第三章 不可解な死 Ⅱ
「愛していなかったのか?」
その問いには、「そうではない」と即答できる。
でも、何かが違った。
パズルによく似ている。私のピースと彼のピースは、一見ピタリとはまりそうだけれど、どうやっても少し浮いてしまう。
多分、そのことに彼も気付いていたはずだ。それを隠すように――――知らない振りをして、強引に押し込んだのだ。
当然、形の合わないピースたちは悲鳴を上げ、どこからか弾ける。何となく形になっていた物も全て消えてしまう。
私と彼は、そんな関係だった。
だけど、根本的な――――わずかなズレの原因は、私にあった。
まだあの人に気持ちが残っていた。それが最大の原因だ。しかし、それを振り切ろうとすればするほど、その気持ちは大きく膨らんでいく。最終的に私は、その気持ちに支配されてしまったのだ。
では、なんで宗治と別れたのか――あの時は必死だった。
宗治には結婚する気なんて無かった。それは付き合い始めから何も変わらなくて、唯一彼を理解できないところだった。
「結婚して何が変わるのか?」
私にだってそんなこと分からない。ただ、ずっと一緒に居られる。
「結婚しなくったって、一緒に居ればいい」
そういうことじゃなくて――――。
そんな口論は何回したか分からない。
そして最後の口論の前に、大輔と出会った。
大輔は優しくて、結婚願望があった。早く子供を産みたい、家庭を築きたいという気持ちも同じだった。
正直なところ、私が将来の伴侶に求める条件は、それだけで良かったのだ。
だから、タイミング良く出会ったこの人でもいいと思った――幸せになれると思った。
そう。そうだ。
私は、幸せになりたかった。ただそれだけだ。
だけど、歯車はうまく回ってくれなかった。結局誰も幸せになることは出来なかった。
幸せを掴もうと手を伸ばせば、いつも不幸や苦労ばかり私の掌に舞い降りてくる。私の何がそうさせるのか、神様が本当にいるなら教えてほしいくらいだ。そして更に厄介なのは、その歯車が色んな人を道連れにして回っているところだった。
こんな気持ちからも、開放されるんだろうか。
本当に幸せになれるんだろうか。
いや、でも――そもそも幸せって何なのだろう?
それすら分からないのに幸せになんて――――…。
彼女の意思とは裏腹に、ゆっくりと意識が途切れていく――――
「――――先生、田村さん意識戻りました!」
「先生、真衣は――――!?」
鈴木医師の部屋に飛び込むと、彼はいつものように書類やゴミに埋め尽くされたデスクの前で、コーヒーを飲んでいた。
すごい剣幕でこの部屋に入ってしまった自分が場違いな気がしてくるが、そんなことはない。この男が悠長すぎるだけなのだ。
三浦と別れてホテルを探していたら、佐々木の携帯が鳴った。真衣の意識が戻ったというのだ。
終電も無くなっていたから、急いでタクシーを捕まえてきたら――これだ。
しかし、もう二度目ともなればさすがに免疫はついている。そして佐々木には、この男に悪気があってこういう態度に出ているわけではないことは分かっていた。
そんなわけで、彼はさほど驚かずに次の展開に進むことができた。
「佐々木さん、すみません夜中に。意識戻りましたよ」
鈴木医師はそう言って、佐々木に前の椅子に座るよう促す。
早く病室に行きたい気持ちを抑えながら、佐々木もそれを受ける。
「意識は戻ったんですが――どうも妙でしてね。で、お願いがあるんです」
「妙?」
鈴木医師は頷いて難しい顔をしながら、
「記憶が無いんですよ」
そう言って、唸った。
「記憶が――そういうことはよくあるんですか?」
素人の考えることだが、長い間意識が戻らないと、朦朧として記憶を無くしていても不思議ではない気がする。鈴木医師も、それには潔く頷いた。
「ええ、まぁあります。しばらく混乱して自分が誰か分からないとか、そういうケースはある」
しかし…とまた唸る。よほど彼の頭を悩ませているらしい、と佐々木は思った。
「自分が誰かは分かっているし、混乱している様子もない。しかし、ここ4年ほどの記憶が無いようなんですよ」
「4年…」
佐々木にとっては、嫌でも引っかかってしまう数字だ。
佐々木の表情を見て、鈴木医師も「そうでしょう?」とため息をつく。
「田村さんは、まだあなたと付き合っていると思っています。自分に夫がいたことも、――もうご存知だと思いますが、ご両親が亡くなったことも、全て忘れてしまっている。あなたと別れてから起きた出来事が彼女の記憶から消えてしまっているんですよ」
鈴木医師は椅子を回転させながら、コーヒーのプルトップをカチカチと鳴らした。
佐々木は愕然とした。そしてやはり彼の中にも、恐らく鈴木医師が感じているであろう違和感が生まれる。
そんなことが果たして本当に起こり得るのだろうか――?
