「Leave me alone (ひとりになりたい)」・・・なりたくない?
孤独は好きだ。
ただ、孤立するのは怖いと思っている。
思っているくせに私は人と関わることもまた恐れている。
この文章もきっと誰の目につくものでもないようだから綴ってみようと思う。
孤独というのは私の中では、ただ単に「独りの時間を楽しむ」こと。
辞書を引けば詳しく「孤独」の意味が書かれているし「孤独死」という言葉がある位だから、マイナスな意味もあるんだと思う。気楽でもなければマイナスでもなく、私の場合はただ独り。
そう、私はずっと独りでいる。
食べる時も、寝る時も、料理をする時も、掃除をする時も。24時間独り。だから、そんな暗闇の中では「独りの時間を楽しむ」があってもいいんだと思っている。いや、楽しんでいるというよりも慣れてしまって「楽しまなくては」と強制的に思っている。
多くの経験をしてきた。
罵られ言葉の暴力を受け、踏みつけられて、その度に道を開いた。そして、「孤独」でなく「孤立」させられることになってしまった。そんなものは欲しくなかったが。
道は開くが、それまでに繋がった友人達とは物理的に別れを告げなくてはならない。
離れていても友達ーー美しすぎる言葉だ。離れていると「明日、ランチをしない?」ということが言えなくなってしまう。
年賀状が知らない間に移転先不明で戻ってきて、どうしてるのかがわからなくなってしまう人さえいる。
私の唯一の一緒に時間を過ごす相手というのはパソコンかスマホだ。
そこから情報を得たり誰かが書いたことに反応して、あるいは、自分から発信する。
だけど、私にとって画面はツールであるだけだし、その画面の向こうにいる人というのは友達とは言えない。
同じ空気を吸い、散歩をし、何気ない季節の花についてお茶を飲みながら語る時間を共有する・・・そんなことはないのだから。
この小説サイトに来た時は、機能がとても充実していて自分のプロフィールを書いたり投稿することだけで時間がすぎた。それは、新鮮で楽しく満たされた時間。
ここに登録して、たぶん3年近くが経つ。
「活動報告」は自分が書いた作品のことをアピールするだけの機能だと思っていた。そこがワイワイガヤガヤ賑わう場所であると気がついたのは、今年のお正月ごろだ。「活動報告」のことを別の言い方でいうようだが、そんな用語も知らなかった。
思い切ってコメントを書いてみるが、話題についていけずに当たり障りのないことを書いたけれどやっぱり止めるという繰り返しも何度かしている。仲良しになってる人達の中に入ろうとしても結局は何を書いたら良いのかわからないから。
この場所が悪いのではなくて、私側の問題で、既に出来上がっているグループに足を入れていくのがとても苦手なのだ。もう少し強い言い方をすると、怖い。
怖いが、また書かないということも、つきあいが悪いと不評に思われることがあるようで、かといって「こんなこと書いてみたい」と思わないで何か書くというのも事務的な気がして失礼かと思っている。
書かないと自分の存在に気がついて貰えないようだが、それでも構わないと思い始めてる。独りの時間に慣れているのだから。
なんとなくTwitterを始めた。そこでも私は異邦人になったように戸惑っている。それだけでなく少々、疲れることがある。
小説を書く人だけではなくて、面白い活動をしてる人やメディアの人の話しは面白いと思って続けてはいる。
もう20年程飲んでいる処方箋。これからも欠かさず飲まなくてはならないだろう。
薬の副作用で眠くなり、昼夜が逆転し余計に病気が体を蝕んできたような気がしている。
薬を飲もうが飲まないが、悪夢をみたり昼間にもフラッシュバックというものは多くある。時折聞こえる幻聴、これはそれ程煩わしくはない。
眠れない夜のために、そのための処方箋薬を飲んでも効かない。
ぼんやりした頭で本を読むか、耳にイヤホンをつけて映画を観る。うん、これは悪くはない。朝起きて特に定期的にすることもなく「独り」でいるのだから、時間というものは、ある意味、自由に永遠にあるのだ。
