ビッグになる方法
哲学科の森本隆教授は本名山中彩花というオカマである。多くの人が混乱するのだが、生物学的には立派なものが付いている男だ。
彼、いや彼女の研究題目は『ビッグになる方法』。起きている間は四六時中そのことばかり考えている。もちろん下のことではない。人間として『ビッグになる方法』だ。
講義では仕方なさそうに哲学の方法論を説いている。しかし出す課題はいつも一つ、『ビッグになる方法』それだけだ。
学生は一年の間に一本のレポートにまとめて課題に答えなければならない。成績はすべてレポートで決まり、提出できなければ単位はない。
一年間に一本だ。さぞ容易に思えるだろう。だが自称『ビッグ』な教授はそう簡単には受理しない。
レポートは直渡ししか認めず、持っていけば禅の公案のごとき指導が入る。彼女の独特な思想に学生は言う。
「気が狂う」と。
だから彼女の講義を選択する学生は多くはない。しかしマゾヒストの学生は一定数いるものだ。彼女の負の吸引力はブラックホールのようにマゾ学生を虜にする。だが受講してすぐ後悔することになる。気になるなら一度話してみればいい。瞬く間に餌食になり、脳を壊されてしまうだろう。
森本研究室の扉をある男子学生がノックする。今日もまた一人、犠牲者が生まれようとしている。
「入っていいわよ~」
扉から低い声がする。
「失礼します」
無垢で健康的な声とともに学生は研究室の扉を開けた。五十枚の立派なレポートを手に持って。
研究室にはファンシーなピンクの空間が広がっている。壁はパステルピンクの紙が貼られ、床にはピンクのマットが敷いてある。標準的な事務用品メーカーの机や椅子はピンクのカバーがかけられ、黒い縁のパソコンモニターもピンク化が完了している。
「座って」
男子学生は顔をしかめながら、パステルピンクの椅子に座った。奥から純白メイクと濃い口紅をつけた薄ら青ひげの教授が現れる。髪はない。立派な尼僧である。手にしたノートの色は言うまでもない。
男子学生はレポートを出した。教授は表紙を眺める。
「はい、ダメね」
男子学生の胸元にレポートが押し付けられた。男子学生は動揺したまま、教授の手から離れたレポートは音を立てて床に落ちた。
「どうしてですか。まだ表紙しか確認してないじゃないですか」
「表紙にはなんて書いてある?」
「タイトルと名前ですよ」
「チ、チ、チ、チ。ダメ。全くわかってないわね」
教授は赤マジックでタイトルに丸をつけた。
「まず、この文字列『漫画ヒーローの共通点』。はい、ダメ」
「タイトルがまずいんでしょうか」
「タイトル? 中身を読めばわかるものになぜそんなものつけるのよ。あなたのレポートはたった十文字で表現できるゴミみたいな内容なわけ? 全然ビッグじゃないわ」
「普通レポートってタイトル付けませんか?」
「あなた、それは凡人の発想よ。多くの時間と労力を割きながら短い文字列で表現するなんて。自分の書いたものは矮小で一文以上の価値はないと卑下しているのと一緒。そんなことしてたら一生ビッグになれないわよ」
「でもわかりやすいじゃないですか」
「その発想がダメなの。全然ビッグじゃない。ビッグな人間の文章というのはね要約できちゃダメなの。少なくとも書いたものと同じ字数以上の言葉を重ねないと理解できない。そういうものなの。だからタイトルなんていらないし、つけられないはずよ。Do you understand?」
男子学生は何も言わなかった。教授は床に落ちたレポートを拾い、もう一つ赤丸を描いた。
「『井上泰弘』この文字列もダメね」
「ちょっと待って下さいよ、森本先生。これ僕の名前ですよ」
教授の眼差しは白銀に煌めく剣に変わった。
「私は森本じゃないわ」
「は?」
井上は固まった。教授は、じっと井上の目を覗いている。
「では山中先生」
「山中でもないのよ。あと先生などという人間を小さく縛る蔑称はやめなさい」
「じゃあ、なんて呼べばいいのですか?」
教授はため息をついた。
「あなた、私の説明をまったく理解してないようね。例まで挙げたのに。仕方ないわ、今日は佐々木とでも呼びなさい!」
「じゃあ佐々木先生、僕の名前のどこがダメなんですか」
「先生はやめなさい!」
「わかりました、佐々木」
「よろしい。レポートの話に戻りましょう。『井上泰弘』、この文字列はビッグの精神に反しているわね」
「だから、僕の名前です」
「名前があることがそもそもビッグじゃないのよ」
「……なぜ、ですか?」
「あなたの価値はこの四文字しかないの? 四文字であなたのすべてを表現できている、そう思う?」
「いえ……それは……」
「そうでしょ? でもあなたは四文字にまとめてしまっている。それはあなたが卑小な存在だと喧伝しているようなものよ。ビッグじゃない。ビッグの思想に背いている」
「じゃあどうしろと言うのですか?」
「名前なんて捨ててしまいなさい」
「佐々木せん……いや佐々木、それは無茶ですよ」
「どうして無茶なのですか? 名前などなくても、あなたはちゃんとここにいるのよ。汗まみれで髪の毛はボサボサの茶髪ロン毛、半袖半パンで似合わないメガネをかけている。名前なんかよりあなたのことがよくわかる」
「でも、僕を呼ぶときどうすればいいのですか」
「そんなもの、直接話せばいらないでしょ。今あなたが私と話しているように」
「佐々木、やっぱり無茶だと思います。名前がないと人の区別はできないし、日常生活で困りますよ。役所の書類も履歴書も名前書かないといけないですし」
井上がそう言った瞬間、教授はノートを見せつけた。そこには学生の写真が貼られ、出欠の記録が刻まれている。氏名が記されているはずの欄はあるのだが、写真により潰されている。
「役所や会社の人間が名前を書かせるのはビッグの思想を知らないからよ。自分がビッグじゃないから平気で人を矮小化して文字列に押し込むの。そして表面だけ見て内心には迫らない、だって相手がビッグだと信じたくない、信じたら自分たちの世界が壊れるとすら思っているのよ。だから私は彼らのために仕方なく山中彩花という名前を戸籍に使い、一般の人々には森本隆という通称を使い、あなたのような初学者のために佐々木というワンタイムネームを使っているの。たかが数文字の文字列じゃ男か女かの区別もできない、写真の方がまし。私を見ればわかるわよね」
井上は言葉の弾丸を放つ教授の雰囲気に飲み込まれ、圧倒されていた。一言も話さず黙り込み、ただ呆然と教授のご尊顔とピンクの部屋を見るだけ。
「いい? あなたはビッグになるの。ビッグな人間なら短い文字列は必要ない。円周率πのように何百万桁使っても表現できず、かつπと違って定義困難な人間にならないとダメなの。わかる?」
「ええ、はい……」
「あなたは今、私の前にある存在によってのみ定義されなければならない。それがビッグへの第一歩よ。そしてビッグの哲学を追求し、思考を深めることで何京冊の広辞苑でも表現できず、全地球のメモリにも収まることのないビッグな人間になるの」
「はい……」
「戸惑うことも無理ないわ。だってあなたはまだ私と違ってビッグじゃないから。私の思想を実感できないし、なかなか追いつけないのはよくわかる。ふふっ♪」
「……」
「でも大丈夫、あなたもビッグになれる。いやビッグにしてみせるわ。いまあなたが取り組んでいる課題をクリアできれば、いつか間違いなくビッグになれるわよ。うふっ♪」
「……」
「レポートは何度でも受け付けてあげる。ダメだったらこうやって何度も話をするわ。だってあなたをビッグにしたいから。たとえ五分後にあなたがやってきたとしても、今と同等以上の指導をしてあげる。うふふっ♪」
「……」
「もうどうすればいいのかわかったわよね。さぁ、直しなさい。もう一度持ってきなさい。あなたがビッグになるためなら、私は何度でも受け止めてあげるわ。うふふっ、ふふっ、うふふふふっ♪」
教授は赤丸が二つ描かれたレポートを井上に差し出した。井上はそれを奪い取ると、猛ダッシュで研究室を後にした。
その日から森本研究室では閑古鳥が鳴いている。