第二章 惨劇のはじまり
一
「今晩、私の泊ってる所に来なよ」
あの後、しばらく俺たちは飯橋と一緒に撮影を行った。そして日が沈みかけ、宿に戻ることになった俺たちにそう誘ってきたのだった。
俺はどっちでもよかったのだが(というか、面倒くさいのであんまり行きたくはなかったが)、瑞希とは完全に「出来上がってしまった」ので、瑞希は行くと即答してしまったのだ。瑞希が行くと言えば俺も行かない訳にはいかない。俺のいない所で何を暴露するか判らないから……。
俺たちは一旦飯橋と別れ、「しまだ」へと帰ってきた。
「あ、お帰りなさいませ」
玄関先で女将さんと出会い、俺たちは挨拶を交わした。
「夕食は六時頃でよろしいですか?」
「あ、はい。お願いします。それと、夕食の後また出かけてきます」
俺は女将さんにそう伝えた。
「どこかお出かけになられるのですか? 夜の湖畔は明かりが少ないので気をつけて下さいね」
「ありがとうございます。ちょっと知り合いが泊っているペンションへ行こうと思ってまして」
「へぇ、どちらの方へ?」
瑞希は別れ際に飯橋から受け取ったメモを取り出した。
「ペンション うらら」
メモにはペンションの名前と、手書きの簡単な地図が描かれていた。
「うららさんですか。それなら前の道を右に出て真っ直ぐですね。ここから歩いて十五分程かかると思います」
女将さんは手振りを用いて俺たちに教えてくれた。
「それでは、部屋の方へご案内してもよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
俺たちは部屋に行くため、女将さんの後をついていった。
夕食とお風呂を済ませた俺たちは、飯橋の泊っているペンションへと向かうことになった。俺は手ぶらで行くつもりだが、瑞希はデジカメやビデオカメラを持っていくようであった。飯橋と会ってからも、瑞希はビデオを撮っていた。それをみんなで鑑賞しようと考えているらしい。
出発前、玄関で瑞希を待つ俺は、食堂から出てきた女将さんと目があった。
「これから出かけられるのですか?」
「あ、はい。瑞希の準備が済み次第、向こうのペンションに行ってきます。そんな遅くならないうちには帰ってきます」
「判りました。一応の門限は十時ですので、よろしくお願いします」
瑞希が来るまでの間、俺と女将さんはしばし談笑していた。
「そういや女将さんは、うららってペンションはご存知なんですよね」
実はまだ見ぬペンションの事が少し気になっていたので、女将さんに訊ねてみることにした。
「はい、存じております」
「どんなカンジの所なんですか?」
女将さんは少し間を入れた後、答えてくれた。
「そうですね。ペンションは今から二、三年程前に、元は民宿だった建物を改装してできたものです。以前は御夫婦で経営されていたのですが、旦那さんが事故で亡くなられてから、奥さんがお一人で切り盛りされているようです」
女性が一人でとはけっこう大変そうだな。あの飯橋って人、迷惑かけてないだろうな?
