喫茶店の午後
だいたい老人は三時ごろ来店したが、たまに一時に来店することもあった。そんな時は決まって、三時までの二時間、資本論を読み進めたいと思っているときだと、店主も由香ちゃんも知っていたから、おのおののカップやグラスを持って、老人に近づく客がいると、
「営業は三時からです」
と言って、その「客たち」を待たせた。「客たち」は、それを聞くと「ああ、そうなんですね」と言って、たいてい自分の席に戻るのは、店主の読みによれば、あのご老人に嫌われるのが誰しも嫌なのだろう。それもこれから話を聞いてもらい、占ってもらうのだからというものだった。
そして店主にも由香ちゃんにも、もしかしたら他のウエイトレスたちにも、なんだかおかしく聞こえた「営業は三時からです」というセリフにいつしか誰もが馴染んだ。それを不思議な言葉と、初めは、特に店主と由香ちゃんは、自分たちが発しておいて、それでも思っていたのに、それを不思議とも、おかしな言葉とも思わなくなっていたし、それらが数回起きる店内の午後に陽がさす、電灯の下の席に座っている老人は、真剣に資本論を開き、人差し指で字を追いながら、二時間たっぷりとその資本論を堪能した。
そして「客」は三時になると、カップかグラスを持って、その老人の席の横に立ち、
「座ってもよろしいですか?」
と尋ねる。老人は赤い顔をして
「もちろんです」
と言ってにっこりと笑う。そして「客」は自分の持つ、自分の中に入ってしまって、まるで内蔵の一部になってしまったような、それを外科手術するブラックジャックを待っていたかのような、そんな姿になり果てていたから、その老人の発する「もちろんです」という言葉に、「今、このご老人はわたしのことを水に流してくれた」と言ったような気持ちになって、安堵してその席に座るのだ。
あるとき中年の男性がカランコロンと音を鳴らせながら、喫茶店に入って来た。当然、店主だって由香ちゃんだって、他のウエイトレスたちだって口々に
「いらっしゃいませ」
と言ったのだが、一直線に店主の前に進むと、
「ここに占い師がいると聞いてきたのだが」
と肩を上下に揺らしながら言う。息も少し乱れている。
「占い師、と呼んでいいのかわかりませんが、そのご老人なら三時にはいらっしゃると思いますよ」
「いくらだ?」
「そうですね。そのご老人は謝礼など受け取らないようですが、たいていの方が、そのご老人の飲み物をオーダーされますね」
「飲み物代くらいで占うのか? 本当にそれは当たる占い師なのか?」
「先ほども申し上げた通り、当店の人間でさえ、そのご老人を『占い師』と呼んでいいのかわからないのです。けれど、そのご老人は、話しを聞き、許してくれます」
それは七月の土曜日の午後だった。一時半くらいだ。大学が休みの里奈ちゃんも今日は働いていて、里奈ちゃんはわきに紺色のメニューをはさみ、その中年の男性を、大きな丸太の支柱がある、何重にも年輪が刻まれた木を輪切りにした、側面がごつごつしているテーブルに案内した。
「ここはタバコを吸ってもいいのかな?」
「もちろんです。お客様」
そう言って灰皿を指し示し、里奈ちゃんはメニューを渡した。里奈ちゃんが
「ご注文がお決まりの頃に………」
と言おうとしたその瞬間に、
「行かないでくれ。もう決まったから。つまりモンブランとレアチーズケーキ、そしてアイスコーヒーだ。
「かしこまりました」
そう里奈ちゃんが言って、メニューを下げるのも、なんだか急かすような態度を示す。そして、この喫茶店はタバコをゆっくりと吸うことができ、BGMの音量も小さい、そんな喫茶店であったから、本や雑誌を持ってくる人が多かったが、その中年の男性は、持っていないらしく、ケーキや飲み物が運ばれてくるのが待ち遠しいらしかった。けれどその男性はかかとでリズムを取るとか、指でテーブルをトントン鳴らすとか、貧乏ゆすりをするとか、そういった態度でそれを表現しているわけではなかった。ただその中年の男性は、厨房を背にしたケーキなどのショーケースがあるウエイトレスたちが立ち働く、その方をじっと見ていたからなのだ。痩せている男性が午後一時半に息せき切ってやってきて、ケーキを二つ注文する。店主は腰に巻いた白いカフェエプロンを取り、ウエイトレスたちに、
「俺はちょっと出てくる」
