神に好かれてしまった娘
明日には披露目の式がある。
椿は母屋に呼ばれて段取りを説明された後、視線を落としながら離れへの渡り廊下へ向かっていた。道すがら会う使用人達は皆一様に椿を見る目を歪ませる。人知を超えた力に対する畏れと、“人と違う”ということへの侮蔑である。
そんな中、唯一安らぎを得られる声が二つ聞こえてきて、椿は顔をあげた。見ればそこには言い合いをしているらしい兄の正一と弟の凛がおり、知らず知らず椿の顔も緩む。一体何を言い合っているのやら、話しかけようと近付こうとして―――聞こえてきた言葉に足を止めた。
「……だから兄様、自分で持っていけばいいでしょう!」
「いや、でも、凛も椿に会いたいだろう?」
「でしたら二人で行けばいいのです。何故俺だけで行くという結論になるのです!?」
どうやら言い合いの原因は自分にあるらしい。そう気付いて、椿は再び顔をふせた。そうして、二人がいる場所を避けて迂回するようにして離れへ急ぐ。
弟の凛は、良く顔を見せに来てくれるのだが、兄の正一はあまり離れへ来てくれない。無論離れへ近付く事を良しとされていないことはわかっているので、長子である正一がおいそれと離れへ来る事は出来ないのだと理解はしている。理解はしているが―――やはり自分は兄に嫌われているのだと、椿はため息をついた。当たり前だ、だって私は―――……
「姉様!」
「凛……」
「姉様、こちらへ来ていたのですね?……ああそうか、式は明日でしたね」
嬉しそうに駆け寄ってきた凛は、手に何かの箱を持っていた。
「そうそうこれ、芙蓉堂の苺大福と豆大福です。兄様が近くへ行ったとかで買って来て下さったんですよ」
それは、椿の大好きなものだった。以前に正一が貰い物だと分けてくれた時に食べて、それ以来虜になってしまったのである。
「兄様は……私のことがお嫌いなのでしょうね……」
「えっ!?あ、ああ、ああそうか、そうなっちゃいますよね、やっぱり」
「凛……?」
「ふふ。まぁ俺が言ったというのは内緒なのですけれど」
唇の前に人差し指を立てて、凛は悪戯っぽく微笑む。椿は時折凛の表情に大人っぽさを感じることがあるのだが、こういう時が一番強く感じる気がする。
「兄様は姉様に会うのが恥ずかしいそうですよ。姉様がお綺麗だから」
「―――…………えっ!?」
何拍か置いて驚いた椿に、凛はけたけたと笑った。
―――そう、椿は美しかった。烏の濡れ羽色をした艶やかな黒髪はさらりと長く、椿のおっとりとした所作に合わせてさわさわと揺れる。ぱっちりとした黒い目は長い睫毛に縁どられているし、鼻筋もすっと通り、唇も桜の花びらのように可憐だ。そんな個々でも完璧なパーツが透けるように白く小作りな顔に品良く収まっていて、天女もかくやと言わんばかりの美しさである。
「そ、そんな、ことはっ……!」
「でもいけませんね、やはり次は兄様が持ってくるように言います」
「……いえ、そう、そうですね、出来れば三人で話をしたいです」
まだ仄かに赤い顔を押さえつつ、それでも椿はふわりと笑った。
「椿様」
そんな和やかな雰囲気だったところに、やけに威圧感のある声が地を這うように聞こえてきて、二人は揃って後ろを振り返った。そこにいたのは、陽の下に居るのが似つかわしくないような、影が人の形を取ったらこうなるのではないかと思わせるような、そんな男だった。かっちりとしたスーツに後ろに撫でつけて固められた髪、縁がないタイプの眼鏡をかけた顔立ちは決して異質ではなく、一般的な容姿にもかかわらずである。
「牧島……さん……?」
「先程旦那様が伝え忘れたことがありましたので参りました」
