喫茶店の午後
翌日からは毎日、午後一時に老人は喫茶店のドアのカランコロンと鳴らした。どうやら、少し根を詰めて資本論を読みたい箇所に差し掛かっているようだった。店主と言えば、もう資本論を諦めていて、小5になる娘と、嵐の番組を見て、そしてビールを一缶飲む日もあれば、お茶を飲みがら、妻の作る糠漬けを食べたりして過ごした。そしてそれは毎日、思う。あのご老人のことを。本州の最果て。その地名を以前は確かに覚えていたのだが、今はどうも思い出せない。それっていうのは老化だろう。その本州の最果て。その崖にご老人は一人で立っているように思える。連れに伴う犬一匹すらいない。一人だ。そして渦を巻く海を見るが、その風でテンガローハットは飛ばされることもない。
妻は台風が来るたびにおびえる。屋根の瓦が風で飛んでいって、ご近所の方に迷惑をかけてしまったらどうしようという内容のおびえだ。そういうあまり現実的ではないけれど、確かに低い確率だがありえるっていうおびえや悩みを妻はいつしか抱えるようになった。けれど店主はそこにごまかしがあるのを知っている。それは俺が投機家を辞めてから始まったことだ。そして経営も趣味的に過ぎる喫茶店を開いてからだ。
店主もそれは理解できていた。経済の精神に与える影響はかなり大きいものだ。
「明日帰りは少し遅くなるよ」
「どうして?」
「うん、残業があるんだ。メニューをね、一品追加しようと思ってね」
「それ、あなた一人でやる気なの? そんなの無理よね」
「うん、テプラでメニューと値段を今あるメニューに張り付けるだけなんだけど、多分一人じゃ無理だと思う。だから残業も頼もうと思ってね」
「そう、大変なのね。ご苦労様。営業の方はうまくいってるの?」
「今は本当に順調で、外で人が待っているときもあるくらいなんだ」
俺自身五〇を過ぎているが、妻だって過ぎている。だんだんそういう年齢になってきて、将来の見え方はうちの娘とも違うだろうし、大学生とも違うだろうし、新入社員とも違うだろうし、役職についている奴とだって違うだろう。けれどその俺たちの今の将来の見え方っていうのは、「ただ続いていく」という感覚とともに「将来には少しのお金の自由も利いて、たまにはデパ地下のスイーツも買えて、みじめな生活はしたくない」と、まあ、そんなところなんだろう。
「もう、寝ましょうよ」
妻が言う。妻はどうしても俺と一緒のタイミングで寝たがる。いつも「今日は話があるから」と言うのだが、話しがあることなどまれだ。娘と娘のPTAの話くらいだ。または、今日こんな服を買ってみたとか。
俺は歯磨きをした。妻は先に寝室に入り、多分マッサージでも行っている最中だろう。俺が寝室へ入ると寝室の電気はまだつけられたまま、ほら、となにやら言っている。
「気がつかない?」
「なんだ? 何もわからないけど。なにか変わったのか」
「ああ、気づかないのかああ。わたしね、今日スノービューティーを買ったの。ほら寝る前ってクリームやらなんやらで顔がべたべたになるでしょう? そのべたべたを解消する、寝るときもつけてOKなお粉を買ったのよ。それってね、まあわたしには関係ないけどさ、接近戦がある日の女子の強い味方っていうわけ。それがスノービューティー」
案の定、妻は先に寝息をたてはじめた。電気もつけたままだ。俺は枕もとのリモコンで、電気を消し、考えた。やっぱりダブルベッドでよかったんだよな。この新居を構えたのは娘が生まれるとき、俺がまだ投機家をやっていたころだったが、俺はその時に買うベッドをクイーンサイズにしようと主張した。すると妻は
「どうして? どうして、どうして、どうしてなの?」
と言ってそのとき、その妻を「鬱陶しい」と感じた。そう感じるのは、付き合っているときも、結婚して新婚さんだった時もあったことだ。そう、鬱陶しい。それで俺は折れ、鬱陶しさに付き合うのが面倒で、仕方なくダブルベッドに妥協した。そして今はそれで十分だって思っている。二人とも太ってはいない。ダブルベッドでもそう身体は触れ合わない。でも横に「いる」という確かさは感じられる。自分の心はだませないという言葉があるが、俺は十分に、日々、毎日毎日、一刻一刻と自分をだましているっていう自覚がある。
