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第四章 更なる惨劇 そして決意


 ピンポーン

 ジメジメとした空気の中にチャイム音が鳴り響いた。

 昼食を買いにいこうと俺と瑞希が玄関へ降りてきたとき、智子さんに呼び止められた。「うらら」より飯橋が電話をかけてきたのだ。電話の内容を要約すると「今からこっちへ来い」というものであった。昼を食べてから行くと伝えようとしたが、「今すぐ来い」と念入りに言われたため、仕方なく瑞希と共に「うらら」へ向かうこととなったのだ。

「は〜い」

 間の抜けた少々幼い声(本人が知ったら怒るであろう)がしてドアが開いた。出てきたのは飯橋本人であった。

「あれ? 管理人さんは?」

「ああ、今蓮君とお散歩に出て行ってる」

 そう言うと飯橋は手に持っていた鍵で玄関のドアを施錠した。

「あれ、寛子さん。何で鍵閉めたのですか?」

 すると飯橋は門を開けて俺たちの前へ出てきた。よく見ると背中にはリュックサックと完全にお出かけモードだった。

「なあ、これからどっか行くのか?」

 俺たちはただ「うらら」に来いと言われただけで、何の用意もしていない。「うらら」に呼ばれた理由も聞かされていないのだ。

「うん、実はね、これからもう一度あの廃屋に行ってみようと思うんだ」

 …………。

「あっそう」

 俺は思いっきり他人事な感じで応えてやった。横に目をやると瑞希が顔を引きつらせていた。

「何その私たちは全く関係ありません的な言い方は」

 飯橋は頬を膨らませた。こいつは本当にアホだ。

「あのなあ、お前昨日の一件をキレイさっぱり忘れちまったのか? お前は鳥頭か?」

 俺は飯橋の耳元で思いっきりどなってやった。昨日あんなことになったばかりだってなのに。これ以上俺たちを巻き込まないでくれ!

 飯橋は余程耳がキンキンしたのか、涙目で俺を睨みながら指で耳の穴をほじっていた。

「そんな大声ださなくてもいいじゃないの。私だって昨日言ったでしょ。この事件を調査するって」

 確かに昨晩俺たちは飯橋から、自分はこの事件を調査してみるということを聞いた。しかしそれはあくまで飯橋が勝手にやっていること。俺たちはそれに協力しようなんて微塵も感じちゃいない。むしろ関わりたくない程なのだ。

 俺は瑞希の手を引いて踵を返した。

「ちょ、ちょっと!」

 飯橋は俺のとった行動にかなり動揺した様子だった。

「もうこれ以上、俺たちに関わらないでくれ」

 俺は背中越しに飯橋に向けて決別の言葉を放った。そして足早に「うらら」を後にした。

「そ、壮介君」

 一度瑞希の声がしたが、その後は続かなかった。瑞希としては飯橋を気遣いたかったのだろうけど、俺のマジな表情を見て、それ以上の言葉が出てこなかったのだろう。

 確かに飯橋には少々酷な態度を示してしまった。しかし、俺には俺の都合がある。俺は瑞希を守らなければならないのだ。

 俺たちが去っていく間、後ろからは何も聞こえてはこなかった。飯橋は何も言わなかった。



「何か、雨降ってきそうだね」

 俺たちが「うらら」を後にしてから瑞希が初めて言葉を発した。その言葉に反応して空を見上げると、灰色の雲が空を覆っていた。そういえば今日は朝から雲が多く、じめじめしていた。

 そろそろ一雨くるかもしれない。そう思った瞬間、顔に水分が弾いたような感触があった。

「降ってきたね」

 瑞希も感じたようで俺に伝えてきた。

「走るか」

 俺は瑞希にそう告げて、「うらら」の時から掴んでいた瑞希の手を離した。よく見るとそこにはうっすらと俺の手の後がついていた。あの時は頭に血が上っていたから、けっこう強めに握っていたようだ。

「悪い、痛かったか」

 すると瑞希はニッと笑い、手をヒラヒラさせて見せた。何かこんな瑞希の笑顔を見たのは久しぶりのように感じる。実際には二日ぶりなのだが、昨日という一日があまりにも長く感じられたため、たった一日の間隔がひと月にも一年にも感じられた。

「どっちかって言うと、嬉しかったな。ちょっとだけど」

 その言葉に俺は速くなっていた足取りを少し緩めた。

「だって壮介君のほうから手を繋いでくれたことって殆んどなかったし、しかもあんな問答無用な形では初めてだったから。壮介君、頼もしいって思っちゃった」

 瑞希は目を伏せ恥ずかしそうな様子であった。これも何だか久しぶりに感じるオノロケモードである。

 しかし瑞希は俺より一足先にオノロケモードから素に戻った。

「寛子さんには申し訳ないけど、私もどっちかって言うとこの事件にはこれ以上関わりたくないかな。調査って言っても、それは警察がやることだし、私たちが付け入る隙なんてあるわけないよ」

 確かに瑞希の言うとおりである。昨日俺たちがあの廃屋で死体を発見した時点で、この件は俺たちから警察へと移っているのである。下手に手を出してどんな火傷をするか判ったもんじゃない。

「でも、壮介君。やっぱり寛子さんにさっきはちょっとキツく当たりすぎたよ。後で電話して謝っておこう」

 まあ瑞希の言うとおり、あのときの俺はけっこうキツい態度で飯橋に当たってしまった。いくら本人の行動に原因があるとはいえ、冷静さを欠いたまま別れるのは後味が悪い。後でちゃんとフォローしておかなかればならないのかもしれない。

 そんな事を考えているうちに空から降ってくる雨粒は肉眼でも判るくらい、多く大きくなっていた。



 ザーッ

 俺たちが雨粒を肉眼で確認してから数分も経たないうちに、雨はバケツをひっくり返したかのようになっていた。大粒の雨が地面や俺たちの身体に容赦なく叩きつけてきた。俺たちは全力で走り何とかずぶ濡れになることなく「しまだ」に到着した。