と言うと、F1が煙になるみたいに出ていった。もちろんその時にだって、ドアはカランコロンと鳴ったのだ。そしてすぐに店主はまたドアをカランコロンと鳴らせ、戻ってくると、その手には小さな白いビニール袋が握られていた。そして急いでまた白いカフェエプロンを巻いたかと思うと、その白いビニール袋をトレーの上に乗せ、その中年の男性のそばに行き、
「失礼いたします。お客様。わたしの見当違いでなければ、お客様はまだお昼を召しあっていないのではないかと思いまして」
店主がそう言うと、中年の男は長い間、店主をじっと見て、
「確かにその通りだが」
「やはり。お嫌いでなければこちらでもお召し上がりください」
袋を受け取った中年の男が、その袋の中を覗き込むようにすると、中には、紅しゃけのおにぎり、いなり寿司、納豆巻き、ツナと卵のサンドウィッチが入っていた。男はその袋の中身を把握しただろうと思うのに、いつまでもその袋の中を覗き込んでいて、そのまま
「ありがとう。いただくよ。必ず全部食べる」
と答えたのみだった。そしてしばらく支柱の木のこぶをなでていたかと思うと、猛然とそれらを食べ始めた。
中年の男は、お腹は満たされても、やはりその中年男性の言うところの「占い師」が待ち遠しいようだった。果たして三時、その老人は、喫茶店のドアをカランコロンと鳴らし、やってきた。
最近は暑すぎる。七月だからっていくら何でも。店主はそう思いながら老人を見た。あのご老人だってやはり暑いのだ。老人はその日、黒い半袖のTシャツを着ていた。ピンクとパープルとイエローの蛍光色が、Tシャツに斜めに描かれている。けれどその上から足元まで届きそうな、綿の薄いベージュのカーディガンを羽織っている。
店主はこの老人を見るたびに思う。このご老人、初めはわからなかったが、なんてテンガローハットがお似合いになるんだろう。このご老人がテンガローハットをかぶっていなかったら、俺はきっと妙な気分に陥るだろう。そうだ、最初にこのご老人がテンガローハットをかぶって来店なさったとき、俺や他のウエイトレスたちはどう思ったのだっけ? だれもそのテンガローハットを気にするものはいなかったっていう気がする。俺の勘違いでなければ。そんな風にテンガローハットが馴染むご老人は、初めからそういう生まれなのだろう。生まれ。店主は生まれっていうことにいつも関心を寄せる癖があった。それは「いい家の生まれ」とか「孤児院育ち」とか「貧しい生まれ」とかそういうものとは少し違って、ああ、こういう風に生まれたから、こういう風になったんだなあっていう、小学校の時にやった、カブトムシが卵を産み、それが芋虫となり、そして蛹となってそれを食い破ってカブトムシが生まれる。それとかなり似た感慨だった。「0」の並んだ紙切れを見て、目を悪くしてこの店を始めたつもりの店主だったが、店主には何事にも目ざとく気づくという特技と、観察の趣味、それらが店主に内包されていて、店主にも意識されないそんな小さな芽の発芽がいつの間にか大きく育ち、この店を開かせたのかもしれない。
その老人の座る席は、一番最初から今に至るまで、変わることもないのに、由香ちゃんは律儀に
「いらっしゃいませ」
と言って、紺色のメニューを脇に挟み、いつもの席へと老人を案内し、また
「お待ちしていました」
と言った。由香ちゃんはその言葉を言うことに、ためらいや羞恥心など感じることがなくなっていた。いつもの通り。由香ちゃんにもそう思えたが、おそらく老人だってそう思っていただろう。流れるBGMをことさらに意識するわけでもないように。
「モンブラン、それと、」
最近になっては珍しく、飲み物に少し迷い、
「なにか、炭酸の入った飲み物っていうのは………」
と言うので
「コーラとカルピスソーダならございますが」
と由香ちゃんは答えると、老人はにっこり笑って、
「じゃあ、カルピスソーダを」
と注文した。
実はコーラもカルピスソーダも由香ちゃんの私物だった。三時休憩の時に飲もうと近所のカスミストアで買ってきて、それを店の冷蔵庫で冷やしていたのだ。由香ちゃんの胸に暗雲が浮かんだ。カルピスソーダ、冷えてるかしら? 十分に冷えてなかったら、氷があっという間に解けて、カルピスソーダが薄くなってしまうんじゃんないかしら?
