始まり
時間の波を超えて戻ってきた。大学の入学式の日だ。
そうだったな。こんな感じだったな。曇り空を見て、感慨にふける。
入学式の日は生憎の雨だった。小雨程度の雨ではあるが、入学式にふさわしくない雨だった。当時は、この雨がうっとおしくてたまらなかったが、今は、小雨に濡れるのも心地よい。濡れたアスファルトの匂いをアロマ代わりに吸い込みながら、入学式の会場へ向かう。今なら、雨の匂いのこうすいがあったら、百本は買うだろうな…。
そんな可笑しな妄想をしながら、地面の水を蹴り進む。そのたびにぴちゃぴちゃと音がする。一歩一歩が四分音符を刻んでいる。その音が、アニマートになり、アレグロ・モデラートになり、ついには、プレスティッシモになった。
意識が、後追いで、駆けている自分を見つけた。言葉にできないほどの激情が体の奥から湧き出してくる。体が熱い。雨の寒さも感じない。人がいなかったならどれほど大きな声で叫んでいただろう…。
体や、細胞や、魂が、声にならない声で叫ぶ。
生きている。人生最大の喜びを手にした。ひねくれものは、はじめて心からの喜びを感じた。
そうしているうちに、気が付けば会場についていた。新品のスーツに泥がついてしまったが全く気にならない。たまらく嬉しかった。入学式は予定では、1時間弱だった。学長のスピーチも、応援団のパフォーマンスもただただ、退屈に感じたあの頃とは違い、すべてが愛おしかった。
こうなってくると、1時間はあっという間に過ぎ去っていた。
「君たちの人生は、今この瞬間から始まるのです」
学長のありきたりな言葉が、やけに胸に響いた。そうだ。今からが本当にスタートするんだ。大学生活を全力で楽しもう。くだらない遊びに終始することはない。タバコもやめよう。風俗もいかない。お酒も控えるし、ギャンブルもやめよう。授業にしっかり出て単位も取ろう。バイトは何がいいかな。サークルもしっかりしたところに入ろう。彼女だけを愛することを誓おう。
通いなれた大学ではあるが、何もかもが新鮮だった。期待と不安が充満したこの会場の中の誰よりも、私こそが最も期待に胸を膨らませている…。
根拠はないが、そんな自信に満ち溢れていた。
生協の登録を終え、大学生活に必要な書類一式の入った赤い袋をぶら下げながら、帰路に就いた。春に入学式が始まったのだが、家に着くころにはすっかり夕方になっていた。雨も気が付けば、上がっていた。
家の鍵を開けると、そこには、真っ新な部屋があった。その生活感のなさに酔いしれた。テレビとテーブルとベット、そして、最低限の家具しか置いていない。
本棚にも、本が数冊しかない。そのうちの一つは、大学受験用の英単語帳だった。そういえば、こっちに来る前に大学生の間に英語が話せるようになりたいとか思っていたな。結局勉強せずに4年生になっても、話せるようにはならなかったのだが…。
今回の人生では、その気持ちを汲んでやりたいな…。そんなことを考えながら、30分ほど英語の勉強をした。そのあと、米を炊き、お惣菜を買いに行くために近所のスーパーに向かった。
前回の人生では、入学式の日に食材をやたらに買い込んだのだが、新入生コンパとか、友達付き合いの関係でほとんど自炊をする機会がなく、野菜を大量に腐らせてしまったのだ。
もうさっそく、前回の反省を活かせた。スーパーでは、今日食べる分のお惣菜をと、鯖缶などの缶詰、パスタとパスタソースと、卵と、ミネラルウォーターだけを買った。
小さなことだが、これだけで、大きく飛躍した気持ちになった。この一歩は小さいが…。といった有名な言葉があるが、まさしくそんな気分だった。
この日は、すぐにシャワーに入り、眠ることにした。目覚ましを6時に合わせた。目覚ましを合わせるのなんていつぶりだろう…。次の日が楽しみなのはいつぶりだろう…。
そんなことを考えながら目を閉じたが、自分の鼓動がうるさくて眠れない。眠れなかったので、電気をつけて、部屋中をぼーっと眺めた。7畳一間のユニットバス、家賃は月3万8千円でネット無料。大学徒歩圏内。住み慣れた部屋のはずだが、やけに珍しく、やけにに幸せな場所になったように感じた。