 玄関に入ると智子さんが俺たちにバスタオルを渡してくれた。食堂の窓から俺たちの走ってくる姿が見えたそうである。俺たちは身体を一通り拭いた後、着替えるために部屋に戻った(といっても、瑞希とは別々にだが)。

 ロビーで瑞希が出てくるのを待っていると、フロントの電話が鳴った。三回くらい鳴ってから智子さんがやってきて電話を取った。二言三言言葉を交わすと、チラッと俺の方を見て次の瞬間、ロビーに電話の保留音が鳴り響いた。

「新谷さん、お電話です。飯橋さんからです」

 智子さんはそう言って受話器を俺に向けてきた。

 俺は少しドキッとした。こちらから連絡しようとは思っていたが、まさか飯橋の方から連絡がくることは思っていなかったからだ。俺はフロントの電話に近付き、保留を解除して恐る恐る受話器を握った。

「はい、もしもし」

 俺は一瞬息を飲んだ。向こう側から声が聞こえてくるまでの時間がすごく長く感じた。

「は〜い、もしもし〜」

 すると受話器から聞こえてきたのは間の抜けた、歳の割りに幼い声であった。

「今何か、とても失礼な事を考えたでしょ。まあそれはいいとして」

 だから何でこいつは俺の考えている事が判るんだ!

「あの〜、さっきはゴメンね。ちょっと無神経だったわ。謝るよ」

 飯橋はさっきの「うらら」での一件を真面目に謝罪してくれた。俺もあの時キツく当たってしまった事を謝罪した。

「いいよ。私が悪かったんだから」

 飯橋の話によると、あの時の俺がとった行動で、自分のしている事があまりに軽率なものであるとようやく自覚したのだという。

「私はさ、一人で水崎に来たから、他には全く気をつかわず考えたままで行動できちゃうけど、アンタは違うもんね。瑞希ちゃんがいるからね」

 もし俺が一人で水崎に来ていたのならば、もしかしたらこの事件に首を突っ込んでいたかもしれない。しかし、俺には瑞希がいる。俺は瑞希を悲しませたらいけない。俺が瑞希を守らなければならないのだ。

「悪いな。俺には自分の大切な人を守ることが最優先なんだ」

 すると受話器の向こうで、こっ恥ずかしいような笑い声が聞こえてきた。

「な、何だよ。笑うなよ。俺はメチャクチャ真剣に考えているんだよ」

 俺も言っておいて恥ずかしくなってきたのでムキになった。

「でも、いいわね瑞希ちゃん。なかなか頼もしいカレシがいてくれて。ちょっと羨ましいわ」

 この時から飯橋の語調が少し変化した。いつもの間の抜けた感じではなく、大人びたものになった。

「瑞希ちゃん、アンタといる時さ、凄く幸せそうだよね。私にはアンタの魅力は正直よくわからないけど、瑞希ちゃん見てると何だかアンタが凄くいい男に思えてくるのよね。ホントいいカノジョ持ったわねえ」

 俺はあんまり意識していなかったが、第三者が俺たちをみるとそんなカンジになっているようである。俺も瑞希と一緒にいるのは楽しいと思っている。瑞希が俺といることで幸せそうな表情でいてくれていることは、恥ずかしいことだけど、それ以上に嬉しいことであった。

「大事にしなさいよぅ。マジでアンタにはもったいないくらいの女の子よ」

 それは俺が一番感じている。

「わかっているよ、そんなこと」

 俺は照れ隠しもあってか、ちょっと強い口調で返答した。

「ところで瑞希ちゃんは?」

 瑞希は今着替え中である。俺はそのことを飯橋に伝えた。

「そっか。じゃあ今アンタの隣りには瑞希ちゃんはいないんだね」

 突然飯橋の口調が変化した。さっきにも増してマジなトーンであった。俺は突然の変化に少し戸惑った。

「ちょっとね、アンタの耳に入れておきたい事があるの。誰にも言っちゃ駄目よ」

 いきなりどうしたのであろうか。今までの飯橋の様子とは明らかに違っていた。

「今度の連続殺人事件について私なりに色々調査しているのは言っていていたよね。それについてとんでもないモノを見つけちゃったの。もしかしたら犯人に結びつくようなモノを」

 爆弾発言である。今回の事件の犯人に結びつくかもしれないモノ?それが一体何なのか全く検討がつかなかった。普段なら、横に瑞希がいたなら無視していたかもしれない。しかし今横に瑞希がいない。しかも飯橋の言い方がもったいぶったものに聞こえたため、俺の中にある好奇心が芽を出してしまった。

「な、何だよ、それって」

 俺は飯橋に訊ねた。そのとんでもないモノについて。

「実はね、雨が降ってきてから、あれ……ひっ!」

 その時

 ガタンッ! ガチャッ! ドスン!

 飯橋の声が途切れてから受話器の向こう側で様々な物音が聞こえた。それは受話器が床に落ちた音であろう。受話器が床に落ちたということは、飯橋が受話器から手を離した。つまり受話器を下に落としたということである。

 俺は受話器を強く握り締め、何度も飯橋の名前を呼んだ。しばらくして、受話器から「ツーッ、ツーッ」という音が繰り返し流れてきた。それは受話器が置かれたということ。

 そして、それは……!