けれどステンレスでできた業務用の冷蔵庫を開け、カルピスソーダに触ってみた由香ちゃんは安堵した。由香ちゃんの心配は杞憂に終わり、ステンレス製の業務用冷蔵庫の実力を改めて由香ちゃんに思い知らさせただけだった。由香ちゃんは思わず、題名はわからない、「ぶん ぶん ぶん ハチが飛ぶ」
という歌を歌ってしまって、これは店主に小言を言われた。そして店主は小言ついでに、その白い飲み物は? と由香ちゃんに尋ねるので、あのご老人が、炭酸の入ったものをとご注文なと言って訳を話した。すると店主は「なるほど」と言って顎に手をやった。店主が顎に手をやると、しばらく黙って考え込むのは、ウエイトレスたち全員が知っていることだったので、由香ちゃんもそれをやり過ごし、老人の席にモンブランとカルピスソーダの入ったグラスをトレーに乗せて運んだ。
「お待たせいたしました」
由香ちゃんはモンブランとカルピスソーダをテーブルに置く。「朝日屋書店」の紙袋は今日も持ってはいたが、老人は資本論を読もうとはしていない。テーブルの上に広げていないのだ。そしてモンブランとカルピスソーダをトレーからテーブルの上に置いたというのに、由香ちゃんは大きめのトレーを胸にしっかり抱きしめながら、モンブランをじっと見ていた。由香ちゃん自身、自分が今何をやっているのか、どうしたいのかわからないようだった。老人は
「由香ちゃん?」
と尋ねた。由香ちゃんは慌てて、わたしなにやってるんだろう、という気持ちの去来に、少しひるんだ調子で、急ぐように
「ごゆっくり」
と言って、白い靴下と黒い靴を履いた足の踵を返し、急いでケーキが並ぶカウンターに戻って、そこにしゃがみ込み、きっと栗だわ、と思い返していた。すると今まで顎に手をやっていた店主は、由香ちゃんがしゃがみ込んでいることにも、なぜしゃがみ込んでいるのかも、どうでもいいといったように、
「炭酸を置くとしたら」
と口火を切り、そこにきっとした表情で由香ちゃんも立ち上がり、
「そうですね」
と相槌を打ち
「カルピスソーダ? 三ツ矢サイダー? コーラ?」
と単純に問いを並べてみせて、由香ちゃんは
「きっとカルピスソーダがいいってわたし思います」
と答えた。
それをその太い丸太の年輪の浮かぶテーブルの席から眺めていた中年の男は、夏の温い水道水ではなく、真冬の水道水に頭を突っ込んだような気分で少し遠目から、その老人を眺めていた。老人は温くなかった。猛暑とテレビが言う日が続いているが、そのご老人は表情は優しいのに、とても凍てついた様子に見えるのだ。
「ご老人」
と少し離れている席なのに、思わずその中年の男は叫んでしまった。そういえば俺も若い頃にはライブハウスなんてのにも行ったものだったな。たいていが男性のバンドだった。アイドルとかアイドルグループに特に興味はなかった。好きな女性タレントは? っていう質問も苦手な方だった。うろたえてしまう、答えが自分の中にないからだ。でもいつしか、好きな女性は? と聞かれるとうろたえる代わりに、髪をくしゃっとかいて、照れ笑いならできるようになった。今の妻に恋心を持つようになってからだ。
「おいでください」
老人は微笑んでケーキのフォークをケーキ皿に慎重に置いてから言った。中年の男は体育会系であった過去などないのに、まるでそんなノリで、
「ありがとうございます!」
と大きな声で言って、頭を下げると、アイスコーヒーのグラスを持って老人の席まで向かったが、途中でストローを落としてしまった。里奈ちゃんは急いでそのストローを回収し、由香ちゃんは急いで新しいストローをその男性の元へ運ぶという、美しき連係プレーを見せた。
その中年の男性は由香ちゃんに「ありがとう」とせわしく言ったのち、椅子に座りなおして、老人の方へ正面切って向き、
「あなたは占い師なのですか? それとも占い師ではないのですか?」
と聞いた。
「俺のことを占い師と呼ぶ人がいることは知っているのですが、俺は占い師ではありません」