「まぁ、そんな状況なので――まずは彼女に話を合わせてください。今もまだ彼氏でいるっていう顔でお願いします」
彼は合点のいかないまま頷き、鈴木医師の後に続いて部屋を出た。
「先生、演技をしている、ということは――――」
佐々木は階段を上がりながら、鈴木医師の背中に問いかける。彼はまた唸りながら、首を振ってみせる。
「それなら分かりやすいんですがね――自分の都合の悪いことを忘れてしまいたい、という理由が明確だ。
しかし、彼女のは――うーん…言葉じゃ説明しずらいですね…まあ、会ってみれば分かると思います」
彼はそう言ってからポツリと呟いた。
「しかし、人間の脳みそはそんな都合よく出来ていない――――自分の嫌な記憶だけを消すなんて、
そんな都合のいいようには」
「…………」
医学のことは全く分からないが、佐々木にもそれは分かるような気がした。
真衣の病室の前に立つと、あまりにも自然に病室の扉を開ける。佐々木も一度深呼吸をしてから、それに続いた。
ベッドをリクライニングにした状態で、真衣は座っていた。
色んな機械に繋がれてはいるが、扉が開いたのにすぐ気づき、顔ごとこちらを向くことはできた。
4年前と変わらない瞳が、佐々木を見つめて微笑んだ。
「宗ちゃん、来てくれたんだね」
鈴木医師は何やら機械をいじったり、カルテを見たりしている。2人で話せ、ということなのだろう。
佐々木はなるべく自然に笑うように心がけながら、ベッドの横に置いてある丸椅子に腰掛けた。
「ごめんね、こんな夜中に…仕事じゃなかった?」
佐々木は笑いながら答える。
「ああ、こんな時間は矢上――――」
と言い掛けて、言葉を飲み込む。真衣と付き合っていた頃はまだ警察官で、この時間も勤務していることはザラだった。どう補填しようか考えていると、真衣がため息をついた。
「もう、また矢上さんに仕事押し付けてきたんじゃない!?ダメじゃんよ~~」
佐々木は、その口調にドキリとする。
4年前の真衣と、全く変わっていないのだ――――。
彼は動揺を表に出さないように、なんとか言葉を探す。仕事柄そういうことは得意なはずなのに、一番大事なときにその能力が発揮できない。
「いいんだよ、困ったときはお互い様だから。――――それより、気分はどうなんだ?」
佐々木はそう言いながら、真衣の手を取ってみた。やはり、枯れ枝のような手――真衣は何の疑いも無く、その頼りない指で握り返してくる。妙な懐かしさが、佐々木の中に甦る。
「うん、まだモヤモヤするけど問題ないよ。でもそんなに疲れてたかなぁ…自覚無いんだけど」
点滴をされている方の腕で頭を掻いてみせる。疲労で倒れた、ということになっているようだ。
しかし本人の言うとおり、目は本当に活き活きとしている。自殺未遂で意識不明、アルコール依存症患者とは全く思えない。
「ねえ宗治、心配した?」
いたずらっぽく笑いながら、彼女は佐々木の顔を覗きこんだ。それがあまりにも久しぶりすぎて、彼は一瞬ごもってしまう。
「え、あ、そりゃね」
真衣は頬を膨らませる。
「なにそれ!そこはもっと心配してなきゃだめでしょ!」
そう言って、佐々木の腕を叩く。
そのやりとりは、付き合っていた頃と全く変わらなかった。2人で冗談を言い合いながら、ふざけあっていた。
しかし、それは内面の話だった。