その奥さんについて聞こうと思った時、食堂の方から声が聞こえてきた。
「智子〜。ちょっと来てくれ〜」
「はーい! すみません。失礼します。」
女将さんは俺にお辞儀をして、食堂へ戻っていった。あの女将さん、智子さんって言うのか。後で瑞希にも教えておいてやろう。
すると、階段の方からバタバタと人が降りてくる音がしてきた。
「お待たせ」
瑞希がカバンを肩にかけて姿を現した。
「ホントに持って行くんだな……」
「うん。寛子さんも撮っちゃったし。一緒に観ようよ」
「はいはい。じゃ、行こうか」
俺は靴箱から靴を取り出して地面に投げた。瑞希は誰かを探しているかのようにキョロキョロしている。
「女将さんなら今仕事中だ。これから出かけるのは俺から言ってあるよ」
「そーなんだ。じゃ問題なしだね!」
そして瑞希も靴を履き、宿を出発した。
「なあなあ、女将さんの名前、智子っていうんだぜ。知ってたか?」
「うん、知ってるよ。予約の時に聞いたから」
ガーン……
夕闇の中、こんな他愛も無い話をしながら、俺たちはペンションへと向かった。
二
「ここみたいだな」
「しまだ」を出て歩いて十五分程、飯橋が書いた地図の通りの道を来た俺たちは、一軒のペンションにたどり着いた。建物自体は少し古い感じがするが、周りの植え込み等は綺麗に剪定されていていた。
〈 URARA 〉
鉄さびの浮いた門に、木製の看板が掲げられていた。間違いなく、ここのようであった。
「チャイム鳴らすね」
瑞希が塀に設置されていたチャイムを鳴らした。
キンコーン
ありきたりなチャイム音が2回鳴った。
しばらく間があって、門の奥に見える扉が動いた。
「はい……」
扉から一人の女性が顔を覗かせた。
「あ、こんにちは。私たち今日こちらに泊っている飯橋寛子さんに誘われて来た者なんですけれども」
瑞希が門に近付いてそう説明した。
すると、女性はニコッと笑い、扉を開けた。
「あなた方ですね、飯橋さんのお客さん。飯橋さんからお話は聞いております。どうぞ中へお入り下さい」
女性は門を開け、俺たちを中へ招き入れてくれた。
「どうも、はじめまして。私は岡本瑞希と申します。こっちが……」
「新谷壮介といいます」
瑞希が言う前に自分で言ってやった。
「こちらこそ、はじめまして。私はこのペンション「うらら」の世話人をしております田原加奈美と申します」
世話人の女性、加奈美さんは再びニコッと笑い、俺たちにお辞儀をした。俺たちも合わせてお辞儀をした。
「ところで、飯橋は今どこにいるんすか?」
そういえば全然姿が見えない。
「飯橋さんは今入浴されております。飯橋さんより、入浴中にお見えになったら、部屋の方へ通しておくように聞いております」
そうして俺たちは飯橋の部屋へと案内された。その間、加奈美さんにこのペンションについて色々訊ねてみた。
このペンション「うらら」は二階建てになっており、一階はフロント・食堂・リビング・トイレ・浴室、そして世話人の居室。二階は客室と倉庫、トイレになっているそうである。
「こちらです。どうぞ」
俺たちは客室の一つに到着し、扉を開けた。
室内は10畳程の洋室で、ベッドが二つにテレビとテーブル・イス、クローゼットが設置されている。
「では、ごゆっくり」
程なくして加奈美さんは部屋を後にした。
「へ〜、見た目は少し古かったけど、部屋はけっこうキレイなんだな」
「そうだね」
俺は二つのベッドのうち、きちんとベッドメイクされた方(もう一つは掛け布団がクチャクチャになっていた。飯橋が使っているのだろう。)に座り、部屋を見渡した。
「ん?」
部屋を見渡していて、ある場所に少し違和感を感じた。それはクローゼットが設置されている壁であった。瑞希も気付いたのか、俺と同じ方向を見ていた。
