バーミリオン色の林檎
「バーミリオン色の林檎」
神は偉大な聖書の中で人々に呟いた。
「正直な答は、真の友情の印」
旧約聖書
「神は、その人が耐えることのできない試練を与えない」
新訳聖書
雨がウィーンの街を濡らしていた。サイレンの音が騒がしく、辺りに鳴り響いている。
石畳の道の上に紙袋から溢れ落ちた赤い林檎が無数に転がっていた。ひとりの東洋人の男が足元に転がってきた林檎を静かに拾い上げた。
男の髪も顔も街に降り注ぐ雨で濡れていた。唯、男の目だけが雨ではなく涙で濡れていた。
「芹澤君、芹澤君」
芹澤馨は自分を呼ぶ男の声に振り返った。
土曜日の午後の御堂筋の舗装路に降り注ぐ春の陽光に芹澤馨は目を細め、自分に向かって走り寄って来る男の姿を見た。やがて走寄ってくる男が島洋画研究所の藤田鼎であることがわかると芹澤馨は微笑して、男が近くに来るのを待った。
藤田は芹澤馨の傍まで来ると膝に手をついて走って乱れた息が整うのを待った。やがて息が整い出すと背を上げて芹澤馨の顔を見て、いやぁと言った。
「藤田さん、どうされたのですか」
芹澤馨は少しはにかんだ様な表情をした藤田の顔を見て、彼の肩に手を回した。
「芹澤君、実は研究所に忘れ物があったのでそれをその人に持っていこうと思って急いで研究所を出て走ったのだけど、一歩違いで見失ってしまいました」
そう言うと藤田は手にしている筒状の画用紙を芹澤馨に見せた。
「絵の忘れ物ですか」
芹澤馨はそう言うと、藤田を促すようにして歩き始めた。
「うん、そうなのだよ、二時間余りで仕上げた裸婦デッサンなのだけどね、イーゼルに架かったままになっていてね。今日はもう午前中で研究所を閉めるから、忘れたものを取りに帰っても研究所に入れないと思って急いで飛び出して来ました」
藤田は芹澤馨と一緒に歩きながら丸めて紐で留めてある絵をそっと芹澤馨の前に差し出した。
「芹澤君、どうこの絵を見てみない」
藤田鼎はそう言うと人懐っこい笑顔を芹澤に向けた。
芹澤は肩をすくめると「島洋画研究所の俊英である藤田さんが見てみないか、と言っている絵を僕が見ないわけにはいけないですね」と言って笑いながらその絵を受け取るとアールヌーボ調の石造りの銀行の方に寄って、ゆっくりと紐を解いた。
紐が解かれた絵にやがて春の午後の暖かい陽光が注がれていった。
「これは・・」
芹澤馨は、開かれた絵を食い入るように見つめた。
春の陽光が裸婦の太い線に降り注いだと思ったら、その線の内側に隠れていた何か鉄のような礫が芹澤馨の網膜に襲いかかってきた。
芹澤馨は一瞬にして理解した。
鉄の礫のよう自分を襲ったものはこの画家の意志なのだと芹澤馨は思った。
デッサンの対象である裸婦に対する自然の猛威の様な、いや野獣のような全てを飲み込んで押しつぶしてしまおうと言う襲いかかる画家の意志なのだと思った。
それが春の陽光に弾かれ鉄の礫のように絵を見ている芹澤馨の芸術的感性に突き刺さったのだった。
藤田鼎はその絵を見て、静かに押し黙っている芹澤馨を見て、微笑した。
「どうだい、芹澤君。この絵素晴らしいだろう」
その声に芹澤馨は振り返ると、ええと頷いた。
「この絵はまるで野獣のようですね、肉食獣のような、何とも言えない匂いをこの絵から感じます。そう、あのフランスの画家、モーリス・ド・ヴラマンクのようです」
芹澤馨はそう言うと、そっとその絵を藤田に返した。藤田はそれを受け取ると絵を丸め、そして紐を結んだ。
「確かにそうだね、この絵の所々にある深い黒がまるでヴラマンクのようだ。見ている人はそこにぐいぐいと引っ張られて行く感覚に落ちていく」
藤田鼎は、丸めた絵の先を手のひらで軽く叩きながら整えると道の方へ歩き出した。芹澤薫もその後について行く。そして並んで中之島公会堂の方に向かって歩き出した。
「芹澤君、島先生から聞いたのだけど夏に巴里へ行くのだってね」
藤田は芹澤馨を見て言った。
「ええ、今度滝先生が巴里の画家仲間から或るサロンの公募展に招待を受けて作品を出展するのですが、そこに今度僕も作品を一緒に出展することになったのです。それで一緒に巴里へ行くことになりました」
「そうなのか、それは彼女・・藤咲純さんも一緒に行くのかな」
藤田は少し笑いながら芹澤薫に言った。
「いえ、藤田さん彼女はいま大きな手術を受けていますから、一緒には行きませんよ」
芹澤馨は、少し頬を赤らめながら藤田に言った。
そして芹澤馨は少し目を細めながら、何か思い出したように寂しそうに微笑した。そんな微笑を見て藤田は芹澤馨の腕を軽く叩くと、にこりと笑った。
そして暫く無言で歩いた。
交差点の沢山の雑踏の中で二人は止まり、信号機が青になるのを待った。
「藤田さん、先程の絵を描かれた画家の名前を教えていただけませんか」
芹澤馨は藤田に向かって言った。藤田はその声に振り返ると青信号で動き始めた雑踏の中で芹澤薫に言った。
「豪・・、そう、この絵を描いた画家の名前は立花豪という方です」
翌日の朝、芹澤薫は藤田鼎からの電話を切ると、静かにデッサン室のドアを閉じた。
芹澤馨は滝洋画研究所のデッサン室でイーゼルに画布を乗せて絵を描いていた。絵を描いていると電話が鳴り、芹澤馨は受話器を手にとった。
電話は藤田からだった。手短に要件を藤田は芹澤薫に言うと、それで電話を切った。
デッサン室に戻ると芹澤馨は、パレットの上にセルリアン青を置いた。
部屋の窓に掛けられた白いカーテンが時折吹く微風に吹かれ、春の午後の自然光が檸檬色になって柔らかく入り込んでいた。
そしてその薄く柔らかい檸檬色の陽光の日溜まりの中に、芹澤馨は木製の椅子に腰掛けて自分の絵に向かった。
芹澤馨は目を薄く閉じて、春の優しい光に反射するその一枚の絵を見て微笑むとパレットの上に広げられたセルリアン青を筆先につけて、そっと画布に描かれている横を向いた女性の瞳につけた。そしてゆっくりと離すと芹澤馨は絵筆を持った手をそのまま膝に置き、その絵を静かに見つめた。
瞳に青い冷静な知性が加わると、一瞬だけその瞳は瞼を閉じて芹澤馨を見て微笑んだように見えた。
そしてありがとう、と呟く声が聞こえた。
それは芹澤馨の心の中だけの出来事だったかもしれない。現実は描かれている絵の女性はじっと横を見て静かに外を見ているだけだった。
檸檬色の陽光が画布へ降り注ぎ、これからこの絵の人物が向かう回廊のような人生を芹澤馨は思った。芹澤馨は微笑をすると、それで最後の欠片が揃ったこの絵は完成した。
(ひかりよ、ひかり、彼女の人生を守り導くものは今この画布の上に降り注ぐこの檸檬色のひかりだけだ)
芹澤馨は椅子から腰をあげると、窓から吹き込む風に頬を寄せた。風の中にはっきりと夏の香りを感じた。
もう夏はそこまで来ていた。
揺れているカーテンの側に立ちながら、自分がこれから向かう巴里を思った。
後悔は何も無かった。後は唯、航空機のチケットを手にして旅立つだけだった。
藤田鼎が芹澤馨に昨日去り際に言った言葉が、心の中に響いてくる。
「芹澤君、愛とは何でしょう?」
藤田鼎は交差点を渡り終えて中之島公会堂に向かう石造りの橋を並んで歩きながら芹澤馨に言った。
「僕も生き別れた娘がいる。今でも娘はきっと生きているのだと思いながら、僕は娘の肖像画を描いている。成長した娘の姿を知らない僕は心の中で娘の今の姿を思いながら描くのです。近くに居なくても僕は絵を描きながら、娘に対して父親として枯れることのない愛を抱いている自分を確認します。芹澤君、愛とは普段は分からないものだけど、或る時自分が向き合った時にだけはっきりと形を表し、そしてそんな時にしか見つからないものなのかもしれないですね」