牧島は、使用人達の総取りとして主人である二人の父親の傍に仕えるものである。実際仕事は完ぺきで右腕として重宝されているのだが、椿は牧島が苦手であり、凛に至っては大嫌いだった。
「なんでしょうか……」
ずく、と体の底の方で嫌な音がした気がした。牧島が話すたびに、椿の中で―――が増す気がする。
「明日の式には聡慧様もいらっしゃる事になっている……と」
「―――っ!!」
その瞬間、椿は全身の血が沸いたようにカッとなった。
「何故!?」
椿の声に、凛がびくりと体を震わせた。見れば、声と同様凛が見たこともないような顔をしている。
「何故奴が、何故っ!嫌です、であれば私は式には出ません!!」
明らかな怒り。それが椿から溢れだしていた。―――しかし。
「それは認められません、椿様」
ずく、と椿の体が何かに蝕まれる。
「聡慧様は旦那様にとって大切な方……おわかりでしょう?」
猫をなでるような声で、牧島は言った。凛は走り抜けた嫌悪感に顔を顰める。椿は、言い返そうと牧島の方に足を踏み出した。踏み出そうとして―――できなかった。
「――――――っ!!!」
「姉様!?」
椿は、声にならない悲鳴をあげて渡り廊下に蹲った。
「姉様、姉様!」
凛は持っていた箱を取り落としながら椿に駆け寄る。しかし椿は牧島の方へ手を伸ばした。
「いや……いや、です……あい、つ、は……いやですっ……」
ぼろぼろと涙を流しながら、椿は呻いていた。それは聡慧が嫌だからなのか体を蝕む痛みが激しすぎるが故の涙なのかはわからない。凛は聡慧を知っているが、椿との間に何があったのかは知らないのである。だが凛はそんな必死な椿の様子を見て、キッと牧島を睨み上げた。そうして……後悔した。
牧島は、おぞましい笑みを浮かべていた。嫌だとなく椿を見下ろしながら、その様を見て尚、どこか恍惚とした笑みを浮かべていたのである。
「―――凛様」
と、凛の方へ顔を向けたときにはもう笑みはなくなっていた。冷たい影に戻っていた。
「椿様をよろしくお願いいたしますね」
そう言って牧島は踵を返した。凛の体格では椿を離れまで運ぶのには骨が折れる。それがわかっているくせに、である。だが凛は、牧島が椿に触れるぐらいならば一人で運んだほうが良い気がしていた。椿の体に、牧島が触れてはいけない気がしていた。
痛みで既に声も出ない椿になんとか肩を貸して、凛は離れに向かった。今はまだ少し余裕があるのか、それとも凛に負担をかけまいとしているのか、椿は弱弱しくも歩いてくれている。これならばなんとかなるだろう。
椿のこの症状は、決して珍しいものではなかった。多い時には月に数回訪れる。その度、三日ほど気絶することすらできない激痛に苛まれるのである。原因はわかっていなかった。どんな医療機関へ連れて行っても原因不明と医者が首を振るだけ。故に出されたのは、体が耐えられないのだろうという事。人知を超えた力を扱うには、人の体は脆過ぎるのだ。
「姉様、あと少しですので、もう少しの辛抱ですので……!」
凛が懸命に前へ進む。広い渡り廊下の下の池では、優雅に鯉が泳いでいた。
あと少しで離れへの階段、というところで椿が体を強張らせて二人して前へ倒れ込んだ。階段に顔を打ちつけなかっただけ幸いともいえるが、椿は美しい顔を苦悶に歪め、まるい額には汗で髪が張りついてしまっている。どうやらもう強がりも限界のようだった。
「どうしよう、兄様を、でもっ―――!」
誰かを呼びに行けばいい。だが、こんなところに椿を置き去りにしていくことなど出来なかった。
服の袖で椿の額に浮かんだ汗を優しく拭いながら、目頭が熱くなってくる。何て非力なんだ、姉様を、好きな女の人一人抱えて運ぶことすらできないなんて……!