俺はベッドから腰を上げ、クローゼット側へと近付いていった。そして違和感を感じた場所を凝視してみた。
「なんじゃこりゃ」
俺は思わず声を上げた。
クローゼットが設置されてある壁の隅、天井から下に30センチ四方に壁面がそこだけ途切れていた。
つまり壁に穴が空いているのである。
「何だろうこれ、手抜き工事かな?」
あまりに奇妙な光景に瑞希も首をかしげた。
その時、部屋に向かってくる足音が聞こえた。
「あ〜、お待たせ〜」
ドアが開き、飯橋が濡れた頭で姿を現した。
「すみません、先にお邪魔しちゃって」
「いいの、いいの、気にしないで。それで……」
飯橋は部屋を見渡し、最後の俺の方を向いた。
「しっかし、人の部屋でお盛んなことで。若いっていいわね〜」
苦笑いというか、わけのわからない視線を俺に向けてきた。
「はぁ、何がだよ」
「これよ、こーれ」
飯橋は掛け布団がくちゃくちゃになっているベッドを指差した。
「早くしけ込みたいのは判るけど、別に今夜ここに泊れって言っているわけじゃないんだから、もう少しガマンできなかったの〜ん」
ニヤニヤしながら俺の脇をつついてきた。
……ここははっきり言っておこう。
「アホか!」
耳元で思いっきり言ってやった。
「ちょっと〜。耳がおかしくなるでしょ!」
「しょーもない事を言ってるからだ。大体俺たちが来るのが判っているなら片付けとかんかい!」
「え〜、ちょっとしたジョークじゃないの。それに早くしけ込みたいってのは満更でもないんでしょ」
そ、それは……。
「さあ、どーなの?はっきりしちゃいなさいよ」
今度は鋭い視線で俺の脇をつついてきた。何で俺は責められているんだ。
「あ、あのっ」
瑞希が俺たちの間に入ってきた。いたたまれなくなったのだろう。
「そ、そうなの? 壮介君」
赤面した瑞希が、俺の方をじーっと見つめていた。
瑞希さん、突っ込む所が違います……。
三
「ところで、あの穴は一体何なんだ?」
あの後、二人の追及(?)を何とかかわした俺は、「話題を変える」という事もあり、壁の穴について訊ねてみた。
「ああ、あれね」
ベッドに座っていた飯橋は立ち上がりクローゼットを開けた。
「じゃーん」
飯橋はクローゼットの中から一枚のベニヤ板を取り出した。
「何ですか、それ?」
俺が言う前に瑞希が訊ねていた。
「板よ」
そのまんまであった。
「見たら判るよ。そのベニヤが一体何なんだって聞いてるんだ」
すると飯橋はその板を俺の元へ持ってきた。
「ほら、ここよく見なさいよ」
飯橋はベニヤ板の端を指差した。そこには小さな穴が空いていた。
「ネジ穴?」
「瑞希ちゃん、ご名答」
よく見ると、小さな穴はベニヤ板の四方四隅に空いていた。
「元々はこれで穴を塞いでいたの。加奈美さんの話じゃ、加奈美さんがここへ来る前からこの状態だったみたい。何でも雨漏りでこの部分に大きなシミができたから、ペンションのオーナーが切り取ってしまったんだって」
よく見ると、天井部に幾つかのシミが確認できた。
「じゃ、寛子さんが板を外してしまったんですか?」
「うん」
何の悪びれもなく即答しやがった。
「アホか。勝手に部屋をいじくるんじゃねーよ」
「だって、ここだけ色が違って気になって眠れなかったんだもん。偶然カバンの中にドライバーが入ってたから、思い切って外しちゃったの」
何で偶然ドライバーなんか入っているんだ。
「てゆーか、さっきからアホアホうるさい! ほら、カノジョからもしっかり躾しといて」
「す、すみません」
瑞希は俺をチラッと見た後、申し訳なさそうに言った。俺の保護者かい……。
「別に瑞希ちゃんが誤る事じゃないのよ〜。ところで例のブツ持ってきてくれた?」
「あ、はい!」
瑞希はカバンの中からビデオカメラを取り出した。
「ああ、ホントに観るのね」