芹澤馨は静かに春の微風に吹かれるカーテンに心を寄せながら、或る人物を思った。
その人物のことを藤田鼎は「藤咲純」と芹澤馨に言った。
芹澤馨は瞼を閉じて数秒瞼の裏に残る陽光を心に落とすと目を開けて目の前の小さな庭先を見た。庭先には小さな名前も無い野辺に咲く花々が見えた。
そしてそこに美しい女性がひとり小さな花々を白い指に持ってこちらを見ていた。
「愛とは何でしょう?」
芹澤馨はその女性に向かって呟いた。その女性は芹澤馨の方を見て、ゆっくりと細い腕を伸ばし指に挟んだ一片の白い花を見せた。芹澤馨は静かに黙ったまま、その白い花を見ていた。
(清らかな白い花。それはまるで藤咲さん、あなたの美しい純潔さを見ているようです)
芹澤馨の憶う時の中を強い風が吹いた。白い花の花弁はその風に舞い上がり、やがて青い空へと消えた。
花を追いかけるように空を見つめた視線を庭へと向けるとそこに彼女は居なかった。芹澤馨は静かに窓を閉めた。そして洋画研究所を出る準備をした。
これから島洋画研究所の藤田を訪ねる為だった。いや、正確にはそこに来ている或る人物に会う為だった。
その人物、そう立花豪に会う為だった。
芹澤馨は藤田から今日の午後、立花豪が来ることを朝の電話で聞いていた。
それを聞いたとき、会おうと即座に心に決めた。
芹澤馨の湿った心は研究所の扉が閉められたとき、何か夏の空の下で激しく生き残る獣達のからりとした心持ちになっていた。
何故かそんな気持ちを、立花豪と言う名前を思うと感じないではいられなかった。
(白い画用紙が無垢な純粋な乙女の心であれば、それを引き裂かんとばかりに引かれたこの力強い線、それはまるで無垢な乙女の純潔を切り裂き、そしてその引き裂かれた大地の谷間から新しい大人の女性としての人生を歩ませようとする男の獣のような生命力に培われた再生の力かも知れない)
藤田はある男の後ろに立ってその画用紙に描かれた絵を見て思った。
そしてその力強い線をまた別の線が被さる。
無数の線が被さりそしてそれは大きな黒い塊になって行く。その男はそれを気にすることもなく次々と新しい線を繰り出してゆく。一つの線をこの世界から消し去りそして新しい線を引く。
男は静物を描いていた。
白いリネンのテーブルマットの上にセザンヌの絵のように綺麗に配置された果実。
しかしそれは彼の前では野獣の餌のように食い散らされ、その無残とも言える姿が画用紙に残った。
(だが)と藤田は思った。
無残との言えるその食い散らかされた物達の何とも言えない神々しさは何だろう、まるで基督世界の絵画を見るように、そのひとつひとつがこの男が描いた線の中から静謐な力強い沈黙を伝えてくる。
藤田は壁に掛けた時計を見た。
午後二時を過ぎていた。もうすぐ芹澤馨がやってくる頃だった。
それまで自分ひとりでこの絵に向き合わなければならないのかと、思うと藤田は男の動く指先に握られた黒コンテの先を見つめてひとつ深い感嘆の息をついた。
その溜息に男は藤田の方を振り返った。短く切られた髪と太い眉毛、そして人懐っこいその大きな目が藤田を見て微笑んだ。
藤田もその目を見て微笑みを返した。
「立花さん、素晴らしいデッサンですね」
藤田は絵とモチーフを見比べながら立花に言った。
デッサン室には誰も居なかった。
今日は立花の頼みでデッサン室を貸し切って、彼のために静物を描くための時間を藤田は用意していた。
立花は赤色に染めた細身のジーンズを履いた足を組んで、握り締めたコンテをテーブルの上に置くと指を鳴らした。
「藤田君、恥ずかしいね。そんなことを言われると。僕のデッサンはまだまだ亡くなった島先生は勿論、まだ君にも到底及ばないだろうからね」
「いえ、そんなことはないですよ。感性は経験を必要としない、そしてそれを求めない、島先生の言葉です。僕は立花さんの絵を見る度に先生の言葉通りだと思うのです。いつも拝見していると本当に何故こうした線の組み合わせが、見る人の心の深部に繋がるのかと思うのです」
藤田はそう言うと給湯室に行き、二つのコップにコーヒーを注いで戻ってきた。
立花は奥の小さな一室にいた。そこは窓があり、研究生達の絵がかけられている居間だった。
立花はその部屋に入ったのは初めてだった。そして絵を見ていた。藤田はカップを立花に渡した。
「ありがとう」立花の透き通る太い声が居間に響いた。
暫く無言の時間がふたりの間を流れた。
時折風が吹いては画用紙の隅をすり抜けてゆく。立花は壁に掛けられた絵を眺めた。
木枠の額にはめられた絵を一枚一枚と丁寧に視線で追いかけていった。
裸婦があった。
薄くぼやけたスフマートの様な輪郭に包まれた絵だった。立花は立ち上がり、その絵に近づいた。
サインが在った。
“TEIJIROU SIMA”
島悌二郎の絵だった。
この島洋画研究所の所長でもあり、戦後の日本美術界でルネサンス時代の様式を取り入れた独自の画風で活躍している画家だった。立花にとって島悌二郎は同郷の会津の先輩だった。
立花は島悌二郎を古くから知っていた。思えば、自分の青春時代にこの先生と出会わなければ自分の今は無かったと言っても良かった。
立花は、徐に藤田に言った。
「藤田君、僕は若い頃、イタリアのジロイタリアという古い自転車レースに出たいと思って日々自転車を乗っていた。ある日峠を下っていたところバランスを崩してしまい剥き出しの山肌に叩きつけられた。起き上がろうとしたが、起き上がれない。足の骨が折れたことは、直ぐ分かった。それだけでなく、肩の鎖骨が折れて皮膚を突き破っていた。誰も通らないこの山道で、僕は倒れたまま空を見て、このまま誰も通らなければ終わりだと思った。ジロイタリアどころじゃ無い、人生にもこんな結末があるのかと僕は観念した」
立花は目を細め目の前にある裸婦を見つめた。藤田は黙って聞いていた。
「空を見つめていると、遠くから車が近づく音がした。車の運転手は倒れている僕を見つけて、大丈夫かと声をかけた。助手席からまた別の男が降りてきて、二人で僕を車の後部座席に運んだ。運転手の人が島先生で、助手席から降りてきた人が滝次郎先生だった。そして二人共僕を乗せて病院へと向かった」
「そんなことがあったのですか?」
藤田は飲みかけたコーヒーカップから唇を離して、驚いた表情をして立花を見た。
「そうなのだよ、でもね、その後が凄いのだけど。それから二人共僕を乗せて峠を進み続けた。ある曲がり角の所を抜けると林の木立が切れてとても素晴らしい風景が見えた。痛みをこらえて車に横たわる僕の目から見ても美しい光景だと思った。そしたら先生達が僕の方を振りかえり、こう言った」
立花はニヤリと笑った。
「ここで絵を描くので、院に行くのは暫く待って欲しい、とね」
立花は目の前の絵から視線を外して藤田の方を見て豪快に笑った。「それはすごいですね」
藤田もつられるように笑った。
「全く、本当にこのふたりは本物の画家なのだなと思ったよ。でも藤田君、僕はこの時生まれ変わったのだ。自転車レースに出るというという自分の青春の夢がふたりの先生の言葉で切り裂かれて、その切れ間から新しい自分を再生させられたのだ。その時、僕はこんなに気が狂うほどの絵というものは何なのだろうと思って歩きだしたのだ」