 俺は静かに受話器を置いた。俺のただならぬ雰囲気を感じたのか、智子さんが俺の横で固まっていた。

「壮介くーん。終わったよ〜」

 瑞希が着替えを終えて一階へと降りてきた。

「ん、壮介君。寛子さんに電話してたの?」

 寛子  飯橋寛子

「あぁーっ!」

 俺は堪らず絶叫した。そして俺は玄関を飛び出し土砂降りの中を走り出していた。

 後ろからは瑞希の俺を呼ぶ声が響いていた。


 

 俺は雨の中、ひたすら「うらら」に向かって走っていた。髪が濡れようが泥が跳ねようが全くお構いなし。あの飯橋からの電話が不可解な途切れ方をした時、俺はとても嫌な予感がした。飯橋は今回の事件について、もしかしたら核心に迫る何かを知ってしまったのだ。それにより、飯橋の身に危険が迫ってしまった。俺の頭の中は「最悪の場合」でいっぱいだった。できれば考えたくもないことが、何とも言いようのない不安として、俺の頭にへばりついてきていた。

 「しまだ」を飛び出してからけっこう経った。これまで全くスピードを緩めずに走ってきた。もう間もなく「うらら」の建物が見えてくるはず。そう考えていた時、前方の角から俺と同じく「うらら」方向へ走っていく人影が目についた。そしてその影には見覚えがあった。

「管理人さーん!」

 俺の声に前方を走っていた二つの人影は立ち止まり振り向いた。田原加奈美さんと息子の蓮君であった。俺は二人の傍まで行き立ち止まった。俺の意志とは関係なく心臓がバクバクして、肩で息をした。そして今まで気付かなかったが、雨の勢いはやや落ち着いてきていた。

「どうされたのですか?」

 加奈美さんは俺の只ならぬ姿を見て驚きを隠せないようであった。蓮君は怖がっているのか、加奈美さんの後ろに隠れていた。

「はぁ、はぁ、「うらら」には、今誰がいるんですか?」

 今の俺は声を出すことがとても辛かったが、飯橋の安否が最優先だったため、搾り出すように訊ねた。

「はあ、寛子さん一人だと思います」

 そう言えば、飯橋は「うらら」の鍵を持っていた。飯橋の話によると、加奈美さんと蓮君は散歩に出かけていると言っていた。

「私と蓮は今まで散歩に出ていたのです。その途中でこの夕立にあって、しばらく雨宿りしていたのですが、先程から雨が少し弱くなってきたので、今のうちに戻ろうと思っていたのですが」

 そして加奈美さんの表情が険しくなった。

「何かあったのですか?」

 そうだ、こんな所でへたり込んではいられない。早く「うらら」に向かわなければ。俺は二、三度深呼吸して前を向いた。

「管理人さん。俺もよくわからないけど。飯橋の身に何かあったみたいなんです。事は一刻を争います。早く「うらら」に向かいましょう!」

 そして後ろから瑞希の声も近付いてきた。

 俺と瑞希は加奈美さんから鍵を預かり、一足先に「うらら」へと向かった。加奈美さんが遅れるのは蓮君が俺たちのスピードについて来れないからであった。瑞希も傘もささずに走ってきたため、折角着替えた服がずぶ濡れになっていた。

 そして俺たちは「うらら」の前に来た。門は開いていた。俺は門には一切手を振れず敷地の中へと入った。瑞希も後に続いた。

 俺は玄関のドアノブに手をかけた。瑞希の方を見るととても不安気な表情をしていた。

「大丈夫だよ。壮介君」

 しかし意外にも瑞希の声はしっかりとしていた。もしかしたら、瑞希から見た俺の表情は今までにないくらい不安気なものだったのかもしれない。

 俺はドアノブを引いてみた。するとカチャリという小さな音と共に、扉は開かれた。鍵はかかっていなかった。

「瑞希、お前はここで待ってろ」

 俺は最悪の事を考えていた。もしここで待っているのが「最悪の事」ならば、瑞希は昨日の二の舞だ。俺は瑞希にそんな辛い経験をもうさせたくなかった。

 しかし、俺の思いとは裏腹に、瑞希は俺から離れようとせず、俺の手をギュッと強く握り締めてきた。

「私は大丈夫。壮介君がいるから。さ、行こ」

 俺よりも先に瑞希が館内に足を踏み入れた。俺たちは玄関で靴を脱ぎ、中へと入っていった。

 俺はあたりを見回した。すると一つかすかにドアが開いている部屋があった。確かここはリビングだ。俺はこの部屋から異様な雰囲気を感じた。それは瑞希も同じようで、俺たちは同じ所を凝視していた。

「いくぞ」

 先に声を発したのは俺だった。瑞希の手を強く握り締め一歩一歩リビングへと近付いていった。

「開けるよ」

 ドアの前に来た俺たちは一度お互いの顔を見合わせた。そして瑞希がドアノブに手をかけた。

 ギイィ

 ドアを開けると、部屋は真っ暗だった。このリビングには遮光性の強いカーテンが使用されているようで、雨空ということもあって、とても昼とは思えない風景だった。そんな部屋を俺たちは目を凝らして覗いた。

 すると、俺の手を握る瑞希の手の力が強くなった。そして小刻みに震えている。そして眼が暗闇に慣れてくるにつれて、リビングの床の上に何らかの影を確認していた。

 ふと横を見ると壁に電気のスイッチがあった。俺は震える手を伸ばし、スイッチを押した。

「ひっ!」

 瑞希が最早声にならない声を上げ、俺の身体にしがみついてきた。かく言う俺も驚きのあまり瑞希の身体に抱きつくような格好になった。

 俺たちは凍り付いていた。

 俺たちの視線の先には、一面血の海の化した床にうつ伏せになって横たわる、飯橋の変わり果てた姿があった。



 俺と瑞希は飯橋の部屋にいた。今までの人生の中で経験などしたことのない「混乱」を落ち着かせるために必死であった。この部屋に入ってから俺も瑞希も無言であった。しゃべる余裕すらないのである。瑞希はベッドの上に蹲り、俺は壁にもたれて床にだらしなくうなだれていた。

 警察へは加奈美さんが通報してくれた。俺たちはあまりの衝撃でそれすら考えが及ばなかったのである。ただ、瑞希は前回のようなパニックを起こすことはなく、比較的落ち着いていてくれた。

 五分程前にパトカーが近付いてくる音が聞こえた。今一階では警察が現場検証をして、飯橋の遺体を運び出そうとしているのであろう。

 何でこんなことが起きたのであろうか。俺は一昨日からの流れを振り返ってみた。俺と瑞希は撮影旅行のために水崎へやってきて、撮影の最中に飯橋と偶然出会って、そこから意気投合して、一緒に撮影をした。その夜、この部屋で瑞希の撮影したビデオをみんなで観た。そこに変な影が映っていて、次の日その影を確かめに行った。そこで俺たちは死体を発見してしまった。

