そこに、おもい、しずむ
今の状態を喩えるのならば、「喉が渇いた、水がほしい」と言いながら、自分の手首を掻き切ってそこから溢れる血液を飲み干している最中のような、「呼吸がしたい、息が苦しい」と喘ぎながら、ビニール袋を頭からかぶるような、「痛い痛い」と泣きながら、自分の傷口をほじくりだして肉を掻き出している途中のような、まあつまりはそのような矛盾を孕んだ、どこかおかしい状態なのでありました。
私自身、なぜそのような矛盾を生む行動をしているのか、全くと言っていいほど検討がつかないので、皆様に話して聞かせるには些かあらが目立つ、お話として成立するのかすら怪しい、アホらしくてくだらない文字の羅列となるであろうことが予測できるのですが、如何せん、そろそろ真水が飲みたくてたまらず、苦しくて仕方なくて、痛くて我慢ならないので、お暇ならば付き合ってくださるとありがたいです。
なぜ、今のような矛盾を孕んだ精神状況になっているのか、正直に言えば私自身にも理解ができません。ある日唐突に穴に堕ちてしまって、底のほの暗さが気に入ってしまったのかもしれませんし、私が普段忘れている、“私”を操っている感覚を、不意に思い出してしまっただけかもしれません。つまりは、明確なる理由はないのです。原因は、どこにもない。
ただ、感覚が遠のく意識がそこにはっきりとあり、それが恐ろしくて繋ぎとめようと手を伸ばせば伸ばすほど、感覚が逃げてゆき、色彩が失せて、内側が凍っていくのが分かるのです。なんと説明すればよろしいのでしょうか、私は言葉を多く持ちあわせておりませんので、なにも伝えられる気がしないのですが。
例えば、皆様は本を読んでいるとき、登場人物が怪我をしたとき、自分にはなにも起こっていないのに、登場人物が怪我した箇所と同じ箇所が痛んだりすることはありませんか? 或いは、誰かが泣いているのを目撃したとき、心が締めあげられて、釣られて涙が浮かんでくることはありませんでしょうか。
私は今、それとは逆のことが起こっているのです。
つまり、“自分のことをどこか他人事のように受け止めて、何事にも無感動”になっているのです。
この感覚は、常に私の中に存在する、当たり前なことなのでありますが、普段は忘れ去り、私が私たる確信を得る邪魔をすることは少なく、むしろいつもは他の者と距離が近すぎるのではないかと思うほど身近に相手を感じさせてくれるものです。
が、ある日突然、手足に付いている糸をきつくきつく結んで主張をし、近くにいた誰かとの間に薄い膜を張って、私の視点を高く釣り上げ、傀儡となって笑いふざけ遊ぶ己の姿を見せつけてくるときがあるのです。そういうときは毎回虚しく切なく、苦しく痛い気持ちになるのですが、その感情すら遠くにあり、私自身が手に取ることができない場所で蠢きうずく程度で、事象として認識する程度で、私のこと、自分の感覚、己の感情として感じ取ることができなくなるのです。
有り体に表現すれば、“自分が自分ではないみたいだ”と表現すればよろしいでしょうか。
故に最初のような、喉が乾いても水を飲まず、苦しいにもかかわらず袋を取らず、痛いくせに傷口を開くといったような、己の存在を確かめるような、おかしな矛盾が起こるのだろうと私は解釈しております。
さて。
結局私はなにがしたいのでしょう。
正直言って、綴っている今ですら、自分の現状、状況、感情、その他諸々を理解しておりません。
結局私はなにがしたいのでしょう。
分かりません。
自分を一番知っているのは自分だという言葉があるように、自分を一番分かっていないのは自分だという言葉があります。
私はその両方とも嘘であり真実ではないかと考えています。
私は“私”という登場人物の立ち位置、あらかたの感情、目指している道、歩んできた道、これから選べるだろう道や、“私”が見てきた景色を共有しており、また共有している情報が多いゆえに私は“私”のことをよく知っています。
