雪虫
「そんなことしたら、かわいそうだろ」
鼻の奥がつんと痛くなるような、冷たい空気の中。私はちらほらと舞う白いものに、胸いっぱいに吸い込んだ煙草の煙を吹きかけた。
「雪虫が、煙たがってるだろ」
そのしっとりと落ち着きはらった声が、私の手から煙草の箱を没収する。くわえ煙草のまま空を仰げば、薄ぼんやりとしたねずみ色の雲がこの町を包み込むように広がっていた。
それは、一年ぶりに見る冬の空だった。
初雪はまだ、山間部でないと観測されていない。ひどく冷えた朝や夜にみぞれが降ったりはしたけど、真綿のような白い雪は、まだ、目にしていない。
いま、私たちの目の前にある白いものは、にせものの雪だった。
雪のような白いふわふわを身体につけて、冷たい空気の中自由気ままに飛び交う小さな虫。正式名称はトドノネオオワタムシというのだけど、大抵の人はそんな名前知らない。
この虫が飛びはじめると、季節はもうすぐ冬になる。
「聞いてるか? シノブ」
雪虫は、冬の使者といわれていた。
「聞いてるよ。雪虫見てたらついこうしたくなっちゃうの」
「そもそも未成年なのに煙草なんて吸うなよ」
「ユキムラにだけは、その台詞言われたくないわ」
ひらひらと舞う雪虫を肩にとまらせて、嬉しそうに微笑む彼――ユキムラもまた、雪虫とともにやってきて、本物の雪が降ると消えてしまう冬の使者だった。
「今年はちょっと、来るの遅かったんじゃない?」
「俺にも事情ってもんがあるんだよ」
誰もいない公園のベンチに二人で座って、ぼんやりと空を見上げる。携帯灰皿に吸殻を入れるふりをして彼を盗み見れば、ユキムラは去年の彼と何も変わっていなかった。毎年きっちり一年ぶん歳をとって成長する私に対して、彼は去年とまったく同じ顔をしていた。
季節はずれの、褐色の肌と黒い髪。大きな口に白い歯。その切れ長の瞳がこっちを向いて、私はあわてて視線をそらした。
「一年ぶりだな。元気にしてたか? シノブ」
「うん。ユキムラも元気そうだね」
私がほほ笑むと、ユキムラも笑い返してくれる。そして慣れた手つきで箱からライターと煙草を取り出し、口にくわえて火をつけた。
私が十六歳になる年に、彼はこの町から姿を消した。彼とはずっと昔からひとつの約束をしていたから、私は毎年、この季節になるとこの公園で彼が来るのを待ち続けていた。
そんな私のもとに、彼は雪虫とともに会いに来てくれる。初雪が降るまでの、ほんのすこしの間。それが私と彼が一緒にいられるわずかな時間だった。
没収した私の煙草を勝手に吸いはじめたユキムラをもう一度盗み見ると、彼は吸い込んだ煙を雪虫に吹きかけていた。雪虫がかわいそうだよと注意すれば「雪虫見てたらついこうしたくなるんだ」と私と同じことを言った。
「シノブは今年、何歳だっけ?」
「十八歳。今年、受験生」
「そっか、もうそんなになるのか」
赤くて丸いロゴの入った、かわいいパッケージが目印の煙草。それはもともと彼が好んで吸っていた銘柄だった。彼は煙草を吸うとき、長身の身体を猫のように丸める。そして、あごを引きながらフィルター噛む癖があった。
彼がくわえた煙草から、紫煙がゆらゆらと天にのぼっていく。それにいざなわれるように、雪虫たちがあとに続いていく。映画のフィルムを巻き戻したみたいに、空へと戻っていく雪を見ながら、私はそっと息をついた。
「どうしてユキムラは、私に会いに来てくれるの?」
「そりゃ、約束だからだろ」
「大学生は忙しいんじゃないの?」
「でも、シノブとの約束だろ」
大学に進学するために、この町を離れたユキムラ。彼とは子供のころから一緒にいたけれど、歳が三つ離れているから、すれ違いの時を過ごし続けなければいけなかった。私が中学に入学すれば彼は高校に入学する。私が高校に入学すれば彼はこの町を離れる。小学生の間にそのことに気づいた私たちは、ユキムラが六年間のランドセル生活を終えた時に、一つの約束をしたのだった。
『初雪は、毎年必ず一緒に見よう』
どんなに会える時間が減ってしまっても、いつも一緒に遊んでいたこの公園で、初雪だけは必ず一緒に見る。それが、ユキムラの後ろをくっついてまわっていたさびしがり屋の私に、彼がしてくれた約束だった。
けれどその約束は、実は長らく守られていなかった。私は毎年、いつもひとりで、彼を待ち続けていた。
