喫茶店の午後
ある日開店の準備をしながら店主はウエイトレスたちに、
「変なことになってしまったな」
と独り言のようにも聞こえる、そんな言い方で言った。ウエイトレスたちもそれぞれ
「確かに」
「そうですね」
と言いながら、床を拭いたり、窓を拭いたり、その手を休めることはなかった。十分に教育されたウエイトレスたちなのだ。
その「変なこと」というのは、あの定年についての話を老人に聞かせた中年の男が町中に「あの喫茶店には高名な占い師がいる」という、わけのわからない噂をばらまいたのだ。店主は「あの中年の男はおしゃべりに間違いない」とまでは読んでいたが、「高名な占い師」としてあのご老人をみなに言うとは、と店主に迷惑がかかるわけでもなかったが、なぜか悔しく思うのだった。
この町は小さな町だ。東京近郊にあるものの、違う路線の二つの駅に挟まれ、その真ん中にどちらの駅にも遠く、川だけが流れる、三角形の小さな町だったから、そんな噂はあっというまに広まってしまうものらしいのだ。そしてタバコを吸わない、嫌煙家の人たちでさえ、店の中にしかめっ面をしながら陣取り、店の前に入店を待つ人までも現れるようになったのだ。
けれども老人は頬の一番高い部分、そのつやつやとした照らされたような赤さを冷めさせもせず、「占ってほしい人」を受け入れていた。
けれど店主に見えるのはもちろん、これからの己の人生とか、受験に受かるかとか、恋が成就するかとか、何才ころ結婚できるかとか、そういった燃えるごみの袋に交じる燃えないストッキングみたいに、いくらでもある「占い師」への「相談事」も多かったが、ただ「話したい」という客も大勢集っているように見えた。
ある若い女性の客は真ん中にレースのあしらわれた七分袖の黒のぴったりとしたカーディガンに、またこれも黒のひらひらとしたスカートを履き、先のとがったボルドーのパンプスを履いて老人の前に陣取り、右足を上に脚を組み、右のパンプスのかかとをゆらゆら揺らしながら、こう切り出した。
「わたし、振られたわ」
「それは悲しいことですね」
店主はそのセリフを何回聞いたことだろう。店主にも覚えがあるのだ。投機家だった時代に、政界の人間も占ってもらうということで密かに有名だったある占い師に、仕事の命運を占ってもらいたいと痛烈に思ったが、そこは過去、自分は頑張ってきた、今だって頑張っている、そういうプライドみたいなものが、店主を占い師の元へ行かせなかったということを。そう、ポジティブな悩みっていうのがだいたい語義矛盾で、我慢する力さえ失ってしまえば、次の瞬間にぽとっと涙がこぼれてしまいそうになるとき、人は占い師を頼るのだ。
「付き合ってた人がいたの。大学の同級生でね、わたしのためにチケットぴあの前に、そう、真冬だってね、徹夜で並んでRCのライブのチケットを取ってくれるような、そんな人だった。そう、わたしが『ああ、RCのライブ行きたいな。前の方の席がいいな』って言えばね。そしてわたしが行きたい所に連れていってくれたし、欲しいもの、それはそう、ダイアモンドなんて言っちゃいない。ただなんていうか、つま先立ちになれば手に入りそうで入らなそうで、でももっと頑張れば手に入る、そういうものよ? そういうもをみんなプレゼントしてくれた。わたしが欲しいと言ったらよ? そういう思いを傾けてくれる人にわたしはなにをプレゼントしたらいいだろうっていつも考えてた。そしてね、出た結論っていうのは、この人が一緒に歩いていて、男性陣が羨ましいって思えるような、そんな女、連れて歩くのに恥ずかしくない、いつ声をかけられてもおかしくない、そんな女になろうっていう努力が、その彼の努力へのプレゼントだって思ったの」
そして一回若い女性は言葉を切って、エスプレッソを一口飲んで、下を向いていた。しばらくするとまた顔を上げ、