数年前に、ある療法を行わないと「被害者」である私が「加害者になる」可能性もあると言われたが、犯罪を犯すようなものではなく、人との距離間が麻痺していて人を傷つけてしまうことがあるーーそんな意味だった。
このSNSで眠い頭で勘違いをして、「失礼な奴」と書かれたことがある。
そうか、こういうことを医師は言いたかったんだ、と納得した。
相手の方に現実と霧がかかった頭ーーまだ眠っている状態ーーのことを伝えるのは意味がないと思って、それ以上こちらから書くことはしなかった。人は私の病状など理解することなど出来ないと思うから。出来なくて当然だ。何も接点がない、リアルな生活など知らないわけだから。
言葉ってもともと理解はされないものだったり、人そのものを理解することはできないものだと思っている。
だからこそ、その相手のことを知ろうとしたり自分のことを伝えていく。一つのフレーズでいいから隠されたものを、ちょっとだけ想像してみる。共感していく。だけど、それはリアルであるなら可能なこと。
昔、あるSNSで、たまたま本関係の仕事をしてる人がいた。
ほんの少しだけ褒められたものだから、書き続けるようになれた。あの方がいなかったら、今、書いていたかどうかわからない。
自己満足ではあるが、自分の想像や思考をアウトプットすることで頭の中が、私自身が整理できていけるような自己カウンセリングのようにも思えてきた。
何か訴えたいことやメッセージのようなことを作品を通して書いていく。誰か、一人の心の琴線に響くだけでもいい、共感されればいい、誰もいなければ・・・私は私自身のために書いていくのだろう。たぶん。
私の心にはかなり分厚くて高くて硬い壁が出来ている。氷のように心の中から冷たくて、どうしようもない壁。容易にはとかすことが出来ないし金槌でガンガンしても壊れたりしない。
いつまでも、「この場所で書いていていいのだろうか?」と問い続けながら、書いていくんだろう。
書いてる間は、私だけでなく、どなたにとっても「孤独な時間」なのではないだろうか。
作品の中で、リアルには言えそうもないことを書いてみたり俳優のように自分が主人公になってみたり、全くの第三者となって書くのも楽しいものがある。
前に掌編の中で書いたことがあった。
「作品はこども」だと。
自分の中で作品を生んで育てて可愛がり、想像を創造していく。さて、作品ができた。
子供が成長して成人になる、一人暮らしする、結婚する。子供が親元を離れていくように作品も自分のものであって自分のものではなくなる。作品を完成させる、想像していくというのは、そんなことのような気がする。
子供を親が同一化できないように、作品が人の目に触れたらそれは自分のものではなくなるのだ。勿論、著作権はあるし、作品を手直ししたり自分で読んで満足したりすることは出来る。
だけど、作品の中に込めた愛情は、受け取る側が自由に感じとるものだ。
「こう読んで下さい」
「この部分が伝えたかったものです」
そう想いを込めたとしても、仮に主張しても、読む方にも「感じる自由」があるから作者の想いとずれていてもいいのではないか。
もう旅立った子供のことを誰かが好きになって結婚したとするのと同じだ。親は子供のここが好きと思っても、その誰かはここは別に何とも思わない別のところが好きだ、それと同じなのだろう。
ただ、作品という子供は、とても自分にとって大切なものだし、いつまでも想いは詰まってるものだから宝物。
独りの時間が長いと、頭の中で言葉が散らばる。そして何かに向かって出したくなる。珍しく、今日はこの場所で書かせて頂いた。
構成もプロットもなしで・・・今日のこのような話のように。
私には、話す人がいなくなった。もう何年になるだろう。
だから、また作品という子供を育てて、いとおしんで、時に親子喧嘩をして頭にきて2、3日書かない。かと思えば、書かずにいられない何か衝動が溢れ出てきたりする。
私の独りの時間・・・これからも、そうやって自分と作品という子供とつきあっていくんだろう。