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資本論と喫茶店  作者: 多奈部ラヴィル
4/7

喫茶店の午後

赤い顔はピカピカ光った。

 「ありがとうございました」


店主と由香ちゃんは同時に頭を下げた。そして同時に

「ごゆっくり」

と言って業務へ戻った。本当は他のウエイトレスたちもその老人の話を聞きたかったのだが、店も混み始め、通常の業務をこなしていた。よくよく教育されたウエイトレスたちなのだ。

 老人はアイスアーモンドオーレを時折ストローで飲みながら、資本論の活字を指で追いながら読んでいた。すると三時になった。

 老人の元へやってきたのは、三〇代半ばに見える男性だった。男性は「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げ、持ってきたグラスでアイスコーヒーをストローで少し飲んだ。

 それを見ていた店主はそういえば季節が変わったなということを実感した。ご老人にしてももうモッズコートは脱いでもいいはずだ。けれどあくまでご老人はモッズコートを脱ぐ気はないようだ。モッズコートの中には以前の毛足の長いベージュのセーターの代わりに、白地に紺色のボーダーのカットソーを着ている。そして薄い綿のカーキ色のダボダボのズボンも、変える気はないらしい。杖にも乱暴に筑波山と白い文字で書かれたままだ。

 その客は

「家が火事になりまして」

そう言って、タバコに火をつけた。エコーだった。

「俺は一軒家を借りていたんです。俺は仲間とバンドを組んでいて、プロを目指していた。その関係もあって、周りには牛のうんこの匂いがプンプンする、まわりは牛舎と牧場、坂を上れば少しの民家もある、そんなところに一軒家を借りていたんだ。バンドの練習のためです。だってそんな所でロックをやっても、文句を言われないだろうって思ったんです。そう、その通りになった。俺の燃えてしまった家にはドラムセットもあって、がんがん打ち鳴らしても、誰も文句を言わなかった。そういう場所だったんです。俺はヘビースモーカーゆえか、少し不眠の気があるゆえか、さあ、寝ようと布団に入ってもしばらくは眠れない。そして少し喉が渇いた感じと、『ああ、タバコを吸おうかな』っていう感じで布団から出てポカリを冷蔵庫から持ってきて、コタツに置かれた灰皿でタバコを吸う。それが何回も繰り返される日だってある。それでだんだん面倒くさくなっていったんです。冬の真っただ中でした。俺は枕もとにポカリのペットボトルを置いて、灰皿とタバコ、ライターも置いた。つまりコタツだって消してしまって時間が経てばとても寒い代物だし、布団でタバコ吸えばあったかいし、名案だって思った。そして一昨日、その家は丸ごと燃えてしまった。俺は下手したら、死ぬところだったのかもしれない。けれど浅い眠りの中、煙の臭いで目が覚めた。そしてなにか大切なものを持って、ここから逃げようと考えた。その間はその灰皿が置かれた俺の布団のある部屋ではなくて、ドラムセットのある部屋で腹ばいになりながら、冷静に考えていたんです。なにか、俺にとってとても大切なものを持って逃げよう。俺にとってとても大切なもの。それってなんだ? それはなんだ? パソコンだろうか? ギターだろうか? ベースだろうか? まさかドラムセットは持ち出せない。俺にとってとても大切なもの。とても大切なもの。かけがえのないもの。俺はしばらくそうして考えていた。隣の部屋でガラスが割れる音がした。もう限界だ。俺だってそう思えた。そして持って逃げたのはTポイントのカード一枚と、お金が少し入った財布を持って、アディダスを履いて、外に逃げたんです。俺は牧場の柵辺りからその燃える俺の借りていた家を眺めていた。家にあがる炎は明るくて、なんだかクリスマスみたいだった。そして俺は笑い出したんだ。俺にとってとても大切なもの。それは財布だった。俺は俺をバカみたいだと思った。そしてなんて惨めなんだろうと思った。俺はその程度だったんだなって思うと笑いが止まらなかった」

青年はまたエコーに火をつけた。

「そして、俺は確かにプロを目指して、仲間とこの家で練習をしていたんだけど、あ、言い忘れてたんですけど、俺は親を知らない。産婦人科の前に捨てられていたそうです。入れ物はオイスターソースの空箱、段ボールだったそうです。俺は小さなころから盗癖があった。それは今だに治らないんだ。いつもいつも油断している奴を探してきょろきょろして探してる。気がどこかにとられて、バッグや財布に意識が向いていない奴をいつも探してる。つまり俺はバンドのメンバーの金をどうしても盗んでしまうんだ。それを俺だって止めたいと思う。バンドのメンバーを失いたくないと思う。俺は最初の頃、金が足りないという、ベースに、勘違いだろうと言ったら、『そうかもしれないな』で終わった。それなのに俺は繰り返したんだ。バンドのメンバーだっていい加減気がつく。俺はプロを目指してバンドをやってたって言ったけど、多分それはあり得ないことだった。そして俺には今何もない。職は失った。アパレルに勤めてたんだけど、店の金を持ってとんずらした。初めから持っていなかったっていう気もするけど、今ほどなにもない、俺は何も持っていないっていう感覚が強いのは、初めてだって気がする。あ、俺は二五です。老けてみられるようになったのは、火事の翌日から。それまでは二五歳で二五歳に見られていたんだ。つまり浦島太郎っていうわけ」