朝八時に起きた。テーブルの上にグラスとクロワッサンとウインナーが置いてある。妻が二階からリズムよく降りてきて、あら、起きたんだ、と言いながらピカピカの笑顔を見せる。このグラスは牛乳用? そう尋ねると
「まあ、そうしたければそうしてもいいけどね、野菜とフルーツのジュース作ったから」
「そうか、じゃあ、それを飲もうかな」
「ヨーグルトも入っているから飲みやすいはず」
そう言ってドロドロしたオレンジ色の液体をグラスに注いでいく。俺は飲んでみて、案外悪くないなと思う。その瞬間スイッチでも入ったように、大声で
「止めてくれないか」
と叫んでしまった。
「え?」
「止めてくれないか」
妻の顔にはまだ笑顔が張り付いたままだ。それをマイナーチェンジする器量さえ持っていないらしい。
「何を?」
「いや、すまない。違うんだ。ただ夕べ怖い夢を見てね。本物の悪夢だった」
「差支えのない内容だったらその悪夢の中実を教えて」
「いや、我慢できそうにないほどしょんべんがしたいのに、トイレの中は汚くて、裸足で入るしかないっていう内容の夢」
「本当に悪夢だわ」
「そうだろう」
俺は立ち上がって、寝室に戻り、水色のカッターシャツと、黒いクロップドパンツをベッドに投げ出してから、靴下を履き、そして着替えてパジャマを畳み、それもベッドの上に置き、鏡を見ながらネイビーのネクタイをしめ、薄いカーテンさえ開けて、外を眺めながら、タバコを吸った。もちろん妻だって知っているが、俺はコンビニで買うたびに、タバコの銘柄を買える。メビウスが基本だが、セブンスターだって、クールだってケントだってキャメルだって吸う。自分でもどうしてなのかわからない。なるべくメビウスを買おうと思っている。けれどコンビニの店員に向かって言うのは、ふいに口に出るのはキャビンマイルドだったりする。自分でもどうしてだかわからないのだ。ただ、その「キャビンマイルドを」と店員に向かって言う時の気持ちっていうのは
「どこかに突破口を!」
という叫びにも似た気持ちだ。俺だって何もタバコの銘柄を買えるくらいで突破口なんてやつが、見えてくるなんて期待してはいない。けれどレジの前に立つと劇列な叫びが、メビウスではないタバコの銘柄を口にさせる。
俺が家を出ようとすると、妻が
「気を付けてね。でもなるべく早く帰ってね。でも気を付けてね」
と言う。
「ああ、」
と言いながら靴を履く。
「今日の残業代は、ウエイトレスさんたちにはいくら払うの?」
「うん、プライベートもある若い子らに残業を頼むわけだから時給で一二〇〇円くらいって思ってるんだけどね」
「一一〇〇円でもいいんじゃないかしら」
「え?」
「気を付けてね。でもなるべく早く帰ってね。でも気を付けてね」
「うん。もちろんなるべく早く帰るよ」
俺は車に乗り、昨夜想ったことを考えていた。妻に付き合うのが面倒くさいと思ったことだ。ご老人の話によると、それは「0」に向かっていくらしい。これから日常にいくらでも「止めてくれないか」はさしはさまれるのだろうか? それなのにお互いをパートナーと思い、死ぬまで付き合っていくのだろうか? 俺は農民じゃない。古臭い宗教にも入っていない。右翼でない。婚姻制度。これは気づいたときには手遅れの、沼のようなものなんじゃないか。 なにか固いものを固いもので叩きたい。そんな衝動が湧いたが、そんなことをできるわけがない。
まだウエイトレスたちがくる時間じゃない。俺は一人で床を掃除したり、布巾を固く絞って、椅子やテーブルを拭いて回った。そうしているうちにウエイトレスたちは集まりだし、みな口々に「おはようございます」と言ってからロッカールームに入っていく。着替えたウエイトレスたちは、おのおの自主的にやるべきことを探し、里奈ちゃんはケーキのショーケースを拭いているし、由香ちゃんは、外から窓を拭いている。
最近はご老人は毎日一時に来店される。どうやら熱を帯びて資本論を読んでいるみたいだ。そして三時からは「占い師」として活躍をする。