それがある日を境に、彼が公園に姿をあらわすようになったのだった。
「どうしてユキムラは、いまさらここに来てくれるようになったの?」
「……ずっと、守れなくて悪いなって思ったから」
ばつが悪そうに、彼は鼻の頭をかく。その癖は昔から変わっていないなと思いながら、私はそっと彼の手を握った。
「聞いて、ユキムラ。もうすぐ私、ユキムラに追いつけるんだよ」
彼がこの町を去った時。私はようやく義務教育を終えたばかりだった。
けれど今はもう、あの時の彼と同じ十八歳。かつて彼がしていたように、受験勉強のストレスを、隠れてこっそり吸う煙草で発散するようになっていた。
「私も、来年の春にはこの町を出るよ。あの時のユキムラと同じように」
この町を離れたユキムラの姿を追って、私は彼と同じ大学を受験する。長い長い初恋をこじらせてしまった私はもう、彼の歩んだ道を追いかけ続けることしかできなかった。
「きっと来年の私は、忙しくてこの公園に来れなくなるんだと思う。そうしたら、もう約束も守れなくなっちゃう。けど私、ユキムラのいる場所に追いつくことができるの……」
声をつまらせる私の手を、彼がそっと握り返してくれる。手袋をしていないその手は、もうすっかり、冷え切ってしまっていた。
「でもそこに、もう、ユキムラはいない」
彼は、ある日突然。煙草のように、煙になって空にのぼっていってしまった。
「どうして、私のこと、おいていっちゃうの?」
彼のことを、追いかけて追いかけて。でも三つ上の彼にはどうしても、決定的な時間の差があって追いつくことができなかった。
大学の四年間なら、一年だけでも同じ場所で同じ時間を過ごすことができる。そう思って頑張っていたのに、結局それもかなわないまま、彼は私の手の届かないうんと遠くにいってしまった。
ひとり公園に取り残され続ける私のために。雪虫は、ほんのわずかな時間だけでも会えるよう、彼を冬の使者にしてくれたのだった。
「――泣くな、シノブ」
私の目を乱暴にこすった彼が、つないだ手ごと、私を抱きしめてくれる。その身体からまったくぬくもりを感じることができなくて、私はそれにまた涙があふれた。
「私、ユキムラと一緒にいたかったよ」
こうやって、わずかな時間しか会えなくなってしまう前に。手遅れになってしまう前に。ちゃんと彼に会って、自分の気持ちを伝えたかった。
「ユキムラのことが好きだったよ」
でも彼は、それを聞いてくれることもないまま、初雪を見る約束を果たさずに空の向こうに行ってしまった。
「……ごめんな、シノブ」
いまさら、会いに来てくれても意味がない。私が本当に会いたかったのは、あの時の姿のまま時を止めてしまった彼ではなく、私の先を歩き続ける彼だったのだから。
「俺、いつか、必ず戻ってくるから」
「本当に?」
「初雪を一緒に見る約束、絶対に守るから。シノブがこの公園に来れなくなっても、いつか二人で一緒に初雪を見れる日をつくるから」
抱きしめてくれる彼の姿が、次第に、薄くなっていく。ユキムラの身体ごしに見あげた空では、私たちのまわりにまとわりついていた雪虫がふわふわと空に向かってのぼりはじめていた。
「今度こそ絶対に、約束、守るから」
彼の顔が近づいてきて、私は目を閉じた。
鼻先に、彼の吐息がかかる。煙草のにおいの混じった息の中に、少しだけ甘い、冷たい空気が含まれている。それが雪のにおいだということを、私は知っていた。
私の唇に触れたのは、彼ではなく、空から舞い降りてきた小さな雪虫だった。
けれどそれは、あっという間に、唇の上で溶けてなくなってしまった。
彼は今年もまた、初雪を見る約束を守れないまま、冬の訪れを告げ私のもとから消えてしまったのだった。
私が彼の約束を信じ続けた、ある初雪のころ。冬の使者が、私のもとにやってきた。
窓の外では、初雪が降っている。それにはたして気づいているのか、彼は力強い産声をあげながら、私の腕に抱かれていた。
彼は私のなによりもいとしい存在として、初雪の約束を守るために、こうして私のところへと戻ってきてくれたのだった。
END
以前こちらで公開した『雪虫』とタイトルや設定は同じですが、内容はだいぶ変わっているかと思います。
紛らわしいですが、同タイトルで公開しました。