二人の雰囲気を見るに、どうやらビデオカメラの件は飯橋の差し金だったようである。瑞希はカバンの中からコードも取り出し、テレビの前に座りこんだ。
「できるか?」
俺も瑞希の隣りに座った。
「ヒューヒュー、お二人さんお熱いねぇ」
「めちゃ古いリアクションだからな、それ」
後ろで冷やかす飯橋という名の「おばさん」に静かに突っ込んでやった。
「これでいいかな?」
「テレビを外部出力にして、再生ボタン押してみ」
すると、真っ暗だった画面が一転して明るくなり、
『おもいでづくり〜』
俺の姿が画面に映し出された。そして……、
『フフフ、フレンチキ〜ス』
…………。
「あんたたち、もしかしてバカップル?」
「…………」
言い返せなかった。
その後、映像の中は飯橋も加わり、俺と飯橋が交互に映し出されていった。俺は撮影している姿。飯橋は瑞希とふざけ合っている姿であった(肝心の水崎湖の風景は殆ど無い)。でも心なしか、俺が映し出されている場面が多い。
「な〜んか、私お邪魔虫みたい」
できればもう少し早く気付いてほしかった。まあ、瑞希の「おもいでづくり」のひとつになれば、それはそれでいいのだが。
「別に、そんなことないですよ。寛子さんとも、すごく楽しかったです」
瑞希が笑顔でそうフォローを入れた。
「え〜、でもこんなの見せ付けられちゃね〜」
そう言って、飯橋はビデオカメラの巻き戻しボタンを押した。
停止ボタンを押した次の瞬間、
『フフフ、フレンチキ〜ス』
親に見せられないようなバカップル映像が映し出されていた。
「あれ?」
何を思ったのか、飯橋は再び巻き戻しボタンを押して、さっきの映像をリプレイした。
「何だよ、もういーだろ。判ったよ、バカップルでいいよ!」
「寛子さん、あんまり観られると恥ずかしいです……」
さすがに瑞希もたまらなくなったようだ。飯橋の手を止めようとした。
「ちょ、ちょっと待って、違うの!」
飯橋の思わぬ真面目な声に俺たちは顔を合わせた。
「お、おいどうしたんだよ?」
すると飯橋は再び映像をリプレイして、
「ちょっと、ここ観てて」
一時停止した映像、ちょうど俺が瑞希にキスされた時、俺の背後に映り込んでいた廃屋を指差した。
「いくよ」
緊張感漂う声で言い、再生ボタンを押した。
…………
「えっ」 「あっ」
俺と瑞希は同時に声を上げた。俺の後ろに映り込んだ廃屋に、一瞬ではあるが黒い影が横切ったのである。
「まだよ。よーく観てて」
問題の廃屋は一旦俺の身体で隠れてしまう。そして十秒程して再び画面に映り込む。
「……!」
俺は息を飲んだ。
廃屋の中で、影が動いていた。それも激しく。この影がもし「人間」ならば、まるで腕を上下させているような動きだった。
「何なんだよ。これ?」
廃屋の中で蠢く不可解な影。何とも不気味な映像であった。
俺は瑞希の方を覗いてみた。その表情は強張っていた。
「な、何なのこれ? もしかして幽霊!?」
瑞希が不安気な声で俺に訊ねてきた。俺は基本的に幽霊の類は信じない方だが、自分の映っている映像にこんな不気味な影が映っていると、そう思ってしまいたくなる。
「知らねーよ。な、何か目の錯覚とかじゃねえの?」
俺は瑞希を少しでも安心させようと強がってみせた。
「どうかな……。映像はけっこう動いたりブレたりしているけど、この影はそれに関係なく独立して動いているよ」
俺も薄々感じていたことを、飯橋が声に出してくれた。
「じゃ、じゃあこれは何だってんだよ!」
すると飯橋は意外と冷静……というか薄く笑みを漏らしていた。
「そうカリカリしな〜い。現段階では私にも何が何だか判らない。それはあなたたちと同じ」
そして飯橋はビデオを停止し、テレビは黒一色となった。
「でも、このまま判らないままでいるのは、と〜っても気持ち悪いでしょ?」