藤田はその言葉を聞きながら、まるで自分が先程絵を見て感じたことと同じだと思った。
(引き裂かれた空間から生まれてくる再生という生命力)
藤田は心の中で呟いた。
立花は次に横の裸婦の絵を見た。左下に滝次郎と日本語でサインが在った。
「滝先生だね。青い生命、Le vie en blueだ。青いパステルで描かれた美しい一枚だ。戦後の美術界の異端児と皆は言うけど、僕には先生のことをそういう輩こそ、異端児だね」
立花はそして絵の線を指でなぞる様に動かすと、藤田に微笑んだ。
「僕もそう思いますよ」
藤田はそう言って、立花に向かって微笑んだ。立花は少し離れた場所にある絵に向かって歩いた。
そして立ち止まると、藤田の方を見た。
「藤田君の絵は、島先生の影響もあると思うけどルネサンス絵画と何だろう、東洋の精神世界・・禅というべきものと結びついたような世界観を感じる。非常に研究されて一分の隙もない哲学の理論と同じような力強さを持って見る人に訴えかけてくるよ」
立花は藤田の絵に視線を戻した。
藤田は立花の言葉を聞きながら、自分の今の研究の深部を覗かれたような感じがした。
藤田は今ルネサンス、正確にはビザンチン絵画と東洋との融合を目指して取り組んでいた。
街に例えれば、それは東洋の交わるイスタンブルのような匂いをもつ街になるだろう。光と影ではなく、人々の体温が交わるような絵画を藤田は目指していた。
それを立花はそれとなく指摘した。恐るべき観察眼だと藤田は思った。
藤田が立花に視線を戻すと彼は一枚の絵の前に立っていた。彼の背中が静かに影を背負って佇んでいた。
それは絵が持つ光が立花を強く照らしだした為に出来ている影だった。
立花が見ていた絵はそれほど大きなものでは無かった。小さいキャンバスに木炭で描かれてグリザイユのように白黒で明暗が捉えられていた。
藤田は静かに立ち止まっている立花の側に近寄ると、一緒にその絵を見た。
立花は頬が赤くなる興奮を抑えて藤田に言った。
「藤田君、誰なのです?この絵を描いたのは。ダ・ビンチのようでもあるし、フェルメールのような静謐な光も感じる。いや、スペインの伝統的な写実の奥に眠る知性・・いや、ピカソのよう計算された破壊と再生のようなアイデンティティーも感じる。いや、違うな・・そうしたものを統合して新しい何かこの世界の神秘とも言うべき誰も知らない秘密を僕達に教えてくれているような一枚だ」
「この絵を描いた人物に会いたいですか」
藤田は立花に言った。
「会いたい」はっきりと立花は言った。
「立花さん、もうすぐ午後のお茶の時間です。今日、彼をここに呼んでいます。もうすぐ来ると思いますよ、あ、ほら呼び鈴が鳴りました。どうやら来たようですね」
藤田は立花を促して居間を出た。すると扉を開けて一人の人物が入ってくるのが見えた。
芹澤馨だった。
遠くで子供たちの声が聞こえた。
午後の公園で遊ぶ子供たちの華やいだ、喜びに満ちた声だった。藤田鼎の耳に幼い男の子の声高な笑い声が聞こえ、そして少女のはしゃぐ声が続く。
姉弟だろうか、二人の声は柔らかな毛布に包まれた安心感に溢れ、それが温かみのある日差しの中で洋画研究所の庭の木立の緑の葉に反射して空へと弾かれてゆく。
今度はその空へと弾かれた声を子供たちが手を伸ばして掴もうとしてはしゃぐ声を、母親の優しく子供たちに叱りつける声が追いかけてゆく。
藤田はその声を聞きながら生き別れた娘の事を思った。
(きっと娘は僕が愛した彼女の様に美しい睫毛と瞳を持った娘として平戸の美しい海辺で元気に生きているだろう)
藤田の心の側を風が吹いた。
その風にふっと我に返ると、藤田は風を追って視線を動かした。視線の先に二人の人物がいた。
モッズ風に躰を包み豪快に表情を変えていく立花豪と憂いのある眼差しで穏やかに微笑を浮かべる芹澤馨。
藤田はそのふたりを見つめながら写真を撮りたいものだと思った。親指と人差し指で四角を作り、出来上がった指のファインダーの中にふたりを入れてみた。
絵になる、そう思った。
二人をお互いに紹介した後、藤田は席を外して別の部屋で椅子を引き寄せ窓枠に両肘を付きながら何となく聞こえてくる子供たちの声に物思いに耽っていた。だから今まで二人が何を話していたか分からなかった。
立花が自分たちを指で囲む藤田を見て、微笑を含みながら声を掛けた。
「藤田君、何をしているの?」
藤田は指を構えながら進み、二人に近づいてきた。
「いえ、ここに僕愛用のコニカミノルタがあれば良い一枚がきっと撮れただろうなと思ったところですよ」
藤田の返事を聞いて、立花と芹澤の両人とも笑った。とても良い莞爾とした笑顔だった。
「彼は滝先生の所に通っているそうだね、いや、素晴らしい先生に師事しているなと言ったとこだったよ」
芹澤薫は立花の言う言葉を聞いて、言った。
「いえ、立花さんこそ、先程のデッサンを見させていただきましたが、ほぼ独学でこれほどの芸術的な作品を描けるなんて、僕では立花さんの芸術の域には到底及ぶ事は出来ないと思います」
芹澤の真摯な眼差しが立花の顔に注がれていく。
「ここまで到達するまでに日々、何れ程努力をすれば良いのか、それを思うとぞっと身震いがします。そして技術を吸収するための弛まぬ努力と忍耐、苦しみ、孤独、そして無限とも言える絵画への愛情と尊敬がなければ、それは到底出来ないことです」
立花は頬を紅潮しながら、芹澤の言葉を聞いていた。
「僕も、そう思います」
藤田も芹澤の言葉に続いて言った。
その言葉を遮るように立花は片手を上げて手を振った。
「とんでもないことだよ、この僕こそ君達には到底及びもつかないさ。藤田君の異なる文化を融合させて古き先人たちが残したものを再び蘇らせ、僕達にその新しい発見をさせる驚きを持つ絵画、そして芹澤君の影の中に潜む真実を照らし出すような神秘の光りの絵画、そのどれもが僕が今まで出会った中でとても素晴らしいものだ。そして偉大な島悌二郎と滝次郎という二人の愛すべき弟子。僕にとっては羨ましい」
立花は続けて話し続けた。
「僕は大学を卒業後、大きな外資系商社に就職した。そこで中南米を始めとして北アフリカ、イスラム諸国、欧州等様々な国々を歩いた。僕は最初から画家では無かった。画家になりたいと思ったが、その前に自分が知る世界を体験し、そして学び、知るべきだと思った。僕は行く国々の絵画を見てり、時間のある限り自分が歩いた世界で見たものを描いた。そして或る日、日本へ帰国した。きっかけは島先生の死だった。自分の自転車事故以来、先生と時折手紙のやり取りをさせていただいていた。手紙に僕が描いた絵を差し込んでね。最後に先生から届いた手紙は病室からの手紙だった。その手紙に一枚の絵が在った。それは僕の絵を先生がもう一度描き直したものだった。先生は僕の絵をこのようにもう一度描くことは今まで無かった、だけどそれをしてくれた。それは、先生のたった一度だけの僕への教えだった。独学で絵を学ぶ僕への生涯一度だけの教えだった。先生が描いたその絵には、僕がこれから先も学ばなければならないことが沢山詰まっていた。僕はまだ、まだそれに追いつかない。だから僕の頭の中にその先生の絵がいつまでも残っている」
立花はそう言って、二人の顔を見て微笑した。
そして片手を上げて、人差し指を軽く額に触れさせると、素早く直角に腕を振り下ろした。