彼の腕を叩いた彼女の腕は、確かにやせ細っている。顔や体も、当時の彼女とは比べ物にならない。そこには確かに、4年の歳月が流れているはずなのだ――――。
「無事で良かったよ」
しかし佐々木は、心の底からそう思うことが出来た。そして真衣を力強く抱きしめる。今にも折れてしまいそうな彼女の体は、それに必死で応える。
「…ごめん、心配かけて」
頼りない彼女の体温を感じながら、4年の歳月なんてこの際どうでもいい――そう思えてしまう。
そこへ、鈴木医師の声がする。
「では、目が覚めたばかりですし、今日はこの辺にしましょう」
真衣は軽くため息をつくと、佐々木の背中をポン、と叩いて離れる。
「もう先生、ホントに厳しいよね~感動の再会ってやつなのに…。もうすっかり元気ですよ」
鈴木医師は笑って答える。
「そう思えても体の中はどうなってるか分かんないんだから、ダーメ」
「はいはーい…」
そのやりとりは、何だか見ていて微笑ましい。人懐っこい真衣らしい。
「宗ちゃん、次いつ会える?」
佐々木の手を握って、猫のような視線を向ける。
その仕草も懐かしすぎて、彼は両手で彼女の手を握り返した。
「明日。明日また来るよ」
彼女の表情が一気に明るくなる。
「ホント!?楽しみにしてるね」
「ああ、俺も」
それは演技でもなんでもない。佐々木の本心だった。
やりとりが終わったのを確認して、鈴木医師は扉を開けた。佐々木は名残惜しさを振り切るように踵を返すと、そのまま病室を後にした。
階段を下りながら、鈴木医師が口を開く。
「どうでした、田村さんの様子は…?」
佐々木は複雑な思いをどう表現したらいいのか分からず、とりあえずありのままの気持ちを答える。
「――――ええ、信じられませんが…当時のままのように感じました」
彼はうーん…とまた唸ってから、一度手を叩いた。どうやら考えても仕方ない、と気持ちを切り替えたらしかった。
「ひとまず様子を見ましょう!精密検査も必要だと思いますしね」
「…はい、分かりました」
さすが精神科医というべきなのだろうか、気持ちの切り替えが上手い。
「あと、真衣さんがショックを受けるようなことは言わないでくださいね。例えばご両親が亡くなった話ですとか…彼女から聞かれたら、曖昧に流しておいてください」
「はい、そうですね…」
階段を下り終えると、鈴木医師は佐々木の顔を覗き込んだ。
「佐々木さん、大丈夫ですか?」
そう言われて、彼は初めて自分が泣いていることに気が付いた。慌てて掌で顔を覆うように擦る。
「何だか安心したもんですから――――」
佐々木の中に滞留していた黒いわだかまりが、少しずつ浄化されているような気がした。
それが偽りの記憶だとしても、今真衣が頼りにしているのは、間違いなく佐々木だ。あの頃と同じように。
その時、佐々木のポケットで携帯が震えた。見ると、警察官時代の同僚からの着信だった。
佐々木は失礼、と鈴木医師に会釈をしてから、素早く電話に出る。
「もしもし――三浦の件は、情報ありがとな。…どうした?」
電話の向こうは少し慌しい。相手は早口で言った。
「その三浦だよ――車に轢かれて、今病院に運ばれた」
「えっ…轢かれた?」
「どうも轢き逃げらしいぞ…あ、ちょっとまた掛け直すわ」
そう言い残し、佐々木の携帯には不通音のみ残される。
佐々木は妙な胸騒ぎを覚えながら、真衣の病院を後にした。