の『誕生日落とし』の周辺だ。
彼の遺した意志が『誕生日落とし』なら、その遺恨の昇華を目指す。
隣の校区で、塾の友達のクラブの友達の兄とかいう遠いツテで当時の『誕生日落とし』を知った。
家を出た母、荒れた父、孤立した環境。
「なんか……誕生日の集まりがどうとか、前日に軽い言い合いがあったとは聞いたけど内容は知らないな」
もう生家は引き払われ、父親も街を出たという。しかし墓の場所を知ることができた。
詩衣を連れて墓を拝むか。
「本当にそんなでアプリが消える? 『誕生日落とし』が満足してくれる?」
「他に、方法が思いつかないし、やれるなら、やってみとこう」
もう、明後日には詩衣は誕生日を迎える。ダメ元でも、すがるしかない。
誕生日前日の昼下がり、二人で墓を訪ねた。線香を立て、煙がたなびく中祈る。
「アプリ、消せる?」
「全然!」
的外れだったろうか、墓が間違ってた?
墓に参るのが間違ってた?
なんとかする方法なんて、ないんだろうか。
汗だくになって歩いた帰り道、詩衣のスマホが勝手に鳴り出した。
画面はアイコンを拡大したようになり、局番はわからないが明るいパーソナリティが語り出す。
ただ普通のアプリより雑音が多い。
ブランコの軋むような、キィキィという不気味なノイズが頻繁に入り込むのだ。
そして定期で甲高く歪む音声。
歪んだところだけが頭に残り、蓄積され、一連の言葉を形成する。
『あした』
「いやっ! もうイヤ、だめだったじゃない! 明日わたし死ぬんだ、下にあいた真っ暗な穴に吸い込まれて、何日かしたら適当なとこで死んで発見されるんだ!!」
「詩衣! いるから、明日の夕方から俺、お前とずっといるから! 穴とか落とさない、抱き抱えてでも取らせないでやるって!」
抱き上げた程度で詩衣が『誕生日落とし』にあわずに済むか、手を出して陣太が無事で済むかわからない。
でも、詩衣を離さない。
詩衣の誕生日当日、小さなケーキを手土産に陣太は彼女の家に来た。
こんな日に急用で詩衣の両親は留守になっていた。
それがもう両親の顔も見れないのだと、ますます詩衣の涙を誘う。
ケーキに蝋燭を立て、火を灯してやろうとして詩衣に断られる。
「いらない。誕生日で死ぬんなら、何もめでたくなんてない」
「あ……、ごめん」
もう一度、マッチごとケーキも蝋燭も手提げ箱にしまい。
後の時間、二人黙りこくって時を過ごした。
茜色の光が舐めるように陣太達の顔を照らす。
スマホでの時刻確認の手は、避けよう避けようとしても頻回になってゆき。
詩衣が二人で挟むテーブルの上にスマホを置きっぱなしにする。
底なし沼ののように深い暗がりが広がっていると勘違いするような、黒。
「もうあと一分しかない」
息をつめるように、膝を抱き込んだ詩衣の隣に行く。
穴が開くというなら、抱えてでも救いあげる。
チ、チチッ、電灯が瞬く。
一方、触っていないのにスマホの画面が点灯し、タイマーでセットしていたようにHBDアプリが起動していた。
【みなさん、今日も良い一日でしたか、今日のテーマは皆さんの人生の節目にあった映画の──】
ラジオ番組のパーソナリティの声が奇妙にねじれながら途絶える。
代わりに幼さの残る高めの少年の声で、歌われる。
祝福の記憶とセットになったあの歌。
【ハッピバースデートゥーユーハッピバースデートゥーユー】
「…………やっ」
背筋が寒い。後ろの方に誰か来ている。
こんなにも確認したいのに、怖くてできない。
首が硬直してしまっている。
【ハッピーバースデーディア……ウタイ】
来るか……、陣太は詩衣を抱き寄せた。
【……はっぴばーすでー、とぅーゆー】
「やめてっ、いやああ!」
穴の中に落下したとは思わなかった。
だが陣太は詩衣を守った体勢のまま途方もない闇に囲まれている。
周辺に闇がせり上がり、逃げようもなかった。
現に陣太の右手側には詩衣に拒否されたケーキが箱のままある。
これが『誕生日落とし』の穴に落ちるということか。
塗り込めたような暗黒に為す術はない。
小さく微かに、ラジオの音が聞こえる。
暗闇に明るいパーソナリティの声はかえって調子っぱずれに響くし、不快な金属音が定期的に混じり込んで不気味この上ない。
それでもラジオは電子的な、ここに実態のないものの出す音だ。