 ここから全てが始まった。俺たちはあの「影」に気付いてしまったばっかりに、このあまりに残酷な惨劇に巻き込まれてしまった。あんな「影」に気付かなければよかった。あの「影」は触れてはいけないものだったのだ。

 何がいけなかったのだろうか。俺の何が悪かったのだろうか。俺はこの件に関わるのを嫌がる瑞希の傍にいた。瑞希を守るために、飯橋の好奇心を破壊してやらなければならなかったのだ。でも、俺の中にはごく小さな飯橋と同じ「好奇心」があった。その小さな俺の弱さがこの事態を招いてしまったのではないだろうか。もし殺人は防げなかったとしても、少なくとも俺たちが関わることはなかった。飯橋も死なずに済んだのではないのだろうか。俺が全部悪いのだろうか。俺が悪かったのか。

「だめだよ」

 不意に俺の身体を何かが包み込んだ。それは少し汗ばんでいるが、とても気持ちよくて、心が落ち着いていくのが判った。その正体は瑞希であった。

 「壮介君は何も悪くない。みんなをちゃんと守ってくれた。自分を責めちゃ嫌だよ」

 瑞希の声も震えていた。怖い気持ち、不安な気持ち、そして自責の思いは俺と同じ、若しくは俺以上なのかもしれない。それでも瑞希は、俺にこんな優しい言葉をかけてくれた。

 これ以上ないくらい、カノジョの温かさを感じた。ずっとこうしていたい。

 違う。瑞希は震えているのだ。

 どうした新谷壮介!

 俺は瑞希を守ると誓ったんじゃないのか。なのに今は逆に瑞希の優しさに甘えようとしている。俺がこのまま沈んでしまったら。瑞希はもっともっと沈んでいってしまう。そんなことは絶対に駄目だ。ダメだ!

 俺は瑞希の身体を一瞬抱きしめ、そして引き離した。

 俺は頭をブルブルッと振り、立ち上がった。瑞希も俺に合わせて立ち上がった。

 「悪い、瑞希。ちょっとブルーになってたよ」

 俺は申し訳なく思い、瑞希に苦笑いをしてみせた。すると瑞希も苦笑いをした。そうだ、俺たちの思いは一緒なのだ。怖いのも一緒。不安なのも一緒。誰かにすがってしまいたいのも一緒。でも、今自分が何をしたいのか。何をしなければならないのか。その思いも一緒。

 だから言おう。俺と瑞希がやるべき事を。

 「「犯人を必ず見つけ出そう」」

 同じ想い。それを証明するかのように、同じ言葉がお互いの口から出ていた。



 コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

「すみません。警察の方がみえられているのですが」

 声は加奈美さんのものであった。俺と瑞希は一度顔を合わせ、そして意を決し頷いた。瑞希がドアに近付きノブに手をかけた。

 ドアを開くと先頭に加奈美さん、後方には昨日出会った坂刑事の姿があった。瑞希はドアをさらに開き坂刑事を部屋に招き入れた。

「いや、とんでもないことになってしまったねえ」

 坂刑事は苦々しく頭を掻きベッドの上に座った。俺たちも向かい側のベッドに腰掛けた。

「これから遺体発見までの経緯を聞きたいんだけど、大丈夫かな?」

 俺たちは力強く頷き、ここまでに至った経緯を話した。今日の昼、飯橋があの廃屋へ行こうと言ってきたこと。それを俺たちが突っぱねた事。その後飯橋からかかってきた電話の事。電話の最中、突然飯橋の様子が変わった事。そして死体を発見した時の事。一つ一つ思い出して、自らにこの現実を突きつけるように話していった。

「うん、判った。遺体が発見された後の事は田原加奈美さんに聞いたことと同じだね」

 坂刑事は一つ一つを確認しながら手帳に文字を書き込んでいった。

「あ、あの」

 お互いの言葉が途切れた時、これまで頷く程度でしかなかった瑞希が口を開いた。

「死因は……死因は何なのですか?」

 坂刑事はこの質問がきたことに驚いているようだった。何故そんな事を知りたいのかといった感じだ。しばらく間があった後、手帳のページを数枚めくった。

「今検死にまわしているから、正確な事は言えないが、おそらく左胸にある鋭利な刃物での刺し傷が致命傷だろう。だから死因は出血多量による失血死だ」

 俺はそれを聞いて、「ある疑問」が浮かんだ。

「あの、傷は一つだけだったのですか?」

 それを聞いた坂刑事は顔をしかめた。何を聞いてくるんだコイツはという感じであった。少し考えた後、坂刑事は口を開いた。

「ああ、左胸の一箇所だけだ。それがどうかしたのか?」

 そうだ、おかしいのだ。もしこの一連殺人が同じ人物の元で行われているのだとしたら。

「傷が、少ない?」

 瑞希が俺の考えていた事を言葉で表現してくれた。そうなのだ。第一の事件、桂城博敏は顔はおろか頭の形すらも原型を留めていないくらい殴打されて殺されていた。第二の事件、桂城好太郎は身体を十数箇所刺された上、湖に捨てられた。しかし今回の事件、飯橋の「殺され方」は何だかあっさりしているように思えた。俺はその事を坂刑事に話してみた。

「殺人にあっさりもこってりもないんだけどな」

 坂刑事は大きなため息をついた。現場の人間にしてみれば確かにそうである。坂刑事は再び手帳のページをめくった。

「確かにそうだ。桂城博敏は頭蓋骨がメチャメチャになるほど殴られている。身元は指紋と歯型で確認しなきゃならなったよ。これはマスコミに発表はしていないのだが、桂城好太郎の傷は主に胸から上に集中していた」

 そして坂刑事は鋭い視線で俺たちを突き刺した。

「これが何を意味するか、判るか」

 俺は思いついたことを言葉にしていた。

「怨み」

 横では瑞希も頷いていた。もし単純な殺人なら、相手が息をしていないことを確認できればそれで成立する。それ以上手を加えても不毛なのだ。むしろ始末を長引かせる事で自身の身に危険が迫る可能性もある。そんなリスクを背負ってまで、相手の死に拘る理由、それは相手に対する憎悪。相手を八つ裂きにしても飽き足りないような凄まじい憎悪。俺は桂城博敏と好太郎の殺人には、そんな恐ろしい感情を感じずにはいられなかった。