小さな風が起きた。
「僕は、切り裂かなければならない」
立花は、短く言った。芹澤がその言葉に反芻した。
「切り裂く?のですか」
立花は言った。
「そう、先生は僕に一枚の素晴らしい絵画を残した。先生の絵は僕へのメッセージなのかもしれない。独学で進む僕に先生は超えられるなら超えてみろという、超えなければそこで死ぬが良いという、それは野獣達の世界で強い種だけが残るというシンプルで当たり前の事を、僕に残してくれた。先生の実家は戊辰の頃、幕府と共に戦った侍の一族だったから、その絵から受けたメッセージはまるで武士道の奥に潜む静謐な殺気を含んでいたよ。身震いした。しかしその震えから僕は立ち上がり、それに向き合った。だから僕はその先生の肉体とも言うべき絵を切り裂かなければならないと思った。先人の偉大なものを野獣の爪で切り裂いて、その先を行かなければならないと」
芹澤は立花と出会った翌日、滝洋画研究所のデッサン室に一人椅子に腰を掛け紅茶を飲みながら、昨日最後の筆を入れた絵を眺めていた。
そして昨日の事を思い出していた。
島洋画研究所を出て立花と中之島公会堂が見える石畳の橋を渡りながら立花が芹澤に呟いた。
「祈りかもしれないね、君の絵は」
その声に芹澤は立花の方を見た。
「森羅万象・・この世界に生きる全てのものに注がれる光の影にひっそりと潜む愛を君は見つけ、そしてそれを永遠に大事に見つめたいという祈り・・かな」立花は微笑した。
芹澤は微笑する立花を見ながら、頷いた。
「祈りかもしれません。僕は今立花さんがそう言われて、はじめてそう思いました。絵を描くときの自分の主題は祈りなのでしょうね」
石畳の橋の上を歩く二人の頬を風が凪いでいった。交差点で立ち止まると立花は芹澤に言った。
「芹澤君、愛とはなんでしょう」
芹澤は、立花がそう言うのを驚いて聞いていた。
数日前、同じ場所で同じ言葉を藤田から聞いたからだった。芹澤は数秒、静かに押し黙ると立花に言った。
「立花さん、愛も切り裂けますか?」
芹澤の言葉を聞いて立花は笑った。
「なんて間のいい取り方をする答えと質問なのだろう。愛も切り裂けるか・・なんて、詩人の様な質問だね」
目の前の信号が青に変わった。その時、立花は芹澤に聞き取れない程の小さな声で何かを言った。
そして二人は手をあげると別れて別々の道を歩き出した。
(あの時、立花さんは何と言ったのだろう)
芹澤はカップを口に近づけると紅茶の茶葉の香りを嗅いだ。ヴァニラの何とも言えない甘い香りが芹澤の鼻腔を満たすと、芹澤は紅茶を口に含んだ。
そして芹澤はイーゼルに掛けられた絵を見た。
(藤咲さん、愛とはなんでしょう?)絵は答えることなく、美しい横顔を見せたまま静かに黙っていた。
その絵から伝わる静かな沈黙がその答は芹澤自身が見つけるように、と言っているようだった。
(僕はあなたの手術が上手くいくことを祈っている。そして再びあなたと会うことができると信じている。あなたに降り注ぐ光が作り出した影の中に潜むあなたの思いをひとつひとつ拾い出して、僕はそれを色彩にした。それは僕だけが知り得るあなたが持つ秘密の色だ。僕はその色であなたの美しさを永遠に残したいと願い、あなたの現実の時間の進行を画布の中で止めた。美しい時間は永遠にこの美しい画布という氷壁の中で眠る。いつかはこの時間が動くこともあるかも知れない。でもそれまであなたの美しさはここに残ったままだ。僕はそうあってほしいと祈って絵を描いた)
芹澤は椅子に腕をもたれかけるようにして、顔を伏せた。そして言った。
「藤咲さん、愛とは何でしょう?」
庭先から猫の鳴く声がした。大きな黒い猫が庭の茂みから出てきて研究所の入口の方に去っていった。するとポツポツと雨が落ちてくる音が聞こえるのが分かった。
それはやがて大きくなり、芹澤の耳にも聞こえてきた。梅雨の始まりを告げる雨だった。
この梅雨が終われば季節は夏になる。
芹澤は雨の雫の地面を叩きつける音を聞きながら、先程の黒い猫がデッサン室に入ってくるのを見た。
その猫は芹澤の側をぐるりと一周すると、静かに躰を横たえて眠りに付いた。この猫が起きる頃には夏が始まっているだろうと芹澤馨は思った。
そして、その夏が始まる前に藤田と立花とするべきことがあることがあると芹澤は思った。
芹澤は木枠に新しい白い画布を張ると、バーミリオンの絵の具チューブと林檎を手にとった。巴里に行く前に、やるべきことが三人に在った。
床張りの部屋の真ん中に丸いテーブルが置いてあった。
その上に白いリネンのシーツがかけられ、林檎がひとつ置かれている。
その林檎を囲むように三人の男がイーゼルの前の椅子に腰を掛けて座っていた。
先程まで談笑していた立花豪、藤田鼎、芹澤馨の三人は、今静かな時間の中を進み、林檎と対峙しながら絵を描いていた。
藤田の提案で芹澤が巴里に行くまでに何か作品を描こうということになった。そしてその何かが林檎に決まり三人はそれを描いていた。
(いい題材だ)と、立花は思いながら絵を描いていた。
立花の視線の中に二人の表情が見える。真剣に真摯に林檎を捉え、そして指を動かし絵を描いている。
この絵は数日掛けて仕上げ、そして新聞社の主催する公募展に出すことになった。
それは芹澤馨の提案だった。芹澤の知り合いが新聞社の仕事をしておりその公募展の事を知っていたから、その話になった。
落選や入選という結果ではなく、それぞれの思いを乗せて描いた作品をこの時代の爪痕として残したい、という芹澤の提案だった。
そしてより簡単でシンプルに見えて無難しい題材とは何かとなった時、立花は二人に言った。
「林檎が良い、林檎を描こう、セザンヌは言った。『林檎で巴里を驚かす』とね。どうだろう?僕達三人で美術界を驚かそうという意思を込めて描かないかな?」
三人は其々顔を見合わせると、頷いた。
そして今まさに三人が林檎に向かい合って絵を描いていた。
立花は再び思った。
(僕達三人にとってとてもいい題材だと思う)
立花の画布に木炭の激しい線が描かれては、また消えていった。
そして立花の線が林檎の輪郭を捉えてそれを切り裂いた時、激しく石畳を叩く雨音が耳に聞こえた。
立花は首を横に振ると再びその切り裂かれた場所を凝視した。
遠くにサイレンの音が響く。
そして睫毛を伏せて背中を見せて立つ女性が切り裂かれた空間から現れた。
(君か・・・)
背中を見せて立つ女性がゆっくりと立花の方を振り返ると、彼を見て微笑んだ。
そしてその女性の細く長い指が林檎を掴んで唇に運ぶと、彼女は林檎の果実を齧った。
立花は指を動かし、その女性の姿を木炭で切り裂いた。
(アンナ・・・、この林檎を描くという題材は、君がとても好きな題材だったね。そして林檎を描くということは、あの日以来、君が僕へ残してくれた永遠の題材になった・・・・)
立花はその年、ドイツのミュンヘンでの勤務を終えてオーストリアのウィーンに移り住んでいた。
そこで立花は日本向けに地元のガラス工芸品やバッグ類の商売をしながら、週末は古い街並みの石畳の路を歩き、気に入った場所があると手にしたスケッチブックを広げては立ち止まり、街の風景を描いた。
街の道幅は狭く、時折見上げる空は鉛色で低く、東欧の赤い煉瓦の屋根ととても合っていた。
街のカフェに入れば、立花は椅子に腰掛ける女性や男性の姿を見ては絵を描いた。
