6 遠い青空
空中に浮かぶ白い生地が、クルクルと回転して球体を成す。更に回転速度が早まるにつれて、円盤状に変化していく。アイレンさんが指を振ると、刻んだトマトやコーン、チーズなどの具材が飛んできて、生地の上にきれいに散りばめられる。仕上げに、アイレンさんの指先から飛び出した炎が、表面をこんがり焼き上げる。
お城で見たどんなパフォーマンスより、魅力的な料理方法だった。わたしは夢中になりすぎていたらしく、様子を見ていたブラウンがそばで笑いを堪えている。
「笑わなくてもいいじゃない」
「私は楽しそうな王女の姿が嬉しいだけですよ」
ブラウンの言葉は本音だろうか。昔から揚げ足を取られる事が多く、今一つ信用出来ない部分があるのだ。
「さあ、こだわりのチーズピザじゃ。食べてみるがよい」
わたしの前に置かれた皿の上に、焼き立てのピザがふわりと降りてくる。
「いただきます」
わたしはフォークを取って、一口かじってみた。もっちりした生地の噛みごたえが心地よい。アツアツのチーズはコクがあって、口いっぱいにミルクの風味が広がっていく。具材はトマトなどのシンプルなトッピングなので、生地の香ばしさと、甘みがよく感じられる。
「生地が特に美味しいですわ。特別な生地を使ってらっしゃるんですか?」
アイレンさんに尋ねると、彼女は腰に手を当てて得意気に笑った。
「流石、舌が肥えておるのう。ミルクを練り込んでおるのじゃ」
なるほど、ミルクの風味は生地から感じられたのか。わたしはあっという間に一枚を平らげてしまった。
一方で、向かい側に座っていたカナさんは、食べるのがとても遅かった。わたしが食べ終わるまでに、ピザの四分の一も口をつけていない。
「カナさん、具合が悪いの?」
「いえ、元々食が細い方なので。お気になさらないで下さい」
カナさんは慌てたように笑顔を作った。顔色もあまり良くない気がしたが、それ以上聞くのは憚られた。
「して、試験の方は如何だったかな、王女」
アイレンさん皿を下げながら聞いてきたので、わたしは胸を張った。
「空を飛べるようになったんですよ。これで、話者合格ですか?」
「それはまだ気が早いのう。話者への道は、そう簡単ではないぞ」
アイレンさんは、諭すようにそう答えた。少し残念だが、話者の特殊性を考えれば当然か。
食後、暖炉の火を見ながら紅茶を頂いていると、ブラウンが隣に控えた。
「王女様、明日の事ですが、どうなさいますか?」
「明日?」
「王子様と接見されたいと仰っていた件です」
美味しい食事と魔法の試験の事で、すっかり忘れていた。
「もちろん、伺うわ」
わたしが答えると、ブラウンが僅かに口元を歪める。
「忘れていたわけじゃないわ。今日は色々あったから、頭が一杯になっていただけよ」
「ええ、そうでしょうとも。明日は、先方に失礼のないように支度を致しますので、起床は少々早めに」
せっかく気分が良くなっていたのに、わたしはすっかり興が削がれてしまった。ブラウンはこういうところがある。頼りになるし、信頼もしているのだが、わたしを子供扱いしているのだ。
翌朝、ブラウンの着付けで来訪用のドレスを身に着け、姿見でチェックしていた。いつものことながら、こういうドレスは窮屈で仕方がない。身体を締め付けて、偽りの姿を見せて何になるというのか。
アイレンさんが用意してくれた朝食を頂いた後、カナさんが馬車の入ったカゴを持ってきた。
「すぐに元に戻しますので、お待ち下さいね」
彼女が外に出ようとするのを見て、わたしは閃いた。
「待って、カナさん。わたしの魔法で飛んでいってもいいかしら」
「王女様の魔法……ですか?」
カナさんが首を傾げる。向こうの世界での事を誰も知らないのだから、仕方がない。ここは、実際にやってみせるのが一番だろう。
アイレンさんの家の庭に立ち、上空を見上げて青空を確認する。フィオナと一緒に空を飛んだ時の感覚を、もう一度呼び起こす。チェスの駒となったわたしを、上空から摘み上げる感覚だ。
ところが、イメージが膨らんでいかない。もう少しで形になりそうなところで、崩れてしまうのだ。
ブラウンがニヤついているのが想像できる。わたしは次第に焦りを感じてきた。
「あの、王女様。空を飛ぶのならば、呪文を唱えられた方が」
横で見ていたカナさんが小声でアドバイスしてくる。こちらと向こうの世界では、魔法の在り方が異なるのだろう。わたしはそう納得して、カナさんから入門書を受け取った。しかし、今度は空を飛ぶための呪文が中々見つけられない。
ブラウンが笑っているのは、見なくても想像できる。わたしが唇を噛んでいると、カナさんがさらに小声でわたしに伝えた。
「空を飛ぶのに必要なのは、まず、重力開放の呪文です」
冷静を装いながら、わたしは必死に頁をめくった。何往復かして、やっとそれらしい呪文を見つける。
「でるけあすーあ……れわむ……」
アイレンさんの可愛い文字で書かれていても、文字の羅列に変わりはない。読み上げようとして、舌がもつれそうになってしまう。
「王女様、落ち着いて」
カナさんが心配そうにわたしを見ている。音読が苦手というのは、話者としてはかなり不利かも知れない。
『デルケアスーア レワ ム ノクテック』
何度か挑戦して、やっと呪文を唱えたものの、特に何も起こらない。身体の重さが無くなる、あの感覚は覚えているというのに。
カナさんやブラウンの視線が刺さる。もう一度試そうとしたところへ、アイレンさんがやって来た。わたしはすがるように助けを求めた。
「アイレンさん、わたし、本当に自分で空を飛べたんですよ。本当にっ」
「うむ。焦ることはない。こちらで魔法を発動するには、色々と手続きが必要なのじゃ。じっくりと構えることじゃな」
そう言って、アイレンさんはわたしの頭を撫でてきた。わたしは遠い青空を見上げるしかなかった。