「これはまだ、内偵の段階なんだ。他言はしないでくれよ」

 判る。坂刑事の口調が今までと違う。俺は踏み入れてはいけない所に足を入れたことを確信した。

「君の言う通り、ガイシャの状況から殺人の動機は怨恨の可能性が高い。頭蓋骨を砕いたり、顔や胸をメッタ刺しにするなんて正気の沙汰じゃない。今、桂城家の人間関係を調べているところだ。桂城家内部も含めてね」

 すると瑞希が身体を乗り出した。

「じゃあ、桂城家の中に犯人がいる可能性もあるのですか?」

 坂刑事は瑞希の言葉にニヤリとした。

「桂城博敏は現在の一族の中で一、二を争う豪腕で知られる男だ。まあ親父や祖父譲りなんだろうけど、自分がのし上がるためには一族の人間も蹴落としかねない男だ。「鬼の共喰い」があってもおかしくはないね。尤も、桂城一族に対して怨みを持っているヤツなんて掃いて捨てる程いるってもんだよ」

 鬼の共喰い。自分がのし上がるためには一族の人間を躊躇無く蹴落としていく。それはこの一族が「鬼の一族」と呼ばれる所以なのだろう。今までに聞いた桂城家についての事。そして昨日実際に会った桂城家の人間について考えると、あながち間違ってはいないのかなと感じた。しかしそう考えれば考える程、飯橋の殺され方は妙であった。

「飯橋は水崎の人間じゃない。つい最近旅行でやってきただけなんだ。動機が怨みなわけないんだ。それに……」

 飯橋からの電話。あの時飯橋は、犯人につながるかもしれないモノを見つけたと言っていた。これが殺された理由なのではないだろうか。

「判っている。少なくとも、犯人は飯橋さんを最初から殺すつもりはなかった。しかし、飯橋さんに何らかの証拠を知られてしまったため、口封じのために殺した」

 そう考えれば、話の辻褄があう。しかし飯橋が何を知ってしまったかについては、今となっては闇の中だ。

「しかし、それに関しては断言できない」

 坂刑事は一つ咳払いをしてから話し始めた。

「全ての犯人が同一というのは、現段階では一つの可能性にすぎないんだ。飯橋さんについては犯人が別にいる可能性もある。例えば物盗りの犯行。実はここの世話人の田原加奈美さんの居室に、物色された跡があったんだ」

 俺たちがここへ来た時、鍵は開いていた。つまり、飯橋は鍵を開けたまま部屋に戻ってきた。その時、空き巣が「うらら」に侵入。加奈美さんの部屋を物色している最中に飯橋が下に降りてきた。そこで空き巣を鉢合わせとなり、殺された。

 確かに、それはそれで一応の筋は通っている。しかし何故だか釈然としなかった。飯橋の殺され方はあっさりしているが確実なものである。物盗りで急にバッタリ出くわして、そんな確実な殺し方ができるのであろうか。

 コンコン

 その時、再びドアをノックする音が聞こえた。こちらが返事をする前にドアが開き作業服のようなものを着た男性が入ってきた。帽子には「鑑識」と書いてあった。

「ちょっと失礼」

 坂刑事はそう言うとベッドから立ち上がり、鑑識の男性と一緒に部屋を出て行った。五分程して坂刑事が戻ってきた。

「飯橋さんの死因は左胸を刺された事による失血死でほぼ決まりだそうだ。凶器は鋭利な刃物。傷は心臓にも届いており、ほぼ即死だそうだ。死亡推定時刻は今から三、四時間前だ」

 三〜四時間前。俺が飯橋と電話で話していた頃だ。やはり飯橋は電話の最中に誰かに襲われたのだ。

「それとこの傷には、妙な特徴があるそうだ」

 妙な特徴?それは一体何なんだ。俺と瑞希はベッドから立ち上がった。

「鑑識は専門用語で話したんだが、君らには多分判らないと思うから簡潔に言うぞ。飯橋さんの左胸の傷は刃を水平に突き立てて刺したものではなく、下から上へ突き上げるような感じで刺したものらしい」

 下から上に突き上げる。ということは、犯人は飯橋の懐に潜り込んで刺したということになる。飯橋は身長が百五十センチあるかないかである。そのような刺し方は不自然である。何故そのような傷ができたのであろうか?

 新たな謎が俺たちを包み込んでいった。



 坂刑事と話をした後、俺と瑞希は「しまだ」へと戻った。その頃には外はだいぶ暗くなってきていたので、坂刑事からパトカーで送ってあげようかと言われたが、丁重に断り歩いて帰ることにした。別にやましいことはないのだが、パトカーに乗るというのはあまり気持ちのいいものではないからだ。それに色々と考え事をしたかった。それに関しては瑞希も同じだったようである。

 「しまだ」への帰り道、俺も瑞希も無言であった。自分自身は考え事をしているし、また相手の考え事の邪魔をしたくはなかった。

 何を考えているのか?それは何故このような事件が起こり、犯人は一体誰なのかという事は勿論だが、それら以上に、これから自分たちはどうなるのか、どうすべきなのかという事であった。瑞希の表情を見てみると、俺と同じ事を考えているのが理解できた。なかなかむずかしい顔であった。

 十数分後、俺たちは「しまだ」の前に到着した。瑞希を敷地内へ入ろうとした時、俺の方から口を開いた。

「明日、どうする?」

 すると瑞希は俺の方に振り返った。振り向いた時、瑞希はさっきまでと同じむずかしい顔をしていた。しかし俺と目が合うと、ニッと笑顔をつくった。

「壮介君、今日はらしくないね」

 瑞希は俺の方に歩み寄ってきて、そして俺の横を通り過ぎて「しまだ」の敷地から少し離れた場所で立ち止まった。そこは水崎湖畔へと続く別れ道であった。俺は瑞希の後ろに続いた。