街の美術館ではクリムトの作品をよく見た。しかし、立花の感性はどちらかといえばエゴン・シーレを欲した。
クリムトの美しさの表現より、シーレの内面に迫る筆使いが誘う線に惹かれた。
惹かれたが、真似ることはなかった。ただ彼からは多くの事を学んだ。
ウィーンでの日々はそんなことの繰り返しだった。やがて日本から帰国の辞令が出ることは知っていた。ここは短い滞在になることを立花は知っている。
だから立花は日本に戻れば、今の仕事をやめて本格的に画家になりたいと思っていた。その為、帰国後は大阪の島先生の洋画研究所を訪ねる予定だった。
ミュンヘンでの滞在時の或る日、立花は島先生から郵便物を受け取った。
梱包の紐を解くと手紙と先生の絵が同封されていた。その絵は自分が先生の下に手紙と一緒に送った絵を、先生が模写して描きなおされている絵だった。
立花は今まで先生からこうした絵を受けとったことは無かった。
立花はその絵を見ただけで、自分の未熟な部分を全て察知することができた。それは先生から初めて受けた絵の指導とも云えた。
その絵を暫く手にとって眺めた後、立花は手紙を読んだ。
先生のなだらかに走る文字が見え、そして手紙の最後に頁に立花の視線が落ち、文字を掻き分けるかのように読み進んでいく。
「立花君、僕の友人の滝君が云うには『画家が本当に画家になるには、才能だけではなれない。勿論才能も技術もとても大事なことだ。だが線を描き、色彩を画布に放つだけでは本当の画家になれない。画家には自分以外の人間の存在が必ず必要だ。画家も一人の人間なのだ。人間が人間に出会い互いに影響される。そしてその存在に対して向き合うことではじめて自分が何故絵を描こうとするのかという、理由を見つけることが出来る。それが画家には必要だ。それを人生の中で見つけることが出来る運命の下にある者が画家になれるのだ』そうだ。僕は概ね間違いが無いように思う、僕もそうした経験を持つ一人だから」
そして最後に「君にとって必要な存在がきっと君を画家に導いてくれるだろう。そして導かれた君の作品を見るのを心から楽しみにしている」と書いてあった。
立花はその手紙を見終えると先生の描いた絵を見て、静かに頭を下げた。
立花は下げた頭を上げると、電話を手にして電話番号を指で押した。そして日本の島洋画研究所に電話をすると、若い男の声が聞こえた。
男は「藤田」と名乗った。立花は自分の名前と用件を男に言うと、受話器から聴こえてきた男の返事に、身体が硬直して動くことができなくなった。
若い男は立花にこう言った。
「立花様、申し訳ありません。島悌二郎先生は昨晩病気の為、入院先の病院でお亡くなりになりました」
立花は画布から筆を離すと、窓の外を見た。
雨が降っていた。昨日、島先生の死を聞いた立花は先生から送られてきた絵をテーブルに置いて横に小さな蝋燭を灯し、一晩それを祭壇として先生の魂の冥福を祈った。
朝方に少し眠り、起きると立花は画布にひとり向き合った。立花は窓の外を見て思った。
(先生は自分の生命が消え去ろうとするその最後を知っていて、自分に最初で最後の指導をしてくれたのだ。先生とは自分が若者の頃、自転車で事故を起して以来の付き合いだった。自分は先生から何か教わることも無く一人で絵を描き始めた。先生の研究所を訪ねることはしなかった。一人で絵を学ぶことを選択した。しかし一人で絵を描くのは、孤独だった。或る時書店で手に取ったゴッホの本を買って部屋で読み終えたとき、独学で絵を描くこの孤独感がゴッホと似ていると思った。ゴーギャンと分かれ社会と断絶するように絵を描いていこうとするゴッホの心が、本を読み終えた自分の心を締め付けた。海外で働きながら独学で描いた絵を時折、先生に送り見てもらうことは有った。特に画学生の様に技術的な指導を受けたことは無い。絵を見た先生は手紙にいつも「立花君、いいね。次に進もう。とだけしか書かなかった。しかし先生は最後に自分が描いた絵に病床の先生が自ら鉛筆を取り素描を描き、それを自分に送ってくれた。先生はその絵を見て独学で行く立花の心を奮い立たせ、自分を越えられるものなら越えて見せろ、野獣の様に吼えて次の時代に生き残る絵を描け、と優しく自分を崖から落としてくれたのだ)
一人外をみて立花は、部屋のドアを開けて外へと出て行った。
小雨の中、立花は借りているアパートを出て市場へ向かった。
傘はささなかった。
濡れたい気分だった。襟元を立てて小走りに市場へと向かった。
そこには沢山の溢れるばかりの色とりどりの果実が並んでいた。立花は静物を描くために果実を買いに出かけた。そして梨と林檎を買い求めると自分のアパートに向かって戻ろうとした。
先程まで降っていた雨は止み、所々の水たまりの中に青い空が映っていた。
信号の無い通りを渡った時、立花は髪にスカーフを巻いて、手に花を抱えて道行く人に花を売る女性を見た。
道行く人に花を手渡してゆくが誰も彼女の手に握られた美しい花に手を伸ばす人は居なかった。
戦争難民だなと、立花は思った。
欧州では第二次世界大戦が終わって数十年が過ぎても未だ内戦や民族紛争の絶えない地域はあった。
そうした所から流れてきた難民は職に就けるものはごく僅かで、どちらかといえばその多くは目の前に近づいてくる女性のように、その日々を暮らすために内職で得た小さな希望を売って歩いていた。
売り子の孤独が立花の心を湿らした。そして籠にある美しい花が見えた。
(美しい花だ)そう、思うと立花は売り子の女性が近づいてくるのを待った。
売り子は立花の近くまで来た。
そして「東洋の人、花はいかがですか?」と言った。
立花はその声を聞いて、ポケットから紙幣を出した。
「お嬢さん、その花を全部頂いてもいいですか?」
売り子は立花の答えを聞くと寂しげに微笑んだ。
「いえ、一つで宜しいですよ、これ程の沢山の花は必要にはならないでしょう。憐れんでいただかなくても一つで結構ですから」
そう言うと黄色い花をひとつ籠から取り出して、立花に渡した。
立花は黄色い花弁の美しい花を受け取ると、首を横に振った。
「お嬢さん、いや全部いただきたいのです。僕は仕事の合間に絵を描きます。丁度、花の絵を描こうと思っていたら、あなたが通りの向こうからこちらにやってくるのが分かった。遠くから見ていても籠の中の花達の彩の美しさが分かった。是非、それを全部頂いて部屋の花瓶に入れて絵を描きたいと思っているのです」
立花は受け取った黄色い花をそっと女性に渡すと、微笑んだ。
売り子はそれ以上何も言うことはないといった表情で籠ごと立花に花を渡した。
立花はそれを受け取ると、お金を売り子に渡した。
「東洋の人、ありがとう。あなたが描く絵に神の恩寵が与えられることを祈っています」
売り子はそう言って、小さく胸元で十字を切った。
「とてもいい花を頂いてありがとう、良い絵を描けそうだよ」
立花は花弁から漂う香りを嗅いで空を見た。
少しだけ雲の切れ間から見える青い空が美しかった。その空を一羽の鳥が飛び去っていった。自分もまたあの鳥のようにこの街を去ってゆくだろう。
「見せていただけるかしら?」
売り子の不意な声に立花は振り返った。売り子は立花の方を見て微笑んでいた。
「見せていただけるかしら、もし迷惑でなければあなたが描いたこの花達の絵を?」
売り子の青い瞳が立花を見ていた。見上げていた青い空のように澄んだ瞳の色がとても美しいと立花は思った。
その青い瞳に一羽の鳥が去って飛び立って行くのを立花は見た。