「それって今も考えてみたんだけど、間違ってないってわたし思う。ただできなかったの。彼に。優しく。一生懸命お手入れして、パックもして、朝完璧だって思うメイクを施す。そしてもう一回鏡を見て『よし』と思う。するとね、ちょっと背が高くなったような気がするの。もちろん身長なんて伸びるわけないのにね。そしてジムにも通った。スタイルだって、ほらこの通り、完璧でしょう? そういうわけ。ジムでも頑張って、そう彼のために努力をしたの。メイクだってお手入れだってジムだって。髪もトリートメントしたし、アイロンで巻くこともあった。そういう女になれたって自分で思ったとき、いつの間にか彼より背が高くなってたの。彼だって背は一七五くらいあった。でもわたしはそれよりも背が高くなっていた。そして相変わらず彼に優しくできなかった。大学卒業後、彼は商社に、わたしは広告代理店の受付嬢に就職した。わたしはね、『受付嬢』の面接しか受けなかったの。事務とか広報とか、そんなんじゃだめだって思った。とにかく『受付嬢』だった。彼にとって彼女であるわたしが『受付嬢』以外の何ものかじゃ、絶対にダメだって思った。それでも仕事を終えると彼の部屋に行ったりして、交際は続いていた。でも彼からのプレゼントは減っていった。わたしはなにかおかしいって思った。だって就職したわけでしょう? 彼だって。そしたらそれに比例するように爪先立ってわたしへなにかプレゼントをすべきだって思った。そして彼に聞いたの。『最近、なにももらってないよね』って。そしたら彼は、笑うわけでもなく、なんていうんだろう、妙にまじめな顔をして『だって君だって就職して今は金を持ってるだろう』って言うの。そういうのおかしいと思う。今は今の彼の状況でつま先立ちをして、それからもう一歩手を高くのばして、なにか今の彼に買える何かをわたしにプレゼントをするべきだって思った。でもそういう風にはもちろん彼に言ったわけじゃない。心の中で『そんなのおかしい』って思っただけだった。わたしは今でも不思議なの。彼を本当に愛していた。けれど彼に冷たくばかりした。身長だって今彼より高い。わたしはなぜ彼に優しさを傾けなかったんだろう。関係性のせいかしら? わたしが少しだけ彼を愛して、彼がわたしをたっぷり愛していた、まさかそんなこともない。けれどもしかしたら、彼はそう感じていたのかもしれない。わからない。身長の逆転を彼が嫌がったのかもしれない。わからない。そうやってわたしから『今夜会おう』っていう誘いをするっていうことはなかったから、いつも彼が『今夜飯食おう』とか『明日、家に来ない? 』っていう誘いを受けて、そしてデートっていうわけだったんだけど、その誘いも少なくなった。わたしは大切に育てた長い髪を、短く切るっていうことはなかったけれど、彼に会う時には必ずマイナーチェンジを繰り返した。彼はその変化に何も言わなかった。わたしはネックレスを買った。それは屈辱だった。アクセサリーっていうものとバッグ、それとコンサートのチケットっていうのは誰かにプレゼントされるものだった。それなのに、わたしはわたしのカードでネックレスを買った。一粒ダイヤ。わたしの卑しい根性なのよ。彼は『それ、誰に買ってもらったの?』ってわたしに聞くって思ってた。けど彼は何も聞かなかった。わたし正直何度もその受付嬢を辞めようと思った。でも怖くてできない。また彼が誘ってくれた時、わたしが受付嬢じゃなかったら? そう思うと怖くて辞めることができない。今わたしは二六なの。受付嬢としてはお局様。今日はね、彼に三年前、焼き肉に誘われた日。それ以降彼からの誘いはないわ。丸三年経ったわ。わたしやっぱり振られたってわけよね?」
「恋を楽しんでください。謳歌してください。あなたは見たところ背が低い。恋っていうのは楽しくて美しいものですよ。けれど時に涙を伴う」
「そう? わたし背が低いのかしら?」
と言って、その二六歳の女性は、うつむき、ぽたぽたと涙を流している。いつまでもいつまでも顔を上げない。由香ちゃんはさっそうとボックスティッシュを手に持ち、彼女と老人の席へ向かった。顔をやっとあげたその二六歳の女性はもう涙は目の端に少したまってきらめいているだけで、
「あなた、ティッシュならあるし、ハンカチもあるし、この通りガーゼもあるの。ついでに言うなら生理用品だって絆創膏だって持ってるわ」
とキャメル色の皮細工のバッグの中を開けてみせながら説明し、由香ちゃんを赤面させた。そしてその女性は
「この方にもう一杯のカプチーノを」
と言って、八〇〇円の会計を済ませ、さっそうと外へ出ていった。