ワイバーンの松かさ揚げ④
ワイバーンの巨体が、飛ぶ。
疎林の若木をへし折りながら中空を滑り、とんでもない勢いでこっちとの距離を詰めてくる。
「うわわわわわわ」
影が落ち、俺は死を覚悟しながら走った。
だれか蘇生してくれるかなあ。
「ぎゃっ」
俺は悲鳴を上げた。
踏み下ろした片足が地面をずぼっと踏み抜いたのだ。
詩怨を前抱きにして、俺の体は岩っぽい斜面をごろごろ転がった。
「……もうなんか、なんだろ。めちゃくちゃ痛いし最悪だ」
すり傷と打ち身だらけの体をいたわりながら、よたよた立ち上がる。
ゆるやかな斜面のてっぺんから差し込む光で、あたりの様子はよく見える。
どうやら小さな火山洞窟っぽい。
矮性の木立に覆われていたため、入口を見落としたのだ。
不意に、まっくらやみが訪れた。
直後、小さな金色の光が入口のあたりにぽつっと灯る。
ワイバーンの眼が、洞窟を照らしていた。
俺たちは洞窟の壁にぴったりへばりつき、息を止めた。
幾度かのまばたき。
やがてワイバーンはゆっくりと体を滑らせて入口から退き、日食の終わりみたいに再び光が差し込んだ。
俺たちは顔を見合わせ、お互い無事で生きてることを確かめた。
「う、ウルトラマンで観たことあるやつですねっ!」
「ネロンガじゃん」
震えながら笑おうとした瞬間、がばーっとワイバーンの前肢が洞窟に飛び込んできて俺たちは絶叫した。
鋭い爪は俺の手前わずか五センチをがりがり引っかき、名残惜しそうに戻っていった。
「食い気がすごすぎる」
「逃がすつもりはないみたいですね。さあ臣下さん、出番ですよっ!」
詩怨が俺に両手を向けた。
「は?」
「出番です!」
詩怨が俺に向けた両手をひらひらさせた。
意志の強さを感じる。
「あ、あー? なんだっけ、輸血鬼の?」
「そもそも朕がやっつける必要は最初からなかったんです。臣下さん、ワイバーンをぶちのめしちゃってください。そして料理です!」
「絶対に嫌すぎる」
そもそもなんでダンジョン居酒屋をやれてるかと言えば、安定した仕入先があるからだ。
俺が大イスタリ宮に出向いてモンスターを引きちぎっているわけではない。
戦闘なんかしたことないし、これから一生したくない。
「臣下さん、ここまで来てそれを言いますか?」
「嘘じゃん、人を昏倒させといてそんなたしなめるような言い方する? ふつう」
「あー」
そんな、一理ある、みたいな顔をされてもね。
「分かりました。朕がやる気を出させてあげます」
「出しようがあればいいんだけど」
詩怨は顔をぱんぱんはたき、ふううううう、と長い息を吐いて気合を入れた。
「えー? おとななのに戦えないんですかぁ? ざっこ♡」
まゆ毛をハの字にし、下まぶたを⌒のかたちに持ちあげたメスガキ顔で詩怨が罵ってきた。
「ざっこ♡ざぁこざこざこ♡ざこちん――」
「はー……」
俺はため息で詩怨のメスガキ構文を遮った。
「なんですかそれ! せっかくやってあげたのに!」
「あのね。俺はどっちかっていうと被虐側でありたいの常に。妄想の中でぐらいね。それが前提。分かるかな」
「え? すみません」
詩怨は即座に謝罪した。
「いやまだ謝らなくていいよ。全部聞いてから判断して。つまり、責任を手放したいんだ。性的関係においてってことなんだけど。だからメスガキ分からせものは個人的にすごく苦手。口では『くっそ~』と言いつつ心は完全に分からされて主体を全部メスガキに預けたいと強く思ってるのに、十六ページ中八ページ目ぐらいで男が逆転してメスガキがごめんなさいする本の場合、ものすごい乖離というか疎外をもうメチャクチャに感じちゃってたちまち全てがどうでもよくなってさ、前半八ページだけ丹念に読み込んで残り八ページの記憶を消すんだな。そういうことができるようになってくるんだよ、長く独りでいると」
「あやまったのに!」
「でなに、君はいま適当に俺のことをザコザコ罵ったわけだけど、訊ねたいのは、それを最後まで貫いてくれるの? ってこと。俺が屈服してごめんなさいって泣いて精神崩壊してあぶぶぶぶぐらいの曖昧な意思表示しかできない操り人形みたいになるまでいじめてくれるの? つまりお互いの関係における主体性を引き受けてくれるの? 加害者であることを引き受けてくれるの?」
「半端な気持ちでした」
「決定的な変化の覚悟もなしにメスガキをやれるなんて思ってほしくないんだよ。でも――」
「まだ続くんですか!?」
なんだろうな。
この子は本当に、とにかくひたすら、要領とか間とかが悪いんだろうな。
ハピネスチャージプリキュアのきったねえバッグ。
素人丸出しの絵、音質悪すぎのASMR、できそこないのLive2Dモデル。
生死のかかった状況で自分の利得しか口にしないし、人をメスガキムーブで説得しようとしてくる。
いくらなんでも不器用すぎる。
「――でも、俺を勇気づけてくれようって気持ちはすごく感じた。ありがとう」
「し、臣下さん……!」
中年の寄る辺ない父性を軽々に刺激するもんじゃないよ。
なんでもしてあげたくなっちゃうだろ。
「よっしゃ。やったるかね」
俺は開いたてのひらに拳をぺちんと叩きつけた。
「じゃあ、血を呑んでくれるんですねっ!」
「絶対に嫌すぎる」
俺はちょっとフリの気持ちで、半笑いの顔を詩怨に向けた。
詩音は、はっと気づいた顔をした。
「飛行機に乗せられるときのコングですよっ!」
俺たちはにやっと笑った。
「定番化しそうじゃん」
詩怨が、ちぎれかけの舌を突き出した。
泡立つ唾液まじりの血が、糸になって垂れ落ちるのを、小さなてのひらで受ける。
「すごい……なんだろう、今日一でメスガキっぽい。ちゃんとメスガキしてる」
「ええー? そんなことないですよ」
口血をぼたぼた垂らしながら詩怨が照れた。
「どうぞ、臣下さん」
差し出された手のひらに、舌を当てる。
甘くてしょっぱくて、鉄の味がした。