立花は静かに頷いた。
「ええ、宜しいですよ。僕はこの通りの角をまがった処のアパートの二階に住んでいます。ほら見えるでしょう、白い窓枠のある部屋が。あそこが僕の部屋です。あなたはいつもこの通りで花を売っているのですか」
売り子は頷くと、あの白い窓の部屋ねと言った。
「私はこの通りで朝の十時ごろ花を売って歩いています」
「そう、じゃもしその時間に君を見つけたら、窓から声をかけるよ。お嬢さん、名前を教えていただいても宜しいですか」
売り子は「アンナ」と、言った。
「じゃ、アンナ。また君を見つけたら声をかけるよ」
立花はアンナの手を軽く握ると部屋へと戻っていった。そして歩きながらもう一度振り返ると自分を見て手を振るアンナに手を振った。
(良い絵が描けそうだ)と、立花は思った。
彼女の細く白い手は美しい花を切り取るために為に在った。
そして今日も小さな庭からいくつかの花を鋏で切り取ってゆく。
切り取った花を叔父が通りに出している店先に運び、街を訪れる人々の目に留まるように置いてゆく。
彼女は最初、切り取った花を何気なく店の表に置いていたが或るとき花びらの色が青ならば横に黄色を、赤ならば緑を寄り添うように置いたところ、人々が立ち止まり花を手にしてくれることが多かったことに気がついた。
不思議に思った彼女は休みの日に書店に入り、色彩の本を手にとった。
ゲーテ色彩論と表題に在った。それを読み進んでいくうちに彼女は自分の考えと符合する部分が沢山在った。
本を静かに閉じるとそのまま書棚に戻した。本を買うお金は無かった。
ただ内容を記憶した。
アンナは休みの日には必ず本屋に行き、そこで沢山の本を読んだ。宗教から、天文学、文学からありとあらゆる物を読んだ。
そしてそれを記憶することに努めた。そこで得た知識はその通りに翌日から仕事に取り入れた。
彼女はゲーテ色彩論から得た知識を使った。
花は沢山売れるようになった。そして籠を持って通りで花を売り歩くときも、籠の花をゲーテ色彩論の考えに沿って実行した。
美しい花は多くの人の手に吸い込まれ、多くの家庭に渡っていった。
そしてその花の彩の美しさをひとりの東洋人が見つけ、絵を描くと言った。
花を籠に手を入れたアンナの頭上から男の声が聞こえた。
「こんにちは、アンナ」
その声に彼女は、空を見上げた。白い窓から首を出して人懐っこい笑顔で、自分を見ている男がいた。
「絵が出来た。見に来ないかい?」
アンナは笑顔でうんと頷いてアパートの中に入っていった。
板張りの螺旋階段を上がると立花がドアの前で立っていた。彼女は立花の部屋の前まで行くと、促されて部屋に入った。
部屋の中には沢山の画布が散らばっていた。その部屋の窓の方に水色のテーブルクロスの上に白い花瓶があり、その中に沢山の彩の花が活けられていた。
側にイーゼルが置かれ、そこに絵が在った。立花は指を指した。
「アンナ、見てもらえるかな、これが僕の描いた絵さ」
アンナは近づいてその絵を見た。
白い花瓶は幾層もの白い絵の具で盛られ、そして花びらは点描のように描かれていた。
ユトリロの描く白色にスーラの点描が混じり合い美しい交響曲を奏でているようだった。
彼女は暫くその絵を見ながら自分自身が引き込まれてゆくのを感じないではいられなかった。
「素晴らしい・・絵全体の調和が取れていて、何よりも色彩が奏でるハーモニーが見ている人の心を和ませる・・・とても美しい詩に触れたときの清らかな感じを受けます」
アンナは絵をみつめたまま、十字を切って言った。
立花は彼女の横顔を見つめた。青い瞳が動くことなく自分の描いた絵を見ている。
彼女のその横顔を見ているだけでフェルメールの絵を思い出すことが出来た。
少しだけ翳りのある表情に、差し込む部屋の明かりがとても絵画的で美しい横顔だった。
「この絵、もし良ければ頂いてもいいかしら?」
青い瞳は絵を見続けていた。
立花は彼女の言葉が心に響き終わるのを待って「勿論いいですよ。差し上げます」と言った。
青い瞳が立花の方を振り向くと笑顔になった。
立花は別の部屋から椅子を持ってくると、そこに彼女を座らせ、自分は隣の部屋に行って食器棚からカップを取り出し紅茶を注いだ。
それを手に持つと部屋に戻り、椅子に座る彼女の手に渡した。
「ありがとう」
彼女は唇にカップを近づけて茶葉の匂いを嗅ぐとゆっくりと紅茶を飲んだ。
立花は白い窓枠に手をついて、街の通りを見ていた。通りを行き交う車や人々の姿が見えた。
「今日は人がいつもより多く居るから花が沢山売れそうだね」
立花は通りを見ながらアンナに言った。
「そうだといいわね。でも・・人が多いから花が売れるとは限らないから」
「そうなの?」
立花は視線を窓の外からアンナに戻して言った。
「そう、雨の日には黄色がよく売れるし、失恋した女性には青い花が良く売れる。逆に恋を始めた人には桃色の花が売れるし、晴れた日には緑輝く葉の花が売れる。色に対してそんな思いを持っている人が沢山街の通りに居るとき、その人の心に届くような色を持った花が良く売れるのよ。だから人の数はあんまり関係ないかな」
立花は「成る程」と頷いた。
「東洋の人、私まだあなたの名前を聞いてなくて・・」
「そうか」と言うと手を立花は叩いた。そしてアンナに手を差し伸べた。
「ゴウ、ゴウ・タチバナです」
「ゴウね、いい響きね。私はアンナ。改めて宜しく」
二人は手を握って微笑み合った。微笑んだ後に立花は少し照れながらアンナを見た。
「どうしたの?ゴウ?」
「実は・・」
立花は頭を掻くとアンナに言った。
「アンナ、絵を差し上げる代わりにお願いがあるのですが」
立花はそう言って彼女にある提案を持ちかけた。
大地を揺るがす爆音の後に、彼女は頭を抱えながら群れを行く人々達と共に崩れ落ちた教会の建物の側を逃げていた。
夜になると毛布にくるまり、朝になると歩きだした。
遠くに国境が見えた。家族は鉄道に沿って歩いていた。多くの人々が一列になって歩いて行った。
アンナは立ち止まり振り返った。
故郷の空に赤い炎が昇っているのが見えた。
もう、帰れないだろうと思った。そう思うと涙が溢れた。そしてこれからの自分はどうするべきかと思った。
家族は叔父のいるウィーンへ行くしか方法が無かった。僅かな路銀以外に何も無い。
そこに人生の希望はあるのだろうかと彼女は思った。
(私の中にある希望は、花びらの色彩を合わせて多くの人に花を売って少ない金銭を稼ぐだけのもの、でもその色彩に惹かれる人が私の才能をつないでくれる希望だとしたら、私は何かを見つけたのではないだろうか。色彩をつなぎ合わせて希望を繋ぐ希望を・・)
伏せた目を上げて目の前で自分を描く男を見た。
(いまこうしてだからひとりの画家の前でモデルになっているのかもしれない)
後ろを歩く子供の歌声が聞こえてきた。風に裂かれるように髪が靡いて、その声に絡んでいった。
そこで彼女は瞼を閉じて、やがてゆっくりと瞼を開いた。
アンナは椅子に腰を掛けて、白い窓枠に持たれるように背をついて林檎を両手に持って立花を見ていた。
立花はイーゼルに画布を置いてその画布に丁寧に油絵具を乗せていた。
立花は彼女をモデルにして絵を描いていた。窓から降り注ぐ柔らかい陽光が彼女の白いうなじから肩の輪郭に当たり、それを立花は黄色と白で薄く混ぜ合わせた色で捉えようと筆を動かして、そっと彼女を見た。
