第二章 空白の4年 Ⅲ
浅い睡眠をとった後、冷凍してあった白米をお茶漬けにして、朝食を済ませた。どんな状態でも、朝食を食べなければ力が出ない。
佐々木は電車に乗り込み、東京に向かっていた。
大輔の母親が話していた、真衣が通院していたらしい病院の、目星がついたためだった。
現代人にとって、インターネットは欠かせないアイテムだ。佐々木も、それに頼っている人間の1人である。母親からの話を元にワードを叩き込むと、それらしい病院がすぐにヒットした。
「足で捜査するんだ」
警官時代の古い先輩はそう言っていたが、その作業は無駄に体力を浪費することもある。
その病院は「神崎クリニック」という、アルコール依存症や精神疾患治療の専門病院で、
院長は「神崎勝」。ホームページ上では、仲間意識を強調するような笑顔が印象的な、中年の男だった。
業界では名の通った医者のようで、様々な講習会や学会に、講師として出席しているようだ。
また、鈴木医師も同様に、有名な医者だということも分かった。佐々木はその事実に、少し驚かされた。
彼からは、全くそのようなオーラを感じなかったのだ。よく言えば謙虚なのだろうが。
自分の洞察力に対する信頼が、少し薄くなってしまう。
ホームページの地図通り、最寄り駅で下車した。駅から30分歩く気にはなれず、タクシーを捕まえる。
埼玉寄りの東京だけあって、樹木や公園が多い。療養施設を構えるにはこのような環境が必要なのだろう。
足早に流れていく景色を眺めながら、真衣が通院している姿を想像せずにはいられなかった。
彼女は毎日、夫と2人でこの道を歩いていたのだろうか--。それとも、入院治療に励んでいたのだろうか。
ふと視線を感じてミラーを見ると、運転手の目線がパッと正面に直る。目的地が目的地だけに、彼も素性が気になるようだ。
タクシーでは10分ほどで病院の前に到着した。結局、車内では一言も交わすことなく、領収書だけ貰って車を降りる。運転手も、もし絡まれでもしたら厄介だと思ったのかもしれない。
ホームページでは20周年と記載されていたが、その容姿からは歴史を感じることは出来なかった。
改築したのだろう。真新しい薄ピンク色の外壁に、周囲には名前の分からない木が数本植えられている。
5階建ての建物の一番下の入り口には、曇りガラスの自動ドアが設置されていて、院内の様子が外から見えないようになっている。
この建物からは、「アルコール依存症」「精神疾患」という単語を連想することは困難だった。
「ホテル」と言われたほうが、しっくりいく気がする。
佐々木は曇りガラスの前に立つと、自動ドアのボタンを押した。
受付に座っていた女性が、佐々木を見るなり柔らかい笑みを浮かべてくる。
「こんにちは」
20代半ばのその女性は、えくぼを浮かべながら立ち上がった。
とても感じが良く、容姿の整った女性だ。そしてこの女性からも、病院という印象を与えられない。
そういう空間作りに徹しているのだろう、と佐々木は思った。
「私、佐々木と申します。神崎先生はいらっしゃいますか?」
「s.s探偵事務所」と書かれた名刺を差し出すと、受付嬢の瞳はみるみる曇っていく。
この紙切れを見せるだけで、大抵の人間はこの反応を示す。佐々木はもうこのことに慣れてしまっていた。
「お時間は頂きません。こちらのクリニックの患者さんだった、田村真衣さんについて伺いたいのですが…」
訪問理由を聞いたところで、佐々木に対するイメージが変わるわけではない。
「探偵=胡散臭い」、そういうレッテルを貼られている商売だ。この仕事をしている佐々木自身も、胡散臭い生業だと感じるほどだ。
しかし、この一言で流れを作れることは確かだ。彼女は「少々お待ちください」と椅子に座り直し、受話器を手に取った。目的の人物が、建物内--ないしは近くに居ることは間違いないようだ。
ほどなくして電話に出た相手に、女性は小声で話し始めた。
「あ、先生――今探偵事務所の方がみえて、患者さんについてお聞きになりたいと仰って…」
「田村真衣さんです。現在意識不明なんですよ」
佐々木がすかさず身を乗り出して付け足すと、受付嬢の迷惑そうな視線とぶつかる。
彼は腰の低い笑いでごまかした。
「――ええ、タムラマイさんと仰ってます。…いえ、他に患者さんはいらっしゃいません。
…はい、分かりました」