 瑞希は無言のまま湖畔への道を歩き続け、そのまま遊歩道へと入っていった。そして遊歩道の入り口から三分程歩いたところにあるベンチの前で立ち止まり、そこに座った。

「夜になると、ここは肌寒いくらいだね」

 瑞希は上目遣いに俺を見て笑った。何だか少し色っぽい雰囲気だ。

「私……明日ね、寛子さんの遺品を整理しようと思っているんだ。刑事さんの話によると、寛子さんの御家族がこっちにくるのは後になるそうなの。それまでにある程度整理しようかなって」

 本来なら事件が解決するまで、最低でも家族さんが来るまではそのままの状態で置いておいたほうがいいであろう。しかし瑞希にとって、飯橋は短い間の付き合いだったけれど、とても仲良くなれた大切な友達になれたのであろう。だからその友達が生きていた証を、少しでも心に刻みたいと考えいるのであろうか。本当はやめたほうがいいんじゃないかと思うが、ここは瑞希の心情を酌んでやりたかった。

 俺は瑞希の隣りに座り手を握った。

「警察には俺が適当に話しておくよ」

 俺の言葉に、瑞希は無言で頷いた。

「ただし、ビデオカメラの件はちゃんと言うぞ。今日もなんやかんやで言いそびれちまったし」

 そう、俺たちがあの廃屋へ向かった本当の理由はビデオカメラの中にあった。俺がプレゼントしたあのビデオカメラを警察に持っていかれてしまうことを恐れた瑞希が、その映像の存在を隠し続けていた。しかし、この状況になってそんな事は言っていられない。

 俺の言葉の後、数秒の間があってから瑞希は静かに頷いた。

 瑞希は明日自分が何をするべきか答えた。そして今度は俺の番。瑞希と一緒に部屋の整理をするのもいいだろう。しかし、俺はこの事件の深層を飯橋の代わりに探ってみようと考えていた。しかし警察でも対応に苦慮しているような事件を、俺ごときに何ができるのか、それを必死に考えた。

 すると瑞希からある一枚のメモを渡された。

「これ、寛子さんがいつも持っていた手帳を開こうとした時、挟まっていたの」

 俺はメモに目を通してみた。そこには汚い走り書きで住所と電話番号等が記されていた。

 そしてメモ書きの一番下に、桂城銀造という名前が書き記されていた。


 

 翌日、俺は飯橋が会おうとして会うことができなかった、桂城銀造に会いに行くこととなった。素人の大学生がどこまでできるかは判らないが、俺も瑞希も、俺たちを事件に巻き込み、飯橋を殺した犯人をこの手で捕まえたかった。そして、もしこの一連の事件に、桂城一族が絡んでいるのならば、あの廃屋の持ち主であった銀造には、どうしても会いたかったのだ。

 昨晩、俺は智子さんから水崎周辺の地図を借り、メモに書かれている地名を探した。以前に飯橋が言っていた通り、銀造が入所している老人ホームは隣村にあった。調べてみると、俺たちが水崎へとやってきた際に乗ってきたローカル線の沿線であった。といっても、駅から近いというわけではなく、駅からはけっこうな距離があるようだった。これにより半日は潰れてしまうだろう。

 そして瑞希は、昨晩話した通り「うらら」へと赴き、飯橋の遺品整理を行い、警察にビデオ映像を渡すこととなった。正直、瑞希を一人にしたくはなかったが、「うらら」には世話人である加奈美さんがいるから大丈夫だと言っていた。

 俺たちは朝食を摂ってから、準備を済ませてすぐ出発した。「うらら」へは真っ直ぐ向かった。この時点で別れてもよかったが、もし警察が来ていれば瑞希と一緒にビデオの件を説明しようと思ったため、一応ついて行くこととなった。

 「しまだ」を出発して十数分、「うらら」に到着した。パトカー等は停まっていないので、警察関係はまだ来ていないようであった。

 そしてチャイムを鳴らすと加奈美さんが顔を出した。俺が遺品整理の事を伝えると、しばらくの間があった後、中へと促された。

「本当に、大丈夫なのでしょうか?」

 飯橋の部屋へ向かう途中、加奈美さんが心配そうな表情で訊ねてきた。おそらく、警察からは事件が一段落するまで現場の現状を維持するよう言われているのだろう。

「あの部屋は直接関係ないでしょ。警察が何か言ってきたら、こっちに話をまわして下さい」

 俺の答えに、加奈美さんは不安そうな返事をした。まあ、本当はあまりするべきことではないのは俺たちも判っている。これはあくまで俺たちの感情の問題だ。

「あの加奈美さん。一つ聞いていいですか」

 飯橋の部屋の前へ着いた時、瑞希が唐突に口を開いた。加奈美さんは「はい」と言い頷いた。

「私たちがここへ出入りするようになってから、寛子さん以外のお客さんを見ていないのです。なのに、何故この部屋を寛子さんに?」

 確かにそれは気になっていた。瑞希の言う通り、ここで飯橋以外の宿泊客を見ていない。つまり飯橋の部屋以外は全て空き室のはずである。他にも空き部屋がある状態で、何故壁の一部が切り取られている「傷モノ」の部屋なんかをあてがったのだろうか?