「そうですか」
男性は少し落胆したように見えた。店主は心配そうにその男の表情を見ようとしている。
「僕の妻の話なんです。妻とは大学の時に知り合いました。妻は芸大で絵を描いていました。俺は私立の大学の商学部で、なんていうか、絵を描くとか、そういう芸術っていうものが今だにわからないんです。妻と結婚し、様々な芸術に触れてもね。昨年、箱根に妻と二人に行きました。ああ、そうです。僕たちには子供はいません。どうでもよかったっていうと変かもしれないですけど、自然に任せていたら、できませんでした。そうする努力も特にはしませんでした。そういう二人だけの生活を今も送っています。箱根では妻の希望で美術館を回りました。妻は真剣に銅像や絵画を見ていましたが、先ほども言ったように僕にはそういうことがわからないから、あくびばかり出て困りました。というのも妻は二人で芸術に触れているとき、僕があくびをすると大変怒るのです。だから箱根の美術館巡りっていうのは、僕にとって難行苦行で、あくびを噛み殺し、あくびをするとしても妻に隠れてっていう風だったんですが、その日のメインのピカソの絵を見たとき、俺は我慢できずに、それでも妻には隠したつもりで、大きなあくびをしてしまったら、妻はとうとう『あなた、さっきからあくびばっかり。隠しても無駄よ』と言って、怒りだすのかと思ったら、大笑いしたんです。そういう芸術なんて難しいことを理解することができて、それでいて難しい顔をしているわけでもない、笑顔のかわいらしい、美しく優しい妻なんです」
そこまで話すと、その中年の男性は、ふと我に返ったように、照れ笑いをして、小さな声で、ま、言い過ぎなのかもしれないですけど、と挟んで次の言葉を話し出した。
「今年の春です。妻は虫歯ってわけでもないらしいのに、右の奥歯が痛いの、と言って歯医者に行きました。どうやら親知らずが他の歯にあたって出てこれなかったそうで、その親知らずが痛かったらしいのです。そしてその日切開して親知らずを抜いて帰ってきました。妻は朝、洗濯物を干したのですが、帰ったころには雲行きが怪しかったそうです。それで、季節も春で、その日はいい陽気で、洗濯物もからっと乾いていたっていうことで、そのベランダに干した洗濯物を寝室に取り込んで、けれどその親知らずを抜いた痛みから、鎮痛剤は飲んだのらしいのですが、やはり痛むらしく、その洗濯物を畳まずにベッドに横になっていました」
そしてその男性は少し沈鬱な表情になり、アイスコーヒーを一口飲んで口内を湿らせ、
「その日からなんです。妻は変わってしまいました。洗濯はするんです。そして干さなくなりました。仕方がないので、家は全自動の乾燥機のついていない洗濯機を使っていたのですが、僕は急いでノジマへドラム式の最新の洗濯機を買いに行きました。すると妻はその洗濯機で乾燥までさせるようにしましたが、電気代が跳ね上がりました。そして洗濯物を畳もうとしません。陽気にこんな風に言うのです。畳んだってどうせ着るものね。畳むのなんて面倒くさいわ。そう笑って言うのです。そうかと思うと、僕が早く帰れた日に、洗濯物をかごに入れ、寝室で畳んでいたら、わめくように怒鳴るのです。『電気代が高いのもわたしのせい。あなたが洗濯物を畳むのもわたしのせい。ならなら、止めてよ! そういう白々しいこと!』っていう風に。俺は正直、怒鳴り返そうかと思ったんです。でもやめた。妻のその姿に気がついたからです。妻は昔、アトリエで着ていた服を着ていたんです。それらを日常着にすることなんて、今までの彼女にはあり得ないことだった。それらは絵画に使うなんて言うんでしょう、そういう絵具みたいなもの、そういうものがいくらでもついていいようにと用意されていた服だったんです。細かく言いますと、スヌーピーの偽物らしき絵が描かれたトレーナーと半分パジャマみたいな土色のこれもスウェットのずるずるしたズボン。