けれども私は“私”になりきれないので、“私”が今現在考えていること、今現在感じていることや悩んでいることなど、感情のうねりや起伏、なにが原因で泣き怒るのか、なにをすれば喜ぶのかなどの感情面がてんで分かりません。理解できないと言っていい。気色悪いと言ってもいい。
そうです、感情というものは気持ち悪く気色悪い。とても良いものとは思えません。
それでも“私”になるために必要な部品なので、私はそれが欲しくてたまりません。
否、ほしいと思っているのも勘違いかもしれない。私は、ただ、自分が何者かを知りたいだけかもしれない。私が私たる確信を普段得ていると先ほど申しましたが、あれは嘘です。私は私が誰だかわからないし、ただ偶然に、ただの気まぐれで“私”を見つめている別の誰かかもしれません。
だからオリジナルの、唯一無二の、ユニークな感情がほしいのです。ああ、はい、きっとそれだけのためにほしいのです。
私は私になりたい、人間になりたいというと大げさかもしれませんが、人形から進化して魂を得たい、いつまでも傀儡でいたくない、だけれど感情は気持ち悪くて仕方ないからと遠ざけているだけかもしれません、今やっと合点がいきました、ただの我侭でありました、そうですただの我侭です、我侭が言えるということは感情があるのでしょうか、ああ、分かりません分かりません、自分のことだのに、なにも分かりません。
さて。
話を変えましょう。
私は、絶対的に望んでいることがあります。
こんな私でも「これだけは絶対にほしい」と思えるものがあります。
他の誰もが理解できないというであろうものが、ほしいのです。
ここに綴ることを許してください、責め立ててよろしいので、どうか赦してください。
私がほしいものは、死です。
死、死ぬこと。生きることをやめること。生命活動を停止すること。もうこの際表現なんてなんでもいい。死にたいんです、とてもとても、死にたい。
勘違いしないでいただきたいのが、ただ一点だけあります。
それは私が、苦しいから、痛いから逃げる手段で死ぬのであろうと思われることです。私はそんなこと、断じて、ただの一度も感じたことがありません。むしろ苦しみ痛みを感じられるのであれば、私は喜んでそれを享受し、噛み締めて、誰にも譲るもんかと独占するでしょう。
私は逃げるために死にたいんじゃない。
否、死にたいという表現が不適切なのかもしれない。
ならば“確認したい”と言い換えます。
私は私の存在を確認したいのです。
私が生きていたという事実がなければ、私は死ねません。私がそこにいたという真実がなければ、私はいなくなれません。
つまりそういうことです。
ここにいる私が、傀儡でも人形でもなくて、一個人として息をして、感情を持つべきだったはずの人間なのかということを確認したいのです。
肉体的に死にたい。
精神的に死にたい。
社会的に死にたい。
できるだけむごく、痛みを伴って、苦しんで、身体中めちゃくちゃになって、四散して、なんでもいいから、死にたいんです。
さて。
綴っている間に涙がでてきたのですが、これは一体どういうことなのでしょうか。
話を聞いてくださっている皆様に直接お見せできないのが大変心苦しいのですが、ぼろぼろと泣きながら綴っているのです、この涙の意味すら分からないから、私は人間になれないのかもしれません。
人間になりたいなあ。
感覚がほしいなあ。
生きているって胸を張って言えるような人間になりたいなあ。
さて。
改めて死ぬ決心ができたので、私は少しペンを置いて、散歩に向かおうかと思います。
高いところから鮮やかな景色を、白黒のレンズで眺めながら、わざと電柱にぶつかってみたりしながら、歩いてみたいと思います。歩いている感覚あるのかな。わからないけれど。やってみようと思います。うまくできたら褒めてください。
付き合ってくださってありがとうございます。
それじゃあ、いってきます。