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資本論と喫茶店  作者: 多奈部ラヴィル
1/7

喫茶店の午後

カランコロンと鳴る喫茶店の扉を開けて立っていた老人は少し変わった風体をしていた。靴はいつの物かわからないが、履きじわのあるとんがった黒い革靴を履いており、カーキ色の薄い綿でできただぼだぼのズボンを履いる。上には長い起毛のあるベージュのセーター、その上に一見してフェイクとわかるファーのついたモッズコートを着ていた。頭には大きなテンガローハットをかぶっていて、手には茶色い木目の浮いたぴかぴかの、「筑波山」と白い字で乱暴に描かれた杖を持っていた。

 老人は少し手を頭のテンガローハットに置き、

「ここはタバコが吸えるのかな?」

と尋ねたので

「もちろんです。ムッシュ」

と店主は答えた。

 この喫茶店のウエイトレスは全員女性で、店主の趣味から、紺色の膝丈の、フレンチスリーブのワンピースに、白いフリルのついたエプロンを身に着けていた。

 店主は元投機家だった。別に失敗したわけじゃない。数字の「0」ばかり見ていたら、目が悪くなったらしく、その「0」が何個連なっているのか見えなくなり、それで投機家を辞め、酒よりもむしろコーヒーや紅茶、酒の肴よりもむしろケーキが好きだった店主は、この丸太を組み合わせた、床も木目を踏むとぎしぎしいう、そんな決して大きくはないが、それほど小さくもない喫茶店を開いたのだった。ケーキはすべて500円、コーヒーや紅茶がなんであろうと、つまりエスプレッソだろうとアメリカンであろうと、ブレンドであろうと、カプチーノであろうと、ストレートティーであろうと、ロイヤルミルクティーであろうとすべて400円、そんなリーズナブルな価格設定であり、とても覚えやすかった。それはもしかしたら店主が元投機家であるゆえんであるのかもしれない。もしかしたら「0」以外の数字にも興味を失っていたのかもしれない。ちなみにウエイトレスたちの時給は1000円で、店主はどうしてもタバコをやめられなかった故、全席喫煙にした。するとどうやら嫌煙家の人たちにはその喫煙スペースがある、といったような店ではなく、全席喫煙可能、その店内にこもる煙の対策はもちろんうっていた店主だったが、その匂いが、嫌煙家にとっては我慢ならないらしく、いっそとでもいったふうにその喫茶店は煙とタバコの匂いと、そんな倦怠感漂う空間になった。そのけだるいとか、アンニュイとでも言いたいような喫茶店の雰囲気を何とか救っているのが、きちんとした教育を受けたプロフェッショナルなウエイトレスた五人だった。

 老人の前にウエイトレスの中でも最年長の二七歳の由香ちゃんが前へ進み、

「ムッシュ、お席へご案内します」

と言って傍らに単純なメニュー(しかしこれもネイビーの地に薄いブラウンでメニューが描かれた店主のこだわりのメニューだったが)を持って老人の先を進んだ。老人は窓辺の、そのテーブルの真上に電灯が吊るされた席に案内され、頬の一番高い所をつやつやと赤くしながら、嬉しそうにメニューを受け取った。

「お決まりの頃にお伺いたいします」

由香ちゃんはそう言って踵を返した。さすが由香ちゃんだ。店主はそう思う。元投機家であった店主は、目利きだったし、機を見るに敏だった。由香ちゃんはおそらく老人が杖を持っていない方の手に下げた紙袋に「朝日屋書店」と書いてあることに気がつかないわけがなかったのだ。きっと本をお読みになる、そう由香ちゃんは思って、その席に案内したのだ。

 老人はメニューをよくよく読み、裏返してみたり、また裏返してみたりとしながら、じっくりとその店主こだわりのメニューを堪能していた。そして店内をきょろきょろ見始めた。するとやっぱり由香ちゃんが、風を切るように歩んで、老人の席に行き、

「ムッシュ、お決まりですか?」

と尋ねると、

「あの、このモンブランの中には、栗が、大きくて甘い栗が、入っているのかな?」

と聞くので

「もちろんです。ムッシュ。こちらのモンブランですと、中に大きめな甘くて少しブランデーの香りがする栗が入っております」

そう由香ちゃんが答えると、老人は真上に下がる電灯にピカピカと赤い頬を照らしながら、

「じゃあ、それと、」

と言ってメニューを読み始めたときにかけた老眼鏡を少し上にずらし、

「カプチーノを」

とオーダーした。そこで例えば由香ちゃんが、厨房に向かって

「へい! ご注文いただきましたあ!」

と叫ぶわけはないのであって、そう叫ぶのはラーメン屋と焼肉屋、居酒屋などなのだ。この店はそんな店ではなかった。由香ちゃんはオーダーを書いた紙を厨房の人間に渡した、それだけだった。

