3 親子
暖炉の部屋奥の扉を開けると、長い廊下に繋がっていた。左手には個室、右手には月明かりが差し込む窓が並んでいる。外から見たときは小さな小屋だったはずが、お城より広く見える。
「王女様に相応しいかどうかはわかりませんが」
そう言って、カナさんはわたしを部屋の一つに案内した。大きな天窓がある部屋で、天井いっぱいに夜空と瞬く星々が広がる。わたしは思わず息をのんだ。
「お気に召されましたか?」
「ええ。とても素敵」
「よかった、わたしも大好きな部屋なんですよ」
カナさんは嬉しそうに笑った。月明かりに照らされた彼女の姿が、御伽話に出てくる話者のイメージに重なる。わたしはどうしても聞いてみたいことがあって、彼女に質問してみた。
「話者って、箒で空を飛べるんでしょう?」
「ふふ、空を飛ぶのに道具は必要ないんですよ。少しだけ、試してみましょうか」
彼女は優しく笑うと、一度廊下に出て、正面の窓を開けた。
「こちらへどうぞ」
促されるままに窓の前に立つ。彼女はわたしの背中に手を当てて、呪文を唱えた。
『デルケアスーア レワラ ム ノクテック』
ふっと身体の重さが消えた。空気に溶け込んで、自分の存在がなくなったかのような、不思議な感覚になる。今なら何処までも飛んで行けそうな気がする。
「王女様、お手を」
カナさんが差し出す手を取ると、彼女は窓の外へ飛び出した。わたしたちの身体が、ゆっくりと空中に舞い上がり、夜空と森に挟まれた青い世界を優雅に漂う。わたしは好奇心を抑えきれず、彼女に聞いた。
「少し、手を離してもいい?」
カナさんがうなずいて、そっと手を離す。わたしは今、全ての呪縛から解き放たれ、世界と一体となっているのだ。束の間の自由に身を任せているうちに、自然と涙が流れてきた。
翌朝、わたしは眩しさを感じて目を覚ました。天井の窓から太陽が顔をのぞかせている。寝る前に天窓のブラインドを閉めておくよう、カナさんに言われたのを忘れていた。
いつもなら、頼まなくても身の回りの世話をしてくれる付き人がいるが、ここにはそれもいない。開放感を感じると同時に、追われる身となっていることを思い出して、少し心細くなった。
「リシェット様、お目覚めですか」
ノックとともにブラウンの声が聞こえた。まるで見越したかのようなタイミングだ。
「どうぞ、入って」
わたしが答えると、ブラウンは音もなく入ってきて、ベッドの足元で頭を下げた。
「おはようございます、王女」
「おはよう。今、何時かしら」
「間もなくお昼でごさいます」
わたしは絶句した。昨日、夜ふかししたせいで寝過ごしてしまったようだ。
「身支度はどうされますか? 衣装、道具などは隣の部屋に一式揃えておりますが」
「大丈夫、自分でやるから」
「左様ですか。昼食のご用意をしておりますので、お困りでしたらお声掛けください」
それだけ言うと、ブラウンは華麗な身のこなしで部屋を出ていった。わたしだって、自分一人で化粧は出来る。教えてくれたのは、他でもない、ブラウンなのだが。
着替え終わって暖炉の部屋に入ると、空中でナイフやフォークが踊っていた。
「お目覚めのようじゃの、王女」
少女が指を振りながらこちらを一瞥した。どうやら、魔法で食卓に食器類を並べているらしい。目の前で繰り広げられる不思議な現象に、釘付けになってしまう。
「アイレン先生の魔法に興味がおありですか」
いつの間にか隣りにいたブラウンが聞いてくる。
「ええ、まあ……」
素直に認めるのが少し悔しくて、わたしは空返事をした。本音は、話者や魔法のことを聞きたくて仕方がなかった。
あの少女がなぜ先生と呼ばれているのか。話者としての能力を評価されてのことなのだろうか。
「あの子は魔法の先生なの?」
「ええ、アイレン先生は、世界最高の話者ですよ」
世界最高。その響きにわたしの好奇心が、今にも溢れ出てしまいそうだ。わたしは聞きたいことを全部飲み込んだ。少しでも興味を示したら、わたしの負けだ。ブラウンは全部お見通しで煽っているのだから。
「ほれ、いつまでも立ってないで座るがよい。腹が減ったじゃろう」
わたしがウズウズしながら席にについたところへ、カナさんが青白い顔をして入ってきた。
「おはようございます……」
「やっと起きたか。お主が最後じゃぞ」
呆れ気味に少女が言うと、彼女はわたしの顔を見て、慌てて目をこすった。
「すみません、お世話をしないといけないのに」
「いいえ、気を遣わないで。昨日は楽しかったわ」
彼女に連れて行って貰った夜空の旅は、何物にも代え難い体験だった。わたしもあんな風に空を飛べたらどんなに楽しいだろう。顔に出ていたのか、隣のブラウンの口元が緩んでいる。わたしは咳払いをして誤魔化した。
「冷める前に頂こうかの。今日はラスターハート王家とのコラボ料理じゃ」
食卓には見覚えのある料理が並んでいる。チーズを降らせたスノーチーズのサラダ、ビターポークのソテー。ブラウンがわたしの好みに合わせたようだ。サラダを一口頬張ると、シャキッとした歯ざわりにコクのあるチーズの風味が広がる。ビターポークはほんの少し苦味があるが、肉質はとびきり柔らかい。逃げ出したとは言え、小さい頃から故郷で食べ慣れた味はやはり安心する。
一方、堪能しているわたしの隣で、カナさんがうつむいているので声をかけた。
「食べないの?」
「……気にされないでください。朝はいつもこんな感じですから」
カナさんは顔色が悪く、今にも吐きそうな様子だ。
「もう昼じゃがな」
少女がふわふわと浮かんだ状態で、水を注いだコップを持ってきた。カナさんは水を一気に飲み干すと、大きく息を吐いた。
「ありがとうお母さん」
「お母さん?」
わたしが聞き返すと、カナさんはバツが悪そうに目を逸らした。
「人前では先生と呼べと言っておるのに」
少女がため息ををついている。わたしの視線に気づいた少女は、観念したようにうなずいた。
「ご推察の通り、カナは我の娘じゃ」
何から聞けばいいのだろう。わたしは少女とカナさんを見比べるしかなかった。