「もう、元の時間に戻りませんように…」
そうつぶやきながら、眠りについた。今夜は、ぐっすり眠れそうだ。
朝目が覚めた。6時に合わせたアラームは鳴ることはなかった。アラームより10分前に起きてしまったからだ。
「朝が楽しみで起きてしまうなんて、遠足前の小学生かよ…」
そうつぶやきながら、ベットから起き上がった。歯磨きをして、顔を洗い、ひげを剃ろうとした頃、ある異変に気付く。
「ひげが生えてない!」
そういえば、そうだった。ひげが生えたのは、3年生になる前くらいだったな…。
そんな小さな変化で本当にタイムリープできたことを実感して安堵した。よく見ると肌つやもいい気がしてきた。本当にたばこって良くないんだな…。
一通りの準備が終わると、今度は、買ってきた総菜の残りを朝食に食べた。そのあと、英語の勉強を1時間ほどしていると、やっと学校の門が開く時間が来た。
「早起きすると一日がながいなぁ」
今日頭に浮かんでくる感想は、幼子がしゃべる言葉のように平易で、単純なものだった。つまり、それだけ、素直な気持ちなのだろう。私のようにひねくれた人間でも、ここまで素直になれるなんて、タイムリープの効力は大したものだ。おそらく、この世界でたった一人のタイムリープを成功させたであろう私は、この上なく、幸せだった。
今日は、教科書販売と身体測定がある日だ…。たしか、教科書販売はお昼時に行くと空いていて、身体測定は16時半から予約しておけば、待ち時間なしで行けるんだったな。
過去を知っているだけで、こんなにも楽に物事がうまくいくのか。そう考えると、口角が勝手に上がってしまう。それを止めるすべは、私にはわからない。
「楽しそうじゃな」
気が付けば、あの老人が目の前にいた。少々、驚いたが、この老人が私に見せてくれた数々の軌跡に比べれば、急に姿を現すくらい不思議ではない。すぐに私は平静を取り戻した。
「ええ、本当に最高の気分です
人生で一番高揚しています。」
自分でも声が弾んでいることがわかった。思えば、あの日、あのビルで自殺を決意しなければ、今のこの状況はなかった。決死の決意は、無駄では、無かったのだ。私の人生もまだまだ捨てたものじゃないな。
「期待で胸がいっぱいじゃろ? 表情が活き活きとしているのう」
「はい! 今から何でもできると思うと楽しくて仕方ないです だって過去を知っているんです
これからに、期待せずにはいられないです ただただ、楽しいです」
そう言った私の顔を嬉しそうに見つめ、そしてすぐに落ち込んだような、悲しんでいるような表情になった。
「だがのう、本当は、その幸せをこの時代に戻る前にも感じることは、十分にできたんじゃぞ
それにな、残酷じゃが、期待は裏切られるんじゃ いいことがあると自分に期待してしまう
その期待で、頭が幸せを感じてしまう その将来に対する希望を浮かべてしまった時点でだめなんじゃ
そうしてしまうと、幸せの借金取りから逃げるすべを無くす 『先に幸せを提供したんやから、借りたもん返してもらおうか』って具合にのう… こいつらの取り立てはきついぞう」
老人の話のトーンが急に変わったので、言葉がでなかった。本当にこの人は、痛いところをつく。そういったことを前の人生で何度経験してきただろうか。以前の私なら、その言葉に酔い、ネガティブな感情に支配されていただろうが、人生で一番の高揚を感じている私にとって、その言葉は馬の耳に念仏だった。高揚が思考を阻害したのだ。
「言っていることはわかりますが、それは、普通の人のはなしですよね? わたしは、これから先4年間の情報をすべて知っています そのうえ、まだ、2つ目の指輪も使っていません たとえ借金をしたとしても大丈夫です だって、借金を完済するのに十分な貯蓄があるのですから… 本当に十分すぎる貯蓄があるのです 成功者は、とことん成功するし、敗北者はどんどん失敗を重ねる