今日も一時に来て、熱心に右手の人差し指で活字を追いながら、老眼鏡を何度も直している。店主はチラチラと老人のめくる資本論のページを追っていた。大分最後の方に差し掛かっているようだ。もしかしたら今日中に読み終えてしまうんじゃないか? 店主はそう思った。その想像は店主をなぜか不安にさせた。
三時になった。いつものように老人は、読み止しの資本論にセキセイインコのしおりを挟み、もうくちゃくちゃになってしまった「朝日屋書店」と書かれた茶色い紙袋にしまって、床に置き、「占い師」を頼る人と談笑し、時に真剣な顔をし、そして悲しい話だ、といっても「大丈夫です」とか「あなたはすでに許されていますよ」などと、答えている。多分、と、そう店主は思うのだ。占いを頼る人というのはおそらく、話しを聞いてほしい人だっていうことを。その点で何も「客」の話の中に、何も口を挟まず、ただ真剣に聞き、そして最後に短い言葉を言うその老人は、プロフェッショナルな占い師よりも、ある点では卓越していた。だからそれぞれの客はそれぞれであっても、自分の番をタバコを吸ったり、あるいは煙を嫌がったりしながら、待っているのだろう。
その日の六時、大きなバラの花束を持ち上げるようにして、必死で支え、片手でドアを開ける女性の客がいた。由香ちゃんは急いで、そのドアを開けるのを手伝い、ドアのカランコロンという音にかぶせるように、「いらっしゃいませ」と言ったが、由香ちゃんは心の内で反省会を開いていた。やはりお客様に至近距離でいるときに、真上でカランコロンと鳴る音にかぶせるように「いらっしゃいませ」と言うのは少し違うんじゃないかって。
老人は一時に注文し、とっくに食べ終わっているモンブランの中の、大きくて甘い栗を、今咀嚼している最中で、老人はやっぱり上の方、電灯の方に向かって顔を上げ嬉しそうに笑顔を見せていた。
そこにためらいもせず、花束を持った女性は近づいていって、何も言うことなく、老人の前の席に座った。老人は目をパチパチさせてその女性を見て、
「ああ、あの時の」
と女性が何者であるかに気づいたらしかった。けれど老人が気づいても、店主も由香ちゃんもその女性が誰なのか見当がつかなかった。
「その後、恋は楽しんでいますか?」
女性は
「覚えていて下さったんですね」
と言って笑った。
「すみません、あの、アイスロイヤルミルクティーと、モンブラン、お願いします」
由香ちゃんが若い女性のテーブル、つまりご老人のテーブルに、アイスロイヤルミルクティーとモンブランを運んだ。由香ちゃんは怪訝に思った。老人と話したことがあるらしいその若い女性を、由香ちゃんは思い当たらないのだ。そしてそっと席から離れ、ケーキのショーケースから二人を見ていた。
「わたしのこと、あなたはわからないだろうって思っていました。あの日、三年の片思いを終わらせて、受付嬢をやめました。そして花の免許をとって、そうなんです。わたし幼稚園の時も、小学校の時も、中学の時も、卒業文集なんかにそう書いていたんです。大きくなったら花屋になりたい。わたしはあの日シングルベッドの上で、『終わったんだ、もう終わったんだ』ってずっと考えていました。そしたら私は本当に受付嬢になりたかったのか、よくわからなくなってきて、それはただ単に彼の持つものが高級なブランド品みたいな存在であろうと、そう考えてただけだってやっと気がついて、受付嬢を止めて、そう今はデパートで、花を飾る仕事をしてます。スカートを履くのは休日くらい。あとはこんなグレーのスキニーとか、Tシャツを着てます。靴もパンプスを履くことが減って、コンバースとかナイキとか、アディダスばかり。エンジニアブーツも履くこともあります。もしかしたらわたしはもともとこういう格好が好きだったのかもしれません。そして髪も短く切りました。まるで男の子みたいでしょう? ふふ。シャンプーも楽なの」
そしてその若い女性はアイスコーヒーにガムシロとミルクをたっぷり入れて、ストローで飲み、
「今の彼は商社には勤めていなくって、家々を回り、エアコンを設置する仕事をしている人なの。その人に優しくできているかなんてわたしにもわからない。今だにわからないままなんです。ただ、なんて表現したらいいのかわからないけど、彼にピンチが訪れたら、北極の海にだって飛び込むし、燃え盛る火の中にも入っていける。そんな風に思うんです。そしていつも強く思うんです。彼を、絶対に彼を、守ろうって」
「素敵な恋をしているね」
その若い女性を店長も由香ちゃんも思い出した。確か去年くらい、黒いレースが真ん中に施された七分袖のカーディガンを着て、ひらひらしたスカートを履き、つま先がとがったパンプスを履いて、失恋、しかも三年前に終わっている恋の失恋について、ご老人に占ってもらった女性だ。あまりにも様変わりしてわからなかったが、あのときより今の方が、なぜか輝いて見える。そして女性は、
「わたしいつも仕事でも失敗ばかり。今回も失敗してしまったみたい。おじいさん、杖を突いて、この大きな色とりどりのバラだけの花束を持てないわよね。もしよければ、わたしがおじいさんのお家までお付き合いして運んでもいいかしら?」
その女性の提案に老人は
「それはありがたい。家内はね、生前よく、寝室に花を飾っていてね。そんな立派な花束は初めてだから、亡くなった家内だって喜ぶと思うんだ。是非寝室に飾らせてほしい」
店主と由香ちゃんは、おのおの、その老人の言葉に心がチクッとした。俺の方が、またはわたしの方が、老人とのお付き合いは長い。家まで訪問するなんて………。そしてまたそういう気持ちを老人に見抜かれてはいけない、なんだか恥ずかしいこと、そう思って、気持ちを切り替える。
そして老人とその若い女性は、談笑しながらケーキを食べ、アイスコーヒーを飲み、そして会計に立った。
そして老人は、今日は遅刻だなとひとりごちて笑ってみせた。
「遅刻、ですか?」
店主は言う。由香ちゃんも
「なにかお約束でも?」
と尋ねる。
「いや、違うんだ。俺の家内っていうのは生きていた頃、『あなた、わたしは六時半にご飯を作ってますから、あったかいうちに一緒に食べましょう。だから六時半には帰ってきてくださいね』としつこいほど言われていてね。それで今だになんとなく、家に六時半までには帰ろうって思ってしまうんだ。だから今日は遅刻っていうわけで」
いつも六時にご老人はお帰りになるという謎というほどでもないが、小さなつつましい謎はこのとき店主と由香ちゃんの胸になるほどと思わせた。
会計をしながら、老人の隣には、髪の短い、それでいてとても女性らしい、美しく若い、そんな女性が手に余るほどの大きさの花束を抱え、おのおの会計を済ませると、突然老人は
「今まで特にお礼を言った覚えもないけれど、あの席を俺はたいそう気に入っている。いつもあの席に案内してくれる由香ちゃん、本当にありがとう」
店主の隣に並んでいた由香ちゃんは頬を染めて、
「ムッシュ、大変光栄なお言葉です」
と答え、
「またいらしてください」
と店主も由香ちゃんも一緒に言った。
その後には残業が待っていた。ウエイトレスの内三人が残業できると言って、残ってくれた。けれどただ単にメニューの一番下に、
「カルピスソーダ 四〇〇円」
と書かれたテプラをきれいに貼っていくだけの作業だったから、店主はじめウエイトレスたちも親しいおしゃべりをしながら、その作業を進めた。
由香ちゃんが切り出す。
「わたし、あのご老人をとても凍てついていて、固くて大きな塊っていう風に感じてたんだけど、私最近こう思うの。あのご老人は筑波山なんじゃないかって。違うの。杖に白い字で『筑波山』って書いてあるからじゃない。なんていうか、登る人には笑顔で迎えて、登りやすい。そう登っていく人たちにとっても優しいの。でもね、あの筑波山は、いつまでもあのままでいる。必ずそこに存在する。決して動かなくてとても大きい。四季の移ろいにいつでも耐える。泣きごとをいうこともそうはない。というかない。そんなね、筑波山に見える。富士山でもなくって」
「わかる」
「そうね、筑波山」
「なるほど筑波山ねえ」
そう言って最後のテプラを貼り終えた店主も伸びをして、それからあくびをした。