受付嬢は受話器を置くと、姿勢良く立ち上がった。
「あちらのエレベーターから、5階にお上がりください、とのことです」
佐々木はどうも、と会釈だけすると、背中に不審の念を感じたまま、エレベーターに乗り込んだ。
5階に着くと、ちょうど奥の部屋から中年の男性が出てきたところだった。
グレーのネクタイに焦げ茶色のベスト、緑のチェック柄スラックスを身につけ、髪の毛は威圧感のないオールバックに仕上がっている。髭もきれいに処理されており、その口元にはホームページ上と同じ笑みが作られていた。
同じ医者でもこんなに印象が違うものか--佐々木は鈴木医師の無精髭を思い出し、にわかに苦笑する。
神崎医師は佐々木の前まで来ると、軽く会釈をして右手を差し出してきた。
「初めまして。院長の神崎勝です」
佐々木も神崎医師の手を握り返しながら、
「初めまして。佐々木宗治と言います」
と応える。ひんやりと冷たい手だ。
「立ち話もなんですから、院長室へどうぞ」
彼はにこやかに笑いながら、佐々木を促す。
こないだとは打って変わった、言いようのない安心感に包まれながら、佐々木もそれを受ける。
精神科医というのは本来、人の心を掴むのが上手いのだろう。
院長室の扉を開けると、きれいに整頓された、殺風景な空間が広がっていた。
家具はナチュラルブラウンを基調としていて、所々に高価そうな壺や絵画が、さりげなく飾られている。
部屋の隅の観葉植物が、エアコンの風を受けて葉を揺らしていた。
「患者さんのことでお聞きになりたいことがあるとか--ええと…、すみません。どちらの患者さんでしたでしょうか?最近物忘れがひどくて困ります」
神崎医師はそうこぼすと、コーヒーの支度を始める。佐々木は「私もです」と相槌を打ってから、返答する。
「田村真衣さんです。1年前くらいから、こちらに治療しに来ていたと伺ったのですが」
神埼医師は佐々木の目を見て頷き、うーん、と記憶を辿り始める。
しかし、その手元ではしっかりと2杯分のコーヒーをドリップし、ミルクを添えるという作業をこなし、もう一方の手では書類になにやら書き込んでいる。
佐々木はその時始めて、この男に対して不信感を抱いた。
「田村さん――アルコール依存の患者さんでしょうか?芸能人でいうと、アイドルの大田優子に似ている?」
芸能情報に疎い佐々木には、誰のことなのか皆目検討が付かなかったが、話を先に進めることにした。
「ええ、アルコール依存症だったようです。その田村さんの、当時の症状や様子について伺いたいのですが…」
神崎医師は佐々木に椅子に座るよう促してから、自分も腰を下ろした。
「様子、ですか…カルテを見れば分かると思うが--しかし、佐々木さん。医者には守秘義務というのがあるんですよ…ご存知だとは思いますがね、ハハ…」
一呼吸置いてから、
「まあ、探偵さんと仰るから…事情によっては、お話できる範囲内でしたら、お答えしたい気持ちはあるのですがね…」
佐々木は自分の鞄をあさり、クリアファイルから一枚の書類を取り出した。
「田村さんなんですが、先日自殺未遂を図り、今は意識不明で入院中なんです。そこで、ご家族がその原因を知りたい、と僕に調査を依頼してきましてね…」
佐々木が差し出した書類には、真衣の遠い親戚との調査契約内容が記されている。
もちろん、佐々木が偽造した契約書に過ぎないが、案外この紙切れが功を成すケースが多い。
そして今回も、例外ではないようだ。
神崎医師は真剣に書類に目を通しながら、少し同情の念を含めて言う。
「自殺未遂ですか――それはご家族の方も辛い思いをされていることでしょう。大部分はお教えできないが、力になりましょう」
彼はそう言うと、内線でカルテを持ってくるように指示を出す。佐々木はその隙に、偽造書類をそそくさと鞄にしまい込んだ。
受話器を置き、神崎医師はため息をついた。
「いや、だんだん記憶が鮮明になってきました。田村さん――確か、鈴木先生の所へ回した患者さんですよ」
「鈴木光輝先生ですね」
神崎医師は、ご存知でしたか、とまたため息をつく。
そこへ、先ほどの受付嬢が、カルテを持って部屋に入ってきた。
神崎医師にそれを手渡すと、佐々木には目もくれずに退室していく。
彼はカルテに目を通し、納得したように頷いた。
「そうそう――そうです。こちらの病院で通院治療を始めてから3ヶ月は、とても順調でした。しかし…」