 語り終えてもその三〇代半ばかと思ったら、二五歳のその青年はエコーを吸い続けている。

「好きな女の子はいるのかい?」

「特にいません」

「じゃあ、情熱のすべてを傾けるように愛すことができる女の子をまず探すんだ。そしてね、その女の子のお腹の中に入って、そこには必ず、安心があるはずだから、そこで安心っていうこれ以上ない幸福を感じて、その胎内の暖かさを十分に味わったら、お腹から出てきて、その優しい、好きな女の子に育ててもらうんだ。それは一日でもいいし、一週間でもいい、一年だっていい。そんな優しい女の子を探すんだね」

青年はタバコを灰皿につぶし、目の焦点も合わないように、ぼんやりしている。そして

「胎内は温かいのですか? そこには無限の安心と許しがあるんですか?」

そう放心状態のようになって、老人に向かってつぶやくので、老人は

「ああ、とても温かく、安心と許しが満ち溢れているよ」

と答えた。青年は我に返ったように、手を挙げて

「すみません、この方にアイスアーモンドオーレのお替りを」

そう言って、猫背に去っていった。

 三時から六時までの相談者は途切れることがなかった。そして三時にさす陽は、まるで老人のやさしさが老人からこぼれ出ているようにも見えて、思わず拝む人までいた。そして時間が経つにつれその陽は老人の影を座った席のテーブルの上に長くのび、相談者たちはそれぞれのカップやグラスをその影の上に置いていることに気がつかないようだった。


 ところで店長と由香ちゃん、もしかしたら他のウエイトレスたちもかもしれない。老人にもう一つ聞いてみたいことがあったのだ。どうして老人は、モンブランの中に入った大きくて甘い栗にそんなにもこだわるのかということだ。老人は「客たち」と話す間は、モンブランを口に運ばなかったが、その「客たち」の合間にはモンブランをおいしそうに食べていた。もちろん「客たち」もその老人がモンブランを口に運ぶその所作を、邪魔しよと思う人はいないようだった。途中まで食べたモンブランを、そのケーキ皿の上にフォークを置いて、老人がなにか飲み物を飲み、ピースを一本吸い終え、赤い頬をてらてら光らせながら、喫茶店に漂う、煙の行方をたどるように見ていると、次の客が現れるっていう風になっていた。それらを繰り返しながら、老人がケーキを食べ終えても、その中に入っている大きくて甘い、少しブランデーの香りがする、その栗をいつまでも食べようとせず、食べるのは、そう6時。老人が帰ろうという時で、その時やっと大きくて甘い、少しブランデーの香りがする栗をほおばって、電灯の方、上を向いて目を閉じ、そうしながら、口をもごもごと動かし咀嚼し、飲み物があればそれを一口飲んで、やっと立ち上がり会計を済ますのだ。

 会計のレジの前に立つ老人を見ながら、店主と由香ちゃんは考えていた。大きくて甘い栗に込められた意味を聞いてもいいものだろうか? でも今日はもうすでに一つ質問し、答えていただいていたのだ。その今日、また更に質問をするのは、少し図々しいだろう。俺と、またはわたしと、その老人の距離っていうのはいまひとつつかめない。いくらでもケーキを食べたり、飲み物を飲んだり、タバコを吸ったり、おしゃべりをしている客たちとは少し違う。けれど、俺と、またはわたしと、その老人は仲のいい親友っていうわけでもない。そう、もう少し様子を見よう。距離が縮まったっていう気持ちになれたら、その大きくて甘い栗の意味を聞いてみよう。そう考えながら店主はレジを打っていたし、その傍らに立っていた由香ちゃんも、同じくそう考えていた。そして由香ちゃんは老人が、会計を済ませ、床に置いていた「朝日屋書店」の紙袋と、杖を握った瞬間、思わず、

「ムッシュ、今日もお疲れ様でございました」

と言ってしまった。そして由香ちゃんはそう言ってから、なぜか赤面した。老人は笑って

「俺は人と話すのが苦痛っていうタイプじゃない。人と話すのは好きなんだ。別におかしな質問っていうわけじゃない。由香ちゃんが赤くなる必要なんてないんだ」

老人はそう言った。由香ちゃんは老人が自分の名前を言ってくれたことに深い感慨を持った。由香ちゃんは自分の名前を老人が知っているなんて思いもよらなかったからだ。

 老人はこちらの方も見ず、前を向いて歩く。杖をついてはいるがそう背中は曲がっていない。近くで見ると優しいご老人だが、遠くから見るととても厳しい、凍てついた大きくて固い氷の塊のようにも見える。決して溶けることのない、そんな大きく固い氷の塊。ある人がご老人を「隕石」と表現したのを由香ちゃんはふと思い出した。そう、ご老人は、大きくて固い姿、そんな風に見えると、由香ちゃんは店主の横に立ったままそんなことを思っていたが、しばらくして我に返り、カランコロンという音に瞬時にドアを見て、

「いらっしゃいませ」

と忙しく働きだした。由香ちゃんは好奇心も旺盛だったが、とても仕事熱心で、しかもよく仕事ができる、プロフェッショナルなウエイトレスだったのだ。


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