「何やってんだ?」
そんな折に後ろから声がかかって、滲み始めた涙そのままに凛は振り返った。
「聡慧さん……!」
そこにいたのは、聡慧だった。真っ白のパーカーの上にグレーのジャケットを羽織り、下はスキニーのジーンズ。靴は黒のノーズブーツで、クロスベルトがあしらわれたゴツめのデザインだ。髪は白というか銀色の様で襟足が肩に付くぐらいで、前髪も長く右目だけが隠されている。見えている左目は少したれ気味で、瞳の色は真っ赤だ。凛はこの色彩が生来のものなのか否か常々気になっていた。
「暇だったから来ちゃったんだけど……何?そいつ、どうしたわけ?」
「あ、えっと……」
凛は迷っていた。椿は聡慧に並々ならぬ思いがありそうだが、事情を話していいものだろうか。しかし今ここで手を借りることが出来れば、椿を固い廊下ではなく柔らかなベッドの上に連れていくことができるのだ。今ならば椿も痛みに耐える事に全神経が向いているから聡慧の声に気づいていない。ならば、と凛は立ち上がった。
「持病の様なものでして、体中が痛むんです」
「……ふうん」
一瞬驚いたようだったが、すぐに聡慧は椿に視線をおろした。凛には感情を推し測ることのできない表情だった。
「離れに連れてった方が良いな?」
「お願いできますか」
「本当は断った方が良いんだろうけどな。ま、今なら平気だろ」
なんと、聡慧はどうやら椿に嫌われている事は知っているらしかった。凛は椿を抱えようとする聡慧を目で追う。何故あれほど激しく憎まれ、嫌われているのにもかかわらず手を差し伸べることのできるのか。しかしそうして聡慧を目で追っていたから凛は気づいた。聡慧の手が椿に触れた瞬間、椿の顔から苦悶の色が消えたのだ。
「姉様……?」
「気を失ったんだろ」
確かにそのようだった。だが凛は違和感を覚える。椿がこのようになってしまった時、気絶した事はなかったはずなのだ。痛みが激しすぎて、気を失いかけても一瞬で引き戻されてしまう、と椿自身が語ってくれたのだ。
「ほら、どこに運べばいい?」
「あ、こっちです!」
離れの中は、普通の家と変わらない。食事は母屋から運ばれてくるためにキッチンは簡単な物しかないが、ここだけで十分暮らしていける。
「……良いんだか悪いんだか」
廊下を寝室に進みながら、ぽつりと聡慧が呟いた。凛には聞き取れなくて聞き返すが、聡慧ははぐらかす。
寝室のドア凛が開け、聡慧が扉に椿がぶつからないようにゆっくりと扉をくぐる。そうして、やはりゆっくりと優しくベッドに寝かせた。しかし、聡慧の手が離れた途端椿はカッと目を見開いて、体を反らせる。―――やはり痛みで起こされるのだ!
凛は聡慧に椿の手を取るように促そうとした。しかしそれよりも先に、まるで縋るように椿が自ら聡慧の腕を掴む。
「おっ?」
聡慧は素っ頓狂な声をあげて椿を見つめた。椿はというと、瞬間的に激痛に襲われたせいか息が荒くなっているが、それだけだ。焦点の合っていない虚ろな眼差しでふらふらと視線を彷徨わせると、そのまま何かに吸い込まれるように眠りに落ちていった。その寝顔は酷く青ざめてはいるが、痛みは感じていなさそうである。
「……どういうこと?」
聡慧が、そのままの態勢をたもって凛に尋ねた。
「聡慧さんが姉様に触れている間は、姉様は痛みから解放されるみたいです……」
「なるほどね。つまり、こいつの尋常じゃない様子は持病ではないという事だな」
「そう……そうです。申し訳ないのですが、父と兄を呼んできますのでそのままでいてもらってもよろしいですか?」
「まぁ、それしかないだろう。なるべく早くな」
凛は頷くと、急いで母屋の方へ向かった。聡慧は自分の腕に縋りついている椿の手だけ握るようにして、綺麗に仰向けに直してやる。そうして近くにあった椅子をなんとか引きずって来て腰掛ける。
コツコツと音がして聡慧が窓の方を見ると、烏が小首を傾げながらこちらを見ていた。自由な方の手を振ってやれば、安心したのか楽しそうにぴょこぴょこと跳ねる。
聡慧は一つため息をつくと、青ざめた椿の顔にかかった前髪をよけてやりながら微かに笑った。
「全く、お前も運のない奴だよなぁ……」
その言葉はやけに温かくて、凛が聞いていたら首を傾げただろう。椿が聡慧に向ける感情と、聡慧が椿に向けている感情がまるで違い過ぎている、と。
「細い腕……」
自分と手を繋いでいる椿のほっそりとした手首を見て、聡慧は呆れたように呟いた。そりゃあガタもくるだろう。まったく何たって目をつけられてしまったんだか。運という言葉で片付けてしまうのは少々乱暴かもしれないが、やはりしっくりくるのはそれしかない。奴らはいつも気まぐれなのだから。