その理由が、十分すぎるほどわかりました だから、わたしは、大丈夫です」
「そうかもしれんのう ただ、お主の貯金は、仮想的な貯金かもしれんぞ 自分自身で手にしたものではないからのう いつの間にか、消えてなくなってしまうものかもしれん それだけは、覚えておいた方がいいぞ」
いったいこの老人は、私をどうしたいのだろうか。一つの疑問が頭に浮かんだ。海で溺れている私を豪華客船にのせ、『タイタニックみたいな大きな船でも沈むんじゃ、この船もどうなるかはわからんぞ』
そう言ってきているようなものだ。だがしかし、私はタイタニックが氷山を避けきれずに沈んだことを知っているのだ。その対処法も知っている。
「大丈夫です 何とでもなります」
その言葉は、覚悟の上から、そして、確固たる自信に根差した言葉であった。
「そうか じゃあもう何も言わんぞ いや、最後に一つだけ
これから起こるすべてを愉しむんじゃぞ」
意味深な言葉を残して、老人は、この場から姿を消した。
教科書の購入を終え、身体測定の会場にいた。記入用紙に諸事情を記入していると、横から声がした。懐かしいような、二度と聞きたくなかったような声だ。
「ペン忘れちまった ちょいと貸してくれ」
顔を見た瞬間すべてが走馬灯のように流れ込んできた。銀色の髪形をしたすっきりとしたツーブロック。刈り上げていない部分には小綺麗にパーマが当てられている。初対面の相手にも敬語を使おうともしないこの不躾さ、だが、人当たりがいいこの男と出会ってしまったのだ。私は、驚きを隠せなずに絶句した。
「何ぼーっとしてんだよ そういう無視する姿勢ホント傷つくからやめてよー! 借りてもいい?」
「どうぞ!」
「あざ! マジサンキュー! あんた学部どこよ? オレは、社会学部なんだ てか、社会学部ってなにすんだろな~ ちなみに、オレ林田 知明っていうんだ!」
「法学部だよ 名前は篠原 敬助」
「法学部かよ!? うちの法学部めっちゃ賢いよな ケイスケすげぇじゃん! これからもよろしくな」
もう下の名前で呼ばれてしまった。だが、この男は、距離を詰めてきても、不快に思われない才能の持ち主なのだ。私もまったく不快にならない。私が、驚いてしまったのには訳がある。私は、この男に酒もたばこも、ギャンブルも、ナンパも、クラブ通いも、風俗遊びも全部教えられたのだ。だが、私がリンダと会うのは、1年の秋だった。たまたま、人材派遣のイベントスタッフのバイトが一緒だったので、そこから交流が始まった。少なくても、この時期に合うはずがない。私は軽いパニックを覚えた。
「そいえば、連絡先聞いていい? 他の学部の同級生とか貴重だしさ」
老人の「お前の貯金は仮想的な貯金」だという言葉。さきほど、聞いた言葉が頭の中に反響している。
結局、その日は、リンダと一緒に学食で夕食をすまし、帰宅した。「こっちに、不慣れだから、街を散策しに行こうぜ」リンダのそんな言葉を、「今日、家でやることがあるんだ また、誘ってくれ」と言って断った。リンダは、そこから深追いはせずに、「わかった! 次は絶対遊ぼうな! それまでに街を把握しとくからさ」そう言いながら、リンダは私に手を振って駆けていった。こういう引き際をわきまえているところも人から好かれる要因なのだと思った。
私は、正直、リンダのことが嫌いではない。むしろかなり好きだったし、彼が提供してくる遊びの数々は、過保護な母と厳しい父の言いつけを守り、まじめに生きてきた私にとっては、悪魔的な魅力があった。
私が、落ちぶれた理由がリンダにあるとは思っていないが、もしやり直せるなら、次は、リンダと仲良くならない人生を歩もうと考えていた私にとって、この早すぎる出会いは、衝撃だったのだ。何かが、崩れる音がする。何かが忍び寄ってきている。
私は、その音と近づいてくる影を無視することで平静を保った。人生をやり直してから、はじめて、素直でない気持ちを感じた。戻りつつあるである。捨てたはずの過去が、呪いの人形のように一歩、また一歩と私に近づいてくるのを感じた。