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夢現草紙

作者: 文愚堂 直純


その日も、今夜のように蒸し暑く、南の空には薄雲のかかる望月がぼんやりと浮かんでいました。わたくしは、庭で犬に餌をやろうと使い古した瀬戸の茶碗に山盛りにして、家の戸を開けました。

 白い毛を月の光りにしっとりとかがやかせながな、尾をしきりに振ってわたくしの来るのを待っておりました。いつものように、その茶碗を大きな石の上にのせておいたのです。

 毎日、喜び勇んで喰い付くのですが、なぜかその日だけはわたくしに尾を振るだけで餌には見向きもしなかったのです。朝から降り続いた雨のせいで、小屋にまるくなっていたので腹もあまりすいていないのだろうと思いわたくしは家の中へ入りました。

 しかし不思議は次の朝起きたのです。わたくしは、今もそのことを思い出す度に、頭の中が真っ白になってしまいます。

 東の窓に朝日が射し、前日の天気とは一転し一面に雲の一片もない青空が広がっていました。わたくしは、水道の生暖かい水で顔を洗うことが好きでないので、冷たく冷えた井戸水を汲むために外に出ました。

 わたくしは、その時我が目を疑いました。

 戸の外に、一人の女が立っていたのです。わたくしとあまりかわらないほどの背丈でしたが、その眼光は青白く、顔はひどく痩せていました。長い黒髪は、はげしく乱れ、身は安宿の浴衣のようなものが細い帯紐でわずかに巻かれているだけでした。

 しかも、その女の胸には細い腕に抱かれた赤ん坊が眠っていました。白い麻のような布に包まれた小さな赤子はわずかに寝息を立てているようにわたくしには感じられましたが、生死の判別をつけることができなかったのがそのときの正しい思いでした。

 わたくしは、まだ自分が夢の中にでもいるのではないかと思い、何度か正気であることを確かめましたが、やはりあの時の出来事は現実であったのだと今になってそう思えるようになりました。そのときは、是が夢であって欲しいとの唯一念が私の前の現実を夢であるかのように無理矢理に自分に言い聞かせていたのです。

 

 その女は、静にわたくしの家の戸の前に立っていました。わたくしには、思い当たる節が確かになかったのです。人違いではないのか、と私は自分の名を名乗って、その女に尋ねました。しかし、そうではない、というような顔をするのです。

 わたくしは、どうすることもできずに、戸をこのまま閉めてしまおうかとも考えました。しかし、その時です。

胸に抱かれて寝むっていたはずの赤子は、目を覚まし、きゃんきゃんと泣くではありませんか。

 人間の赤子の泣き声でないことは、すぐにわたくしにも判断ができました。わたくしは、背筋に冷たい汗が幾筋も流れ落ちるのを感じました。このまま、戸を閉めてもう一度布団の中に入れば、この悪夢から解き放たれるかもしれない、という平凡な思考が既にわたくしの体と行動とを支配していました。

 出る限りの力で戸を勢いよく閉めると、鍵をかけ、わたくしは布団を頭までかけて目を瞑りました。震える体が冷たい汗をしきりに発していました。

 

 真っ暗闇の布団の中で意識の遠退いていくのを覚えています。極度の緊張と疲労とで体がわたくしの意識を奪ってしまったのだろう思います。いつしか、わたくしはまどろんでしまっていたのでしょう。その時の後のことは全く覚えてはいないのです。

 そして、いつもの朝が東の山を越えてやってきました。朝曇の空でした。

 この不思議の出来事が今も夢の中の妄言であるという人もいるのです。確かに、日付はそうなのです。あの満月の夜は17日、そしていつもの朝を迎えたのが18日であることをわたくしは新聞で確かめました。しかし、唯一つ、あの出来事が本当にあったのだとわたくしを確信させることが、その朝に起きていました。

 革の首輪にくくられ、鉄の鎖につながれていた庭の白い犬が首輪だけをそこに残して姿を消していたのです。

 そして、餌を盛った茶碗の横には白い布があったからです。


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