第二章 空白の4年 Ⅱ
1日中運転していたおかげで、ガチガチに固まった肩を揉み解しながら、佐々木はハイボールのプルトップを開けた。時刻は深夜一時を回ったところだった。
テレビ前の定位置に座り込むと、まず右手にあるリモコンで、テレビを付ける。そして左手にある電話機の留守電ボタンを押し、用件を確認する。伝言は2件で、1件はくだらないミネラルウォーターのセールス。あとの1件は、彼の部下からの進捗状況報告だった。
「佐々木さん、お疲れ様です。メールしましたが、今日も夫は浮気相手と夢の島クルージングの後、ホテル行きっす。羨ましい限りですよ、マジで――あ、写真も添付しました。時間できたら飲みつれてってください!」
最後のほうは、早口で聞き取りずらい。
彼