 やはり老人は「朝日屋書店」と書かれた紙袋から本を取り出した。店主はこの瞬間を待ち遠しくも待ち遠しかった。老人がどんな本を読むのか、とても興味があったのだ。そしてその瞬間は訪れたのである。随分と厚く重そうな本だった。本は「資本論」だった。

 店長は店のカウンターからそれを見て、ひとりごちた。

「マルクスエンゲルス」

その本を以前、店主は読んでいる。大学の頃だ。学友たちはその「資本論」をわからない、わからないと嘆いていたが、店主はあっさりと読み終わり、理解した。いや、と今になって店主は思う。俺は本当に「資本論」をちゃんと理解したのだろうか? 店主はなにやら屋内にいるというのに自分の頭の上に厚い雲がかかり、空がグレーに染まったような気に一瞬落ちいった。そしてまたこうも思った。俺も、もう一回資本論を読もう。今日帰りに本屋に寄ろう。

 由香ちゃんがカプチーノとモンブランを老人の席に運ぶ。老人は少し慌てて

「ちょっと待ってくれないか」

と言って、本を開いたまま伏せ、それをテーブルのわきに寄せ、モンブランとカプチーノを置く場所を作った。

 けれど老人は今度は一回資本論を椅子に乗せ、モンブランとカプチーノをテーブルのわきに寄せ、また資本論をテーブルの真ん中に置き、熱心に読んでいる。老人の………多分老眼鏡はいつ作ったのかもわからず、最後にいつネジを調節したのかもよくわからない。とにかく老人の老眼鏡は油断をすればすぐに落ちてきやすかったし、老人はそれを何度も何度も、多分ページをめくるよりも多く、老眼鏡を直しながら、右手の人差し指で読んでいる個所を追いながら熱心に資本論の中に入っている。

 しかし由香ちゃんはハラハラしていた。どうしてかというとモンブランはさておき、カプチーノにさえ手を付けない老人だったから、カプチーノが冷めてしまっては、と、そうハラハラしていたのだ。

 老人はまたページを繰った。そして一文字目から人差し指で指し示し、追いながら資本論を読んでいく。店主は思った。資本論ってやつはあんなふうに早く読んで理解できるような本じゃない。行ったり来たりして読む本だ。老人はきっとすでに過去、その資本論を読んでいるのだろう。

 由香ちゃんがまた店内のタバコを匂いの風を切る。

「ムッシュ。カプチーノが冷めてしまいましたね。お取替えいたします」

「いや、いいんだ。本当のことを言うと、俺はカプチーノを俺にとっての適温にさせるため、この本を読んで時間をつぶしていたんだ」

「そうなのですね。それは失礼いたしました。わたしったらなんてことを。お恥ずかしいです」

「いや、君のご心配にも礼を言いたいし、君の気遣いも嬉しいんだ。それは本当のことなんだ。『恥ずかしい』なんて言ってほしくない」

「ありがとうございます。ムッシュ。ではごゆっくり」

そう言って由香ちゃんが去ると、老人は少し前を向いてぼんやりし、やっと老眼鏡を外したかと思うと、カプチーノの入ったカップに砂糖を入れて、そしてまた前を向いてぼんやりして、ふっと気がついたようにカプチーノの入ったカップを両手で包み、まるでお茶会の席で練りに練られた抹茶を飲むように、カプチーノを一口飲んだ。そして今度はやっとフォークを握り、モンブランを食べだした。そしてモンブランを慎重に食べ進める老人は、なにか、とても懐かしい写真を押し入れの整理をしていたら、見つけたっていう表情をして、その中の大きくて甘く、ブランデーの香りのする栗を見つけ、遠くて幸福な過去、例えばその老人の子供の頃に、父親と母親に見守られながら、ブランコを漕ぐようなそんな想い出を思い出しているような表情で、その栗をケーキ皿のわきに置いて、モンブランを食べ終え、そしてまたカプチーノを一口飲んだ。そしてポケットからピースと緑色のライターを取り出し、栗がコロンと転がるケーキ皿を前に右手に灰皿を置いてピースを吸いだした。その時老人は資本論を開かない。