 すると加奈美さんは薄く苦笑いをした。

「実は、寛子さんは一週間程前に予約無しの飛び込みでいらしたんです。その時大学サークルの団体様が合宿として宿泊されていたので、この部屋以外は満室だったのです。団体様がお帰りになった後、部屋を変えられるかどうかお訊ねしたところ、寛子さんの方から「このままでいい」とおっしゃられたので、ずっとお使いになられるということになったのです」

 どうせあの飯橋のことだ。今更部屋変えするのは面倒くさいと考えたのであろう。瑞希もそう考えたのか苦笑いをしていた。

「それでは、何かありましたからお呼び下さい」

 下へと降りていく加奈美さんを見送り、俺たちは部屋へと入った。

 部屋はカーテンが閉められているので真っ暗であった。電気をつけると以前に俺たちがこの部屋を訪れた時ほぼそのままの状態であった。

「じゃあ、始めるね」

 瑞希はそう言い、飯橋のカバンの前に座った。その姿を見て、俺も自分のやるべき事をやらなければと思い、部屋を出ようとした。しかしその時、あるものが目についた。切り取られた壁であった。

「なあ、ここ板はめておこうか」

 瑞希に訊ねると頷いたので、クローゼットにしまってある壁の穴を塞いでいた板を取り出した。そして俺はイスを持ち出して足場にした。

「うわ、すんげえホコリ」

 イスに登るとクローゼットの天板部分が確認できるのだが、一面白いホコリが積もっていた。照明の関係上、ここの部分は光が届きにくいのだが、それでも白いホコリが確認できる。飯橋が長期滞在をしているため、メイキングがロクにできていなかったのだろう。天板に息を吹きかけるとホコリがムアッと舞い上がった。

 飯橋の話によるとこの板はネジで固定されていたとの事、瑞希から飯橋のカバンに入っていたドライバーを借りた。が、ここで一つ問題が起きた。板を固定していたはずのネジが見当たらなかったのだ。念入りに探せばどこからか出てくるかもしれなかったが、この作業に長い時間を取りたくなかった。結局、ネジ探しは瑞希にお願いし、俺は「うらら」を後にして銀造が入所している老人ホームへと向かった。



 俺は「うらら」を出発してから、水崎駅へ移動して電車に乗り込んだ。この水崎駅は数日前、俺と瑞希が降り立った駅だ。その時、この駅から先へ進むなんて夢にも思っていなかった。ここから先は本当に見知らぬ土地だ。

 乗客もまばらなローカル線。窓の外に目をやると、眼下に水崎湖は見えた。こうやって見ると、水崎湖はけっこう大きい湖なんだなと感じる。遊歩道からではなかなか一望できないが、この線路はやや高台を通っているため、温泉街やキャンプ場、あの廃屋の近くにあった貸しボート屋も一度に確認できた。

 車窓の縁に手を置いて、景色の移り変わりを眺めていると、水崎湖が視界から消えて電車は山の中へと入っていった。線路と並んで道路があるが、人は勿論車の往来もあまり見かけることはなかった。俺が普段生活している所ではまずありえないことであった。また駅から次の駅への間隔がとても長かった。

 電車は山中、長いトンネルをいくつか抜けていった。そして視界にのどかな田園風景が広がった。それと同時に車内アナウンスがあった。間もなく俺が目指す駅に到着する。

 水崎駅を出発して一時間弱、銀造が入所している老人ホームの最寄り駅に到着した(と言っても、ここからでもかなりの距離はある)。ここからはバスでの移動となる。本数の少ないバスであったが、幸い時間がうまく重なった。俺は駅前に停車しているバスに乗り込んだ。駅周辺だけで言うなら、水崎よりも開けていた。智子さんの話によると、この駅がこの村の玄関口になるそうである。しばらくしてバスが発車。これから再び一時間程乗り物の旅となる。

 駅を出発して丁度一時間。目的のバス停へと到着した。降りる際、運転手さんに老人ホームの住所を確認した。ここから山の方へ二十分程歩く。バス停からそれらしき建物が見えているので迷うことはなさそうだった。

 水崎を含め、この地方は避暑地と知られている。湖畔にいたということもあり、セミの鳴き声はけっこうするが、暑さはあまり感じなかった。しかし今はセミの鳴き声と共に夏の暑さをひしひしと感じていた。俺はリュックからタオルを取り出して頭にハチマキのようにして巻いた。

 一歩一歩進む度に、目指す老人ホームが近付いてくる。それと共に、緊張感も高まってきた。正直、勢いでここまでやってきていた。銀造が俺と易々会ってくれる保障なんてない。もしかしたら門前払いをくらうかもしれない。期待と共に不安も増大していった。

 そして俺は老人ホームの前に辿り着いた。飯橋の残したメモを見る。看板にはメモに書かれたのと同じ施設名が書かれていた。俺はしばらくここから動けなかった。まるで結界が張られたようであった。俺に邪な思いがあって入れないのではない。ここに足を踏み入れたら、もう後戻りできない所まで行ってしまうのではないかという恐怖がそうさせていた。この先で俺が考えている行動を起こせば、もう今まで通りの生活には戻れないかもしれないという漠然とした緊張感が、そこにはあった。

 でもここでは立ち止まれない。俺は瑞希と誓った。飯橋を殺した犯人を見つけ出すため、俺はやらなくてはならなかった。

「アホか。ここまで来たんだ。行くぞ!」

 俺は自分の頬を右手で張り、そして結界の張られた雰囲気を蹴散らすように、老人ホームへと突き進んでいった。



 老人ホームの受付で、俺は銀造との面会を申請した。待つこと数分、面会は拍子抜けするくらいあっさりと許可が下りた。老人ホームの職員さんより、銀造の入所している部屋を教えてもらい、二階へと上がった。俺が訪れた時、二階の広間ではカラオケが催されているようで老人の歌声が聞こえてきた。職員さんによると銀造は部屋にいると教えられた。ということはこのカラオケに銀造は参加していないということになる。それほど容態が悪いのだろうか。ちゃんと話ができるのだろうか。そんな新たな不安が頭をもたげてきた。

