喫茶店の午後
その後老人は度々来るようになった。いつも格好は同じで、時にはアメリカン、時にはブレンド、時にはロイヤルミルクティーといった風で飲み物にはこだわらないようだったが、ケーキは必ずモンブランで絶対にテンガローハットを取ることはなかった。カランコロンと音をさせ、その老人が現れると、たいてい由香ちゃんが、
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
と、老人をいつもの席、そう初めて老人が来たときの席に、案内した。そして二回目の来店からは、老人は席に座ると由香ちゃんに向かって、
「ありがとう」
と言うようになった。
けれど由香ちゃんの老人に言う「お待ちしておりました」は、由香ちゃんの本当の本音だった。由香ちゃん自身にもわかりえぬことだった。もちろん、その老人に恋愛感情なんて抱いていない。その老人と深く語り、相互理解が成立したわけでもない。けれどいつも由香ちゃんは午後三時ごろになると、待ってしまうのだ。その老人が訪れるとしたら、たいてい午後三時前後だったからだ。今日はあのご老人はやってくるのだろうか?
五回目か六回目の来店の時だろうか。老人がいつものように、いつものごとく、儀式のように飲み物を飲み、モンブランを食べるっていう所作を変えない。その時に闖入者が現れた。その闖入者は店主には初めての客のように思えたが、そうではないらしかった。
「おじいさん、ここにちょっと座らせてもらっていいかな?」
闖入者は老人の前に椅子の横につくしのように立って言う。つくしのように見えるのはその男性が天然パーマのせいだろうか、店主はそう推測する。
「もちろんです」
老人はそう言ったが、店主はなんだかいやな予感がした。由香ちゃん同様、店主にとってもその老人はスペシャルな、とても大切な客だといつの間にか思えていたらしいのだ。店主はあの老人が初めて来店した日の帰り、上下巻の資本論を手に入れた。やはり風呂に入って妻の作った切り干し大根の煮物と、はんぺんを三角に切って、さらに切れ目を入れ、その中にツナとチーズを入れ、バターで焼いたものをおかずにご飯を食べてから、自室で資本論を読みだし、案外にも難しいっていうことに気がついた。学生の頃にさらっと読んだ資本論だったが、さらっと読めたということに、今更店主は何も理解せぬままさらりと読んだのではないかと思われた。まるで投げやりになっているときに、健康を取り戻そうとエネルギーの充填を待つため推理小説ばかりを読むように、だ。そういう風に読んだんじゃないかと思えるほどに、投機家を経た自分が読むのに厄介な本を、あのご老人は直線のように読んでいたな、そう何回も回顧し、またその後その老人が来店するたび、手に資本論の袋「朝日屋書店」があるか、どうしても杖を突く手の反対を見てしまうのだ。そう、その老人は、資本論を買ったときに入れてもらった「朝日屋書店」の紙袋に常に資本論を入れていて、店主の目算では、家では資本論を多分読んでいないみたいだった。
闖入者………中年の男は少し遠慮気味に椅子に浅く座って、それから思いついたように、自分の席からソーサーは持たず、アメリカンの入ったカップだけを持って、もう一回老人の前にそのカップを置いて、また椅子に浅く座った。その中年の男は少し緊張しているようで、一連の動作がとてもゆっくりで、老人に一口ロイヤルミルクティーを飲むスキを与えた。
「前から、お話しさせていただきたかったんです」
中年の男はひと息に言うと、そこで大きな深呼吸をした。
「あなたは、そうだな、宇宙から飛んできた、巨大な隕石のような方だ。是非俺の話を聞いてもらえませんか? そう、そんなに長い話じゃない。ただ話してみたいだけで」
「なるほど」
「実は今年、定年退職になるんです。俺は六十だっていうのに、『もう十分働いたさ。これからはゆっくり好きなことでもさせてもらう』と言って、定年の手続きを取った。それなのに、今ゆっくりと定年が近づく今、俺は怖いんです。これからは朝準備をしていかなければならないっていうところがなくなる。趣味だってない。これから収入が増えるっていうことはなくなるわけだから、お金が必要になる趣味を見つけるわけにもいかない。俺はどうしたらいいんでしょうかね」
「それはとても悲しいことですね」
そう言ってロイヤルミルクティーを飲み干すと、中年の男が手を挙げ、由香ちゃんはすぐに駆け寄り、
「いかがいたしましたか?」
と言うと
「ロイヤルミルクティーをもう一杯。こちらの方に」
と言って、また老人の方へ座り直し、タバコ、メビウスに火をつけた。そしてさっきよりだいぶ砕けた調子で
「ああ、俺は何を見ながら生きていけばいいのかなあ!」
とつぶやきというより叫びに近い声をあげた。
「まず、間接照明を消さないことです。エアコンの温度設定も今まで通り。娘さんはいますか?」
「デパートに勤めてるんです。結構いい給料をもらっているらしいのに、家にはびた一文いれやしない」
「その娘さんの髪は長いのかな?」
「長いです」
「その娘さんはきっと風呂から出たらドライヤーをかけるだろうと思うんですが、そのドライヤーの音を気にしちゃいけません」
中年の男は涙をこぼしだし、
「そうでしょうか。そうでしょうか」
と繰り返し、由香ちゃんがボックスティッシュを、持って行くと、数枚引き抜き、大きく鼻をかんだ。