妻は毎日朝、メイクをしていたのに、その時はすっぴんでしたし、髪の分け目には三センチほど白髪が目立つ。そして思い返してみると、妻は夜寝る前に化粧水とかクリームとか、そう、男にはそうはよくわからないものですよね、そういうものを塗っている姿もマッサージを行う姿も、もうずっと見ていないことに、遠い舞台のアーティストを双眼鏡で見てみたら、いきなり弦を引く手まで見えてびっくりするみたいに、俺は一瞬で様々なことに気づいてびっくりしたんです。メイクは落とさなければならないから止めたそうです。お手入れは年をとるのはしょうがないことと止めたそうです。髪はいっそ白髪になってもいいそうです。なんでもいいそうです。服は洗うものを最小限にするためだそうです。部屋は散らかっていて、ゴミの日が来てもゴミだって出さない。どうしてかはわからないんですけど、部屋には二匹のハエが飛んでいます。絵を描くのも止めたそうです。面倒くさいからだそうです。なにが面倒くさいって、筆を洗うのが面倒くさいんだそうです。しょうがないんだそうです。とにかく、とにかく、なんでもいいのに何かをするのは、面倒くさくてしょうがない。それにつきるそうなんです。なにをしてもどうせ、面倒くさい。面倒くさい。面倒くさい。そう言うんです」
「君、それは大変な悲劇だ」
老人は初めて目をぎょろつかせた。
「悲しい。それは。大変悲しい。悲劇だ。あまりにも悲劇だ」
店主には、老人が珍しく興奮しているように見えた。
「つまりは奥さんは『面倒くさい』と言っていらっしゃるわけですよね?」
「そう。とどのつまりはそういうことらしいのです」
「それはいけない。とてもいけない」
老人は水を飲んだ。もう温いだろう。のどぼとけが大きく揺れる。
「あなた、『面倒くさい』が行きつく果てを知っていますか?」
その男性はしばらく黙っていて
「よくわかりません」
と言った。
「あなた、面倒くさいの最果てはつまり『0』です。プラスではないことはお分かりになるでしょう? でもね、それは『0』ゆえ、マイナスにもならないんです」
「『0』。一体『0』とはどうなるんでしょう? 具体的には」
「もちろんプラスでもないマイナスでもない『0』ゆえ、無です」
「無」
「そう、無です。マイナスならまだいいんです。マイナスなりの生き方もこの世にはあるでしょう。けれど奥さんの『面倒くさい』の最果てはマイナスですらない。無、それだけなんだ」
男性は手が震えだした。そしてその震える左手でアイスコーヒーのグラスを確かめ確かめしっかりと握り、それでも手は震えていたが、右手でストローを押さえ、震えながらアイアイスコーヒーを一気に飲んだ。
「ご老人、あなたのおっしゃっていることがやっと理解できました。ではこれから僕はどうしていったらいいでしょう」
「海外旅行とか、ダイヤモンド、そんな高価なプレゼントは、なんの役にも立ちません。ただ一つだけ最も高価なプレゼントがあなたという奥さんにとってのたった一人のパートナーは、できるはずなんだ。あなたにとって、その奥さんがどれだけ大切で、その奥さんと過ごす日常がどれだけ大切だって思っているっていうことを日々の暮らしの中で伝えるんです。できそうですか?」
「できそう。やれます。やります」
男性は人目もはばからずに大声で泣いた。店主ももらい泣きをしそうだったし、由香ちゃんも涙ぐんでいた。そしてボックスティッシュを持ってくると、まず自身の涙を拭いてから、男性に駆け寄り、震える声で
「どうぞ、ご自由にお使いくださいませ」
と言った。男性はここはエコなどと言ってられるかってう勢いで、ティッシュを抜き取り、涙を拭き、鼻を何回もかんだ。
「何をお飲みになりますか?」
男性は老人に聞く。
「ではあなた同じものを」
由香ちゃんはやっと、普段の由香ちゃんになり、
「かしこまりました」
と言って厨房の方へゆっくりと戻っていった。ボックスティッシュは老人のテーブルに置いたままだ。