「ここだな」

 そして俺は職員さんより教えられた部屋に辿り着いた。ネームプレートには「桂城銀造」となっていた。俺は大きく深呼吸をした。

 コンコン

 俺はノックをして扉を少しだけ開いた。中を覗くと、窓側に置かれているベッドへ横になる老人の姿を確認した。

「失礼します」

 俺は扉を開き、居室の中へと入った。すると銀造と思われる老人はこちらに顔を向けてきた。言葉はなかったが、その目で「誰だコイツは?」というのが感じとれた。

「すみません。突然お邪魔して。僕は新谷壮介といいます。学生で、現在旅行で水崎の方で滞在しています」

 水崎の言葉を聞いて、老人の眉がかすかに動いた。

「失礼ですが、桂城銀造さんですよね?」

 すると老人は無言で頷いた。こちらに対する警戒心はヒシヒシと感じる。

「実は銀造さんにお伺いしたい事があって、突然来させてもらいました」

「何もない」

 俺が話を続けようとすると、銀造の声がそれを遮った。見た目はかなりのご老人だが、さすがは桂城一族、その声にはまだまだ迫力があった。

「何もないというのは?」

 一気に張り詰めた空気の中、俺は銀造に訊ねてみた。しかしそれ以上、銀造は何も言わなかった。

「今、水崎湖で何が起こっているか、ご存知ですよね。僕はそれら事件の当事者です」

 俺は扉を背にして立っていたが、思い切って銀造に近付いてみた。一歩一歩がとても重い。

「昨日、僕の仲間が殺されました。もしかしたらこの事件には、桂城一族が関係しているかもしれないんです。だから、銀造さんんが何かを知っているのであれば、教えてください」

 すると、銀造は再びこちらを向いた。その表情は険しい。

「それを知って、アンタはどうする?」

「犯人を見つけ出す」

 無茶苦茶かもしれないが、俺は銀像の問いかけに即答した。そこまで腹は括っているつもりだ。

 銀造は俺を厳しい目つきで睨んできた。

「やめておけ。アンタのような若者が太刀打ちできるような一族ではない。安っぽい好奇心で首を突っ込むと、痛い目を見るぞ」

 判る。銀造が俺に言っていることはリアルな「警告」だ。下手をすると俺たちの身にも危険があるかもしれない。しかしそれは最初から承知の上だ。

「俺は、やらなきゃならないんです!」

 一瞬、銀造の迫力に圧倒されそうになったが、渾身の思いで言葉をひねり出し、銀造の鬼のような目に喰らいついてやった。

 すると銀造は根負けしたのか、呆れたのか、大きなため息をついた。

「全く、最近の若い者は。何で考えて行動をせんのか」

 それは若者の短所であり、長所でもあると思う。まあ、冷静に考えて俺の今していることは、はっきり言って「向こう見ず」過ぎる。

 銀造は表情を崩した。「やれやれ」という感じであった。

「せっかくここまで来てもらったが、アンタに話すことはないもない。ワシの知っていることは、この間警察に全部話した。それが知りたければ警察に聞いてくれ」

 確か飯橋が言っていた。飯橋が銀造に会うためこの老人ホームを訪れた際、先に警察がやってきていて会うことができなかったと。銀造が言っているのは、その時の事であろう。

「あれから、何か思い出した事はありますか?」

 すると銀造は首を振った。

「そんな……」

 門前払いされる事は予想していたが、「特別には何も知らない」ということは予想していなかった。好奇心によって、変な期待をしていたのか俺は?

「悪いが、アンタに話せるようなことは何もない」

 追い討ちをかけるように銀蔵がそう言い放った。俺は思わずへたり込んでしまった。打ち砕かれた期待と切れてしまった緊張感が相まって脱力してしまった。

「再度忠告しておくが、余所者の素人はあまり関わらん方がいい。ワシもTVや新聞で事件を知っておるが、かなり気味の悪い事件じゃ」

 それは判っている。だからこそ今俺はここにいる。俺たちはこの気味の悪い事件に巻き込まれてしまった。それから抜け出したいから必死に足掻いている。脱出するためには、事件の犯人を必ず見つけ出さなくてはならなかったのだ。

 途方に暮れてうなだれていると、銀造が動いた。銀造の方を見ると、何かを話そうとしていた。そして銀造の口が開こうとした時、

 コンコン

 扉をノックする音がして、扉が開いた。老人ホームの職員さんであった。職員さんは銀造ではなく、俺の方を見ていた。

「あの、新谷壮介さんですよね?」

 職員さんは俺が受付で記帳した時に対応してくれた人とは違っていたので、名前を確認してきた。

「はい、そうですけれど」

 しかし、だったら何故俺の名前を知っているのだろうか?

「うちの方に、新谷さんへのお電話が入っています」

 電話……、一体誰だ? 俺がここに来ている事を知っているのは瑞希とせいぜい智子さんくらいである。この辺はケータイの電波は届くようだが、老人ホーム内へ入る際、電源を切っていたのだ。わざわざ老人ホームへ連絡してくるなんて何の用だ?

「すみません。では失礼します。もし何か思い出したことがあったらここに連絡を下さい」

 俺は手帳を開き、「しまだ」の住所と電話番号、そして自分の携帯番号を書いた紙を渡した。銀造は机の上に置いておけと無言で伝えてきたので、そうすることにした。捨てられないことを祈ろう。

「では失礼します」

 俺は職員さんと共に銀造の部屋を後にし、一階の事務室へと案内された。

 事務室に入り、別の職員さんから受話器を渡された。

「もしもし、新谷です」

 受話器の向こう側はやけにざわざわしていた。

「もしもし、新谷君か? 県警の坂だ」

 電話の主は坂刑事であった。

「どうしたんですか?あぁ、勝手に飯橋の部屋を片付けたり、銀造さんに会いに行っちゃったりした事ですか?スミマセン、坂刑事に相談もなく……」

「それどころじゃないって!」

 坂刑事の声に俺はビクッとした。その尋常ならぬ声は周りの方々にも聞こえたようで、みんなこちらを見ていた。

 そして俺は嫌な予感がした。水崎でまた何かあったんだ。

「そっちで何かあったんですか?」

 俺は恐る恐る訊ねてみた。そして数秒の間があった後、坂刑事が口を開いた」

「君の彼女、岡本瑞希さんが襲われた」

 俺は理解できなかった。坂刑事が言っていることを理解できなかった。え、誰が誰に襲われたって?

「もしもし、もしもし? もう一度言うぞ、岡本瑞希さんが、ペンションで襲われた。現在意識不明の重体だ!」

 ガチャーン

 俺は受話器から手を離していた。そして頭が真っ白になった。

 瑞希が、襲われた……!?

 何故だ! 何故だ! 何故だ!

 俺は爆発しそうな頭で老人ホームから飛び出した。


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