彼女の青い瞳が立花を見ていた。立花は彼女を見て少し微笑むと、パレットに筆を置いた。
そしてゆっくりと背を伸ばすと手を上げて彼女に休憩しようと、言った。
今日は朝から今まで絵を描き続けていた。
立花はこの前彼女がこの部屋に来た時、彼女をモデルにして絵を描きたいと言った。
日本に帰るまでに彼女を描きたいと言った。
彼女は、すこし考えるような表情をすると自分から椅子を動かし、今座っている場所まで動かすとここで描いてくれるならと立花に言った。
立花は勿論ですともと言うと来週の聖体祭の祝日に描くことに決まった。
そして約束の日に彼女は来て今まで二人は部屋でモデルと画家として仕事に打ち込んだ。
立花は立ち上がると隣の部屋に歩いて行った。彼女は静かにイーゼルの側まで来ると絵を見た。
自分の姿がそこには在った。
檸檬色の薄い色が頬に降り注ぎ、唇には薄い桃色が光を受けて反射していた。美しい表情をしていると思った。
立花がパンと数枚のハムを持って戻ってきた。それをテーブルの前に置くと二人は手にとって食べ始めた。
「お腹が空いていたから凄く嬉しいわ、美味しいわね」
「アンナ、ワインもあるけど飲むかい?」
そう言うと立花は部屋に戻りワインとグラスを二つ持って来てテーブルに置いた。
ワインを開けると香りが部屋に広がった。そしてゆっくりと立花はアンナのグラスに注いだ。
次に自分のグラスにワインを注ぐと手にとって二人で乾杯をした。
ワインがお互いの喉を潤し、二人の時間を豊かなものにした。「アンナ、どうして林檎を手に持つことにしたの?」
立花は彼女に聞いた。
「今日は白いワンピースだったから、何かアクセントが欲しいと思ったの。それで赤い花にしようかと思ったのだけど、林檎が良いと思ったの。私にとって画家のモデルになるということは禁断の果実を食べることに等しい禁断の行為なのだから聖書のアダムとイヴが口に含んだ林檎を手にしてモデルになりたいと思ったの」
「モデルになることが禁断の行為だって?」
立花は笑いながら彼女のグラスにワインを注いだ。
「禁断の行為よ、ゴウ。私は二人が楽園を追われたのは禁断の果実を食べたからではなくて、実は神しか知りえない美的な感性を赤い林檎に感じたからだと思っているの。林檎の赤い、その赤という色彩にアダムもイヴも何かを感じた。その何かという感性が宇宙の創造に関わるとても大事な秘密だった。それは神しか知りえないことなのだけど、それを人間である二人が肉体の内に潜ませて持っていた。それを知った神は、二人を楽園から追放したのよ」
立花は黙って彼女が話すことを聞いていた。
「林檎の赤には何かが、あるのよ。そして画家はその神が恐れた感性を二人から引き継いだ人達なの。だからそんな画家のモデルになるのはとても怖い禁断の行為だというメッセージを伝えたかったの」
「君はとても深い教養を持っているのだね、アンナ」
彼女は青い瞳を立花に向けて言った。
「私の故郷は内戦で破壊され、美しい風景は全て消え去ってしまった。私の生きる希望も世界もこの手の中にある小さな花々の中にしかないの。その花々の一枚一枚を揃えて私は美しい世界を造り、そこで私は生きている。そしてこれからもずっと・・。でもゴウ、私は今ここであなたにモデルとして描かれながら私が生きるべき道という希望があるのではないかと考えていた。自分の色彩を繋いで希望をつないで生きていく方法を・・・」
立花は林檎を手に取るとそれをテーブルに置いた。
「林檎が君の禁断の果実で、禁断の秘密でもある。でもそれはアンナ、君の希望でもあるのだね」
「そう、そういう願いを込めて林檎を手にとってモデルになったの。いつか誰かがこの絵を見たとき、このモデルの女性が持つ林檎の意味はなんだろうと思うでしょう」
彼女は立ち上がると白い窓辺の椅子に座り、窓の外の空を見た。「空が曇ってきたわ、雨が降るかもしれないね、ゴウ、続きを始めましょう」
そう言うと彼女は林檎を両手に持って、一口だけ噛んだ。そして青い瞳で立ち上がってイーゼルの側に座る立花を見つめた。
その後二人は、画家とモデルとして仕事をこなした。
作品は日々完成度が高くなり、やがて最後の一筆を唇に置いて完成した。
絵が完成した日、立花は白い窓を開けてアンナが花を売るために通りを通るのを待っていた。
時間になるとアンナが現れた。
「やぁ、アンナ、ついに絵が完成したよ」
立花はアンナに言った。
アンナはそれを聞くと夕暮れに部屋に行くわ、と言った。そして手を振って立花を見て微笑んだ。
立花はアンナに手を振ると空を見た。空は少し曇り始めていた。
(今晩は雨かも知れない)
そう思うと立花は、部屋に置いてある包を見た。
それは立花が本屋で買ってきたアルフォンス・マリア・ミュシャの画集だった。
彼女は立花との交流を経て、自分も絵を描きたいと思うようになった。
そしてそれを立花に相談した。
彼女は自分の色彩に対する感覚を磨いて絵画を描きたいと願った。戦争難民としての今後の自分の人生における希望として画家になりたいと願うようになった。
それで立花はそんなアンナのためにミュシャの画集を買って彼女への贈り物にしようと思った。
買ってきた画集を見て、自分が去った後残った画材を与えて、絵を学んでほしいと思った。
いや、それだけでは無かった。
恥ずかしくて言えないが、立花はアンナを既に心の中で愛していた。
(明日には日本へ行かなければならない。アンナに僕の愛を伝えてできれば去りたい)
立花はそう思って振り出しそうな空を見つめていた。
日本へ帰るフライトまでもう二十四時間をきっていた。
雨が降り出した夕暮れのウィーンの街をサイレンの音が鳴り響いていた。
雨に濡れた路面を車が滑った跡が見えた。そこには路面に転がる赤い林檎が散らばっている。
転がった林檎が立花の靴に当たった。
立花はそれをひとつ拾い上げると、人ごみから抜け出て、近くの標識に背を持たれて声を上げて咽び泣きはじめた。
雨音は段々強くなり、やがて立花の声をかき消すほど強くなった。
泣きながら立花は手にした林檎の皮を指の爪で切り裂いた。
中から美しい林檎の果肉が見えた。見えると立花は見えた果肉を切り裂くように、また爪を動かした。
今度は果肉ではなく悲しみが見えた。その悲しみが見えた時、立花は吼え、林檎を濡れた石畳の道に叩きつけた。
その石畳の上に雨に濡れて倒れているアンナの姿が、彼が最後に見た彼女の姿だった。
相馬一平は新聞社で沢山の公募作品を見て歩いていた。
年配の画家達と一つ一つ作品を見ながら入選、選外を決めていた。
中には見知った画家の作品もあった。
芹澤馨、藤田鼎と言った画家は良く見知った画家だった。二人共林檎の作品を公募展に出していた。
偶然かな、と思いながら二人の作品の前を過ぎていく。二人の林檎を作品は素晴らしかった。
林檎を観察し、それだけでなく画家の持つ哲学で作品を仕上げていた。
しかし、見知っている者とはいえ、公平に見なければならないと思った。
同じ林檎ならもうひとつ別の作品の方が今回は残念ながら二人より良かったな、と思った。
出展者の名前は立花豪と書いてあった。赤い下地に、より一層赤いバーミリオン色の林檎がその赤を切り裂くように描かれていた。
しかしその作品は赤色が持つ情熱というものは一切感じられず、むしろ青色が持つ知的な冷静さを全体から感じさせた。
そこに画家の秘められた思いがあるのだろうと思った。
相馬一平は小説家として成功する前は、画家を目指していた。
滝次郎洋画研究所に通いながら絵を学んでいたが、文学を志す機会を得て小説家になった。
しかしながらそれで絵を理解する力を失っていないと思っていた。むしろ絵画から離れたことでより冷静に絵画を見ることが出来た。
そのため今回新聞社の公募展の委員に選ばれていた。
入選作品は先ほど「K令嬢」というのがひとつ決まった。背を向いた女性の美しい絵だった。
もう一つを自分が決めることになった。
そこで相馬一平はそれを見つけるためにもう一度会場内を歩いていた。
再び会場を歩いた中で、立花豪の描いた作品が気になった。
そしてその作品の前に相馬一平は立った。暫くその場所で静かにその作品を見ていた。
目を閉じ、再び目を開けた。林檎は何も言わないが、林檎を切り裂いて何かが語ってくるような感じがした。
「この作品は駄目だね。色彩の基本がなっていないだろう?」
「赤色ばかりをなぞらえて自分だけが気持ちよくなっている。唾棄されるべき作品だね。」
「これよりも落ち着いた色彩の先ほどの月を描いた風景作品が入選にふさわしいよ」
周りに集まった年配の画家達の声が相馬一平の耳に聞こえてきた。これでこの作品の選外が決まった。
(この画家の作品がいつか、時代を引っ張って行く時が来るだろう、絵画の基本という人のほうがいずれ異端児となる時代が来ることを、僕は信じる、彼らの才能を。芹澤馨、藤田鼎、そして立花豪という名を僕は忘れない。彼らは次の世代へ繋ぐ希望なのだ)
最後
立花豪はスペインに居た。
芹澤馨と藤田鼎と共に林檎を描いた時から二年が過ぎていた。
巴里へと向かう芹澤を見送った姿が、彼を見た最後の姿になった。
彼は巴里へ行った後、欧州を旅して回り、スペインの教会で病気を得た体に無理を重ねて絵を描きながら絶命した。
立花はその手紙を受け取った後、彼が亡くなったという教会へと向かった。その教会に芹澤馨の絶筆とも言うべき最後の作品が在った。
それを見るために彼はバスク地方の小さな教会に向かった。
教会の場所が分から無い彼は村を歩くオリーブの籠を持った子供に声をかけた。
少年はその教会と絵のことを聞くと頷いて立花をその教会へ連れて行き、マリア像の横にある絵を指さした。
教会の中には沢山の巡礼者が居て、その絵を見ては胸元で十字をきった。
その絵を見た立花は唯一言、素晴らしい祈りの言葉だ、と言って静かに頭を下ると、片膝をついて手を組んで頭を垂れた。
立花は立ち上がると少年にお金を渡した。少年は笑顔でお金をもらえないと言った。
立花は少年に言った。
「君、名前は?」
少年は東洋人を見つめながら短く言った。
「チコ」
「そう、チコと言うのだね。ここまで案内してくれてありがとう」
「あなたはカオルの友人ですか?」少年は言った。
「チコ、君は彼を知っているのだね。そう僕は彼の友人だよ。とても大事な友人だった。ありがとう、チコ。彼のスペインの友人にここで出会えたことは神のお導きかもしれない」
そう言うと立花はひとり静かに教会を出て行った。
そして彼はウィーンへと向かった。
ここを訪れるまで十年が必要だった。
立花は白い窓のある部屋の下の通りに居た。時折立ち止まっていると人の流れにぶつかりそうになったが、立花は少し歩き出すと、ある場所に立った。
そこで彼女の記憶が蘇ってきた。
立花は通りを行く人の顔を見た。その中に彼女の顔を見つけることはできなかった。
立花はポケットから手紙を取り出すと、それを読んだ。
宛先人は芹澤馨と書かれていた。
「 拝啓 立花豪 様
立花さん、その後、いかがでしょうか。僕は日々沢山の絵画を見る為、欧州を歩き回っています。今はオーストリアのウィーンのホテルで手紙を書いています。手紙を書きながら立花さんに以前言った言葉が思い出されます。『愛も切り裂けますか?』立花さん、どうでしょう。僕もある言葉が響きます。『愛とは何でしょう?』愛は僕にとって静かな、祈り以外にありません。そしていつかそれを絵画にして見せられるようにできるようになりたいと思っています。立花さん・・・、僕は思うのです。間違っていたら申し訳ありません。立花さんは、ある出来事から本当は逃れたくて、切り裂くような画風を身につけたのではないかと思うのです。それは、愛ではないかと思うのです。それは反面、その愛があった事実を守りたいと思っているのではないかと思います。
立花さん、アンナさんは今もお元気です。事故以来、彼女は車椅子の生活になっていましたが、最近は杖をついて歩けるほどになっており今はこの街では知らない人はいないと言える程の有名な画家として活躍されています。立花さんが僕に話してくれた美しい青い瞳も、その美貌も変わらないままです。僕は彼女に会って立花さんのことを話しました。彼女は僕の手を握ると、深く頭を垂れて、ゴウに会いたいと言っていました。彼女の住所を手紙の最後に書いて置きます。それではもう夜も遅いので、眠ります。また再び日本で会えることを信じて。
1974年12月 クリスマス」
(芹澤君、君の愛は祈りなのだ。それは幸せに皆がなって欲しいという祈りなのだ。僕は君から聞いた藤咲純という女性に会った。彼女は君に出会えたことを感謝していると僕に言ってくれた。そして僕に君の最後の作品を見てきてほしいと言った。そして僕は君の最高傑作をスペインのバスクの教会で見た。素晴らしい作品だった。君はそれだけでなく、僕の為にこのウィーンに来て彼女に僕の祈りの言葉を伝えてくれた。僕は切り裂くように絵を描く。彼女の悲しい事故以後、僕は優しい線で絵を描くことはできなくなった。悲しみが背中を覆って常に自分を苦しめたからだ。そして自分はそんな悲しみが画布の中に浮かび上がるのを恐れるように描くようになり、そして今の切り裂くような線で描くという自分の画風を手に入れた。何枚も何枚も切り裂くように絵を描くのは、それは彼女を愛していたという事実から逃れたいという気持ちからかも知れない。そして逃れたいと思うことで、新しい自分の再生を心の奥で願っているのかもしれない)
立花は手紙をポケットに入れると、歩き出そうとした。するとなだらかな石畳の路を転がってくる林檎を見つけた。
立花はそれを拾い上げると、ひとりの少年が急いでその林檎を追いかけて立花の側にやってきた。
立花は林檎を取り出したハンカチで拭くと少年に林檎を渡した。
「ありがとう」
少年が立花に言った。
「これは君の林檎かい?」
立花は腰を屈めて林檎を少年に渡した。少年は首を横に振ると後ろを振り返り、なだらかな坂の先を指さした。
「あの女性の林檎だよ」
立花は少年の指差す先を見た。
そこに杖を付いて長い膝下までのスカートを履いた女性が居た。
立花はゆっくりと背を伸ばすと、静かに少年に言った。
「この林檎を僕に頂けるかな、この林檎は僕が彼女に届けに行くよ。だって彼女は僕の大事な・・」
それ以上立花の言葉は涙で続かなかった。
少年はそっと立花に林檎を渡すと、杖をついてこちらに歩きだした女性の顔を見て微笑んだ。
彼女も少年の顔を見て微笑んだ。
二人の距離が縮まるまでの間、立花は思った。
(芹澤君、僕の君への質問の答だ。愛は切り裂けないものだ。何故なら愛とは切り裂いてはいけないものなのだから)
やがて近くまで来た二人の影が優しく交わると、少年はそれを見届けてその場所を静かに去って行った。