対して、陣太の耳に、第二の音が届く。
湿ったものをぶつけるような。
違う。これは濡れている、小さな足音だ。
すぐ斜め後ろに立たれた感じがして、今度は首がスッと回ってしまった。
そして、見る。
黒い世界の中で、そこだけ白い貌。
電源の入っていないスマホの画面と同じ、なにも映さない黒く空いた眼窩。
一緒に見てしまった詩衣は、叫びたかったろうに。
息を吐き出すだけ出し尽くしてしまい、声にもならず。
後はひきつけのように息を吸うばかり。
生前の彼を写真で見知っていた陣太は、詩衣より覚悟ができていた。
『誕生日落とし』を探る中、何度もグレースケールで見てきた彼が、人からかけ離れてしまったこと。
恐ろしげだが、彼に違いなく。
咄嗟に、陣太の心に閃くものがあった。
この哀れな姿で現れた彼を、どうにかするというより、せめて何かしてやりたいと思えたのだ。
明かるい光で、照らしてやりたい。
陣太は手元の箱から下敷きのトレーを引き、立てていた蝋燭に火を灯していた。
「……詩衣に断られたやつだけど。お前にやる」
つかまれた手首は冷たい。
流れくるのはあまりに重苦しい情景と、彼の心。
──誕生日に集まって祝ってやるって言ったけど、あれ、嘘な。
──その日はユウスケの奴が誕生日パーティで呼んでくれるって言うから、あいつの家いくわ。
──え、呼ばれてない? ユウスケの誕生日パーティなのに、誕生日のやつがもう一人いるって嫌だったんじゃね? ユウスケの家でやるユウスケのためのパーティなんだから、今日の主役はユウスケだけじゃないと。
通りがかってしまったユウスケの家、窓から中が丸見えだった。
明かりの中には家族と友人に囲まれて誕生日を祝われる者。
対して、自分のなんとちっぽけな。帰っても父は居ないだろう。明かりは自分でつけるしかなく、ケーキどころか。
子供への関心を失った父は日々の食べ物すらろくに用意しなくなった。晩飯すらないかもしれない、我が家。
こんなにも触れたいのに触れられない。距離は近いのに、加わることを許されない。
あまりに遠い、羨望の光景。
その環境にいない、踏み出せない、自分ではきっとどう変わろうと足掻いたって指一つ、そこにかけることはできないという、深い、諦め。
もう、望むのすら、望みを抱いてしまうことすら辛くて。断つという心はここで固まってしまった。
「そうか……そうだったのか。ずっと……こうやって主張してたんだな。お前は」
彼の何万分の一ではあるが、過去に陣太も誕生日を満足に祝ってもらえず、寂しさを感じていた。
『誕生日落とし』に、共感と憐れみがある。
「俺は祝うよ、俺に詩衣がしてくれたように俺がお前にしてやる」
祝おう。
もう死んでしまった君が、生まれてきたことを。
フッと、吹き消すような空気の動きで手に持っていたケーキの蝋燭が消えた。
そして、陣太と詩衣は夕方を過ごした部屋にいる。
ラジオではなく、蝉時雨が聞こえてくる。
「……詩衣、無事か」
「う、うん」
「アプリはっ」
「…………ない」
へたり込んだ詩衣は久々に詩衣らしい感情ののった声で笑い泣きする。
「……助かったんだぁ、うわーん!」
果たして、彼の遺した心は昇華されたのか。
単に今回、詩衣を見逃してくれただけなのか。
それでも危機は脱して目的は達成できたのだ。
陣太は詩衣に抱きつかれ、その温かい感触に安心した。生きている、実感が戻ってきたのだった。
一週間後、やはり盆ゆえに軽く扱われがちな陣太の誕生日。
それでも詩衣は定番になっている誕生日の差し入れに来てくれた。
「今回は、お礼の気持ちも込めて。誕生日おめでとう陣太」
コンビニケーキでないあたり、遠出して大きなショッピングモールの中とか開いてる店で買ってきてくれたんだろう。
「ありがとう、詩衣」
この夏、がむしゃらに頑張ってよかった。
なんとなく予感がある、きっとこの先の未来もずっと詩衣はこうやって陣太の誕生日を祝い続けてくれると。
暮れてきた赤い日に、カットケーキをかざす。
もう『彼』は彷徨っていないといいのだが。
盆の今日、彼が向こうへ渡れますように、小さな思いを込めて、陣太は声に出さず唇だけ動かした。
『ハッピーバースデー』
完
お読みいただきありがとうございました。
もしよければ下の☆からご評価いただけますと、とても励みになります。