 店主は、「なるほど」と思った。それが読書の妙体なのかもしれないと。俺は今日、資本論をうまく買えたとして、風呂上り資本論を読んだとしても、その時に、その資本論を読みながら、必ずやタバコを吸ってしまうだろう。タバコを吸うという行為と資本論を読むという行為を別々に行ってこそ、その行ったり来たりしながら資本論を読むっていう風にはならず、直線みたいに資本論を読み進めることができるのかもしれない

 やっと老人はそのフェイクファーのついたモッズコートを脱いだ。ちょうど老人の後ろの窓からぽかぽかとした陽が入る時間だった。そして老人がカプチーノをまた一口飲んだ時、のどぼとけが大きく揺れるさまが店主の目に入った。そう、冬ではあるが、風がなければ日差しは暖かい、そんな日だった。

 老人は最後の一滴までカプチーノを飲み終えたようだった。そして店主は思う。由香ちゃんだってそうだ。大きな栗に拘っていた老人だったけれど、食べる以外に用途があるのかしら? そうそれはそうだ。老人はカプチーノが一滴も残らない今もモンブランの中の栗をケーキ皿に転がしたまま食べていない。そして今はまた資本論にしおりを挟み、ピースを吸っている最中だ。そしてそのしおりだって店主と由香ちゃんは見逃していなかった。大きな緑色のセキセイインコのしおり。そのくちばしにはクローバーを挟んでいて、そのクローバーは本物だった。そう、子供の頃に誰でもやったことのある辞書に挟んだ、そして毎日辞書を開いてみた、そういうクローバーだった。店主も由香ちゃんも同時に思った。

「なんて素敵なしおりなんだろう!」

由香ちゃんにいたっては、もし老人がこの店を気に入ってくれて、頻繁に来てくれるようになったら、そうね、「ざっくばらん」って言っていいのかな? そんな風に、どこでそのセキセイインコのしおりを買ったのか聞いてみたいと思っていた。

 やはり老人はただ弄ぶためだけに、栗を残していたわけではなかったようだ。老人は本をセキセイインコのしおりを挟んだままで、また「朝日屋書店」と書かれた茶色い紙袋に資本論を入れ、大事そうに自分のわきに置くと、栗をフォークで刺して、一口に口に放り込んで、しばらくの間咀嚼し、その後とても嬉しそうな顔をした。まるで息子が値のはるイタリー製のピーコートを初ボーナスで買ってくれたこと思い出したような顔だった。けれどそんな息子は、老人にはいそうに見えなかったが。

 そして老人はまたモッズコートを着こみ、杖と朝日屋書店の紙袋を持つとレジで会計をした。900円。そう、レジはあるがレジを打つまでもない簡単な計算だ。店主が会計していたが、由香ちゃんが老人のそばにより、

「あの、モンブランの中の栗、あの栗はいかがでしたでしょうか?」

と老人に聞いた。老人は頬が赤いからそう見えるのか、それとも本当にそういった表情をしているのかよくわからないが、恥ずかしそうに見える表情をして、

「とても大きかった。そして十分にあまかった。そして少しブランデーの香りもした。とてもおいしい栗だった」

と言った。由香ちゃんは、やっと安堵し、

「それは本当にうれしいお言葉です。ムッシュ、またいらしてくださいね」

と言い、店主も

「またいらっしゃってください」

と言って、二人同時に会釈した。

 そして老人はまたカランコロンと音をさせ、ドアを出ていった。店主と由香ちゃんは窓からその老人の歩く、その歩く姿を見えなくなるまで眺めていた。その老人は近くで見ているとそんな風に見えなかったが、遠くから見ると、エジプトの巨大な石であるとか、大きなアフリカの象であるとか、そんな印象を二人に与えた。

 閉店を迎える午後8時近く、店内もまばらなその喫茶店の中で、店長はウエイトレスたち相手に、

「今日、午後いらっしゃった筑波山の杖を突いたご老人は、資本論を読んでいた」

と言った。

「資本論ってなんですか?」

まだ大学生の里奈ちゃんが店長に聞く。

「経済の始まりから終わりまで書いてある本だ」

「難しそうですね」

「ああ、とても難しいとされている」

由香ちゃんはしばらく寡黙に目を伏せていたが、ウエイトレスたちが始めた福士蒼汰はどれだけかっこいいかっていう話がひと段落した後、

「あのご老人にとって、大きくて甘い栗ってなんなのかしら?」

とまるで独り言のように、ぼんやりと言った。

他のウエイトレスたちも

「そうね」

「わからない」

「大事なものなのかしら? 栗が」

由香ちゃんは思っていた。あのご老人にとって、あの栗が大事なものであるのはわかりきったことだ。けれど分からないのは大きくて甘い栗が、どうしてそんなにも大切なのかっていうことだ。


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