神崎医師は言葉を選びながら、佐々木を見た。
「神崎先生。こちらも守秘義務は守りますし、調べれば分かることも多いですので」
そうですね、と納得した様子で、
「――自殺未遂をしてしまったんです。これは…毎日の通院から、1日置きの通院になった翌日ですね」
「なるほど――通院は毎日していたんですね」
神埼医師は頷く。
「うちのクリニックでは、アルコールを抜き、集団生活に戻る訓練をしているんです。そのためには入院治療が一番効果的なのですが、田村さんの場合、アルコールの依存度はそこまで高くなかったので、通院治療で進めることになったんです」
「そうなんですか――ひとえにアルコール依存症の治療と言っても、相当な苦労があるんですね」
「ええ、それはもう、その通りです。ご家族、ご本人の根気が必要ですから」
佐々木は頷きながら、口を開く。
「通院を1日置きにしたのは、本人の意思からですか?それとも、先生の指示ですか?」
神崎医師は、カルテを見て答える。
「彼女の場合、先ほども申し上げましたが、アルコールの依存度はそれほど高くありませんでした。
それよりも、うつ症状のほうが大きかった。ご主人に毎日付き添ってもらって通院することに罪悪感が強まっていたので、他の患者さんよりも早く、通院回数を減らす許可を出しました」
神崎医師は、遠い目をしてカルテを眺める。
「その責任を感じて、鈴木先生にお願いすることにしたんです。私の専門は、どちらかというとアルコール依存のほうですので…」
そう言うと、彼はカルテを閉じた。それはまるで、記憶に蓋をしているかのようだった。
しかし佐々木は、その蓋をこじ開けなければならない。
「自殺未遂前、兆候などはなかったのですか?」
神崎医師は、首を横に振ってみせる。
「うつ病患者というのは、気分の浮き沈みが大変激しいんです。通院生活を見ていて、回数を減らしても大丈夫だと判断したからこそ、許可したんだと思います」
彼は一度苦笑いしてから、
「すみません。詳しい心情までの記憶はないようだ」
「いやいや、いいんです。参考までに伺っただけですから」
フォローを忘れると、聞き出せる情報も聞き出せない。そういった技術は、警官時代に先輩から叩き込まれていた。
「鈴木先生のところへ転院してからは、ノータッチだったんですか?」
「ええ。引継ぎを済ませてからは、残念ながら私の患者さんではなくなってしまいますので」
佐々木は神崎医師を気遣うように、相槌を打つ。
「しかし――またそんなことがあったなんて…。もう少し、私のほうでも気に掛けるべきでした。軽率な判断で申し訳ないことをしたと、ご家族にお伝え頂けますか」
佐々木に懇願するその眼差しを受けて、彼は大きく頷いた。
「ええ、もちろんです」
それを見届けると、神崎医師はほっと胸を撫で下ろした。
「いや、それは良かった。助かります」
そのままチラリ、と腕時計を確認すると、
「佐々木さん、何か他にお知りになりたいことはありますか?――とは言っても、例の守秘義務がありますので、この位しかお話できないんですが--」
神崎医師は苦笑しながら、コーヒーを飲み干した。このアクションも、精神科医的な退室催促なのだろう。
佐々木も、これ以上の情報が聞き出せるとは思っていなかったし、彼が今日得るべき情報は、既に取得済みだった。
その仕上げとして、最後に1つだけ尋ねてみることにした。
「じゃあ、最後に1つ――」
神崎医師のにこやかな視線を受けながら、佐々木は口を開いた。
「1年前の自殺未遂。本当に兆候に気付かれませんでした?」
一瞬だった。しかし、その一瞬を見逃さないのが、佐々木の生業なのだ。
神崎は元のにこやかで、人の良い精神科医の瞳を曇らせながら、答えた。
「ええ…本当に力不足です」
佐々木はオーバーに手を振りながら、
「いやいや、先生を責めてはいませんよ!失礼なことを聞いてしまい、申し訳ありませんでした」
お互いに愛想笑いをし合ってから、彼は部屋を出た。
受付嬢の冷たい視線を感じながら自動ドアをくぐると、早速タバコに火をつける。
一瞬。
一瞬、眉をひそめ、仮面の下に隠した牙を曝したのを、彼は見逃さなかった。
なにを探っているんだ――――
彼の牙は、その意思を表す象徴といえる。
彼は、何かを隠している。
それを確信できただけで、今日の調査は上出来だ、と佐々木は思った。