俺と瑞希は頷いた。それと同時に、とても嫌な予感がした。
「だから、確かめに行きましょ!」
「嫌だっ!」
部屋に瑞希の絶叫が響き渡った。
一つ確信を持てたことがある。
飯橋寛子は、空気が読めない。
四
瑞希の「おもいでづくり」のビデオに映っていた不可解な「影」。飯橋の発案の元、俺たちは再びあの廃屋があった場所に行ってみることになった。といっても、こんな夜遅くではなく明日朝イチに出発することになった。ホントの所、飯橋はすぐにでも確かめに行きたかったようだが、ビデオを見終わった時点で八時をまわっており、外灯の少ない遊歩道を行くのは危険なため、俺が説得して飯橋の好奇心を何とか押さえつけた。
「おい、瑞希。あんまり気にするなって」
「うらら」からの帰り道、瑞希は口を真一文字に結び、俺の腕にぴったりくっついて歩いていた。
「うらら」を出発してから一言も口を開いていない。よほど怖いのか。それとも飯橋を止められなかった俺に対して怒っているのか。どっちにしろ瑞希が所謂心霊系を苦手にしているというのは意外であった。因みに持ってきたカバンは持っていない。飯橋がビデオをもっとチェックしたいと言い、ビデオカメラごと「うらら」に置いてきたのだ。
「壮介君……」
民宿「しまだ」の看板が見えてきた頃、小さな声で俺の名前を呼んだ。顔を横に向けると、とても不安そうな表情で俺をみつめていた。
「大丈夫だって。きっと何ともねーよ」
正直、俺もあの映像を観た時はビビッてしまった。でも、目の前に不安に駆られるカノジョがいるのに、情けない顔はできない。俺は笑顔で瑞希の目を見返してやった。
「俺がついているだろ」
瑞希の即頭部に自分の頭をコツンと当てた。
「……痛い」
「もっとひねったリアクションはねーのか?」
俺は苦笑いを浮かべ、今度は頭をくっつけてやった。
「そんなシケた顔してんなよ、アホ」
「アホじゃないもん」
瑞希はスネたような声で返し、ソッポを向いた。でも腕は離さないままだった。
そして「しまだ」の前に到着した時、瑞希の足が止まった。
「どうした?」
すると瑞希はソッポを向いたまま……。
「壮介君のせいだからね」
ポツリと言った。そして続けた。
「壮介君がきっぱり断ってくれなかったから、行かなきゃいけなくなったんだ。もし私に何かあったら……」
そして瑞希は俺の方に向いた。その表情は真剣だった。
「きっちり責任、取ってもらうからね!」
よく見ると、目尻には光るモノがあった。半ベソ状態だ。ここだけ見たらあらぬ誤解をされそうなやり取りであった。
俺は思わず可笑しくなり、吹き出してしまった。
「ちょ、ちょっとぉ!」
瑞希は頬を膨らませた。そんな顔を横目に俺は玄関の中へ入っていった。
そして靴を脱いで上がる際、後ろでふて腐れている、俺のカノジョに言った。
「ああ、絶対守ってやるよ。泣くなよアーホ」
少し照れくさくてこんなカンジになってしまったが、瑞希を守るという気持ちは誰にも負けないつもりである。絶対に危険な目には遭わせない。俺はそう誓った。
五
朝六時、俺と瑞希は水崎湖の遊歩道入り口に立っていた。さすがにこの地方のこの時間帯はひんやりとしており、半そででは肌寒く感じる。まだ朝は早いので、人気は殆んど無い(といっても、昼間は賑やかというわけではない)。犬の散歩をしている人がいるようで、遠くで犬の鳴き声が聞こえる程度である。
「あ〜、ごめ〜ん。おまたせー」
俺たちが遊歩道の入り口に来てから遅れること十分。飯橋が寝癖頭のまま姿を現した。
「言いだしっぺが寝坊してるんじゃない、アホ!」
昨晩、アレだけ嫌がっていたのにも関わらず、約束したからにはと早起きしていた瑞希の不満顔に応えて、激しく突っ込みを入れておいた。
「いや〜。ビデオを何回も繰り返し観ていたら、いつの間にか日付が変わっちゃってね」
飯橋は申し訳なさそうに寝癖頭を掻いた。
「それにしても、昨日あれだけ嫌がってた割に、けっこう律義なのね」
「当たり前だ。俺たち約束は必ず守る」
「ふ〜ん、俺たちねぇ」
飯橋は何かの意味を含んだ言い回しを使い、そしてニヤッと笑った。
あの不可解な影が映っていた場面。それは……。
「はいはい、どうせ俺たちはバカップルですよ。さっさと行くぞ。独り身女」
俺は飯橋に背を向け遊歩道へと入っていった。その後ろに瑞希も続いた。
「あ〜、言ったなー!」
はったりで言ったのだが、どうやら図星だったようである。
俺は後ろでマジに毒づく飯橋を無視して、遊歩道を歩いた。好奇心が無いと言えば嘘になる。でも何より早く瑞希の不安を解消してやりたかった。
俺と瑞希は無言で歩いた。早朝の湖畔、聞こえるのは飯橋の毒と犬の鳴き声だけであった。
七
「何か、凄く吠えているね」
瑞希が口を開いたのは遊歩道に入って二十分程。廃屋がちらほら目に付いてきた頃であった。ここから問題の廃屋まで貸しボート屋を過ぎて十分もかからないであろう。そんな時であった。
俺も犬の鳴き声はけっこう前から気付いていたが、近くに犬の散歩をしている人がいるのだろうと思っていたが、泣き声は一向に止む気配は見せず。むしろその声は大きくなってきているようであった。鳴き声の感じは、じゃれあっている時の楽しそうな声でなく、まるで威嚇をしているような声であった。
「どこで吠えているだろ? だんだん大きくなってきているね」
「ていうか、俺たちが鳴き声の元に近付いているような気がするよ」
俺は瑞希たちを横目に応えた。事実、一歩一歩進む度に、鳴き声が大きくなっているような気がした。
「壮介君……」
瑞希が俺の腕を掴んだ。顔を覗くと、昨晩のような不安気な表情だった。俺は瑞希の手を握ってやった。
それから二、三歩いて、貸しボート屋の屋根が見えてきた頃、
「あれ、吠えなくなった?」
飯橋はポツリと言った。急に犬の声が止んだ。
「犬、どっか行っちまったみたいだな」
もしからしたら、飼い犬の散歩ではなく、野犬同士の喧嘩だったのだろうか。そんな思いを巡らせながら、貸しボート屋の前を通り過ぎようとした時であった。
「ギャーッ!」
遠くで叫び声が聞こえた。それと同時に犬の激しい鳴き声が再び聞こえ出した。
「行ってみよう!」
言うよりも先に、俺は走り出していた。その後に飯橋と瑞希が続いた。
「あそこ!」
飯橋が道の真ん中でへたり込んでいる女性を発見した。
俺たちはその女性の下へ駆け寄った。
「どうしたんです?」
すると女性は震える手で犬の鳴き声がする先を指差した。
「ちょっと、ここ……」
飯橋が俺の肩を掴んだ。そして瑞希も俺の身に隠れ地面にへたり込んだ。俺たちの視線の先にあるもの、それはビデオに不可解な影が映り込んでいた問題の廃屋であった。その奥から、犬の鳴き声が途切れなく続いていた。
俺は一度深呼吸をして、意を決した。
「行くぞ」
俺はそう言い、一歩前に踏み出した。
「壮介君!」
瑞希が俺の身体を引っ張った。
「大丈夫だ。お前はここで待ってろ。飯橋、瑞希を頼んだぞ!」
へたり込んでしまった瑞希を飯橋に任せ、俺は廃屋へと近付いていった。けたたましい鳴き声の元に近付いていくにつれ、これはただ事ではないということを確信していった。
崩れかけた玄関をくぐり、鳴き声に導かれるまま短い廊下を抜け、かつてリビングであったと思われる部屋に出た。
そこには一匹の柴犬がいた。身を縮め、まさに威嚇するような体勢で吠え続けていた。
俺は犬の視線の先を追った。
そこには……。
「!」
俺はあまりの衝撃に言葉が出なかった。
そこには顔が判らない程に頭を割られ、血塗れになった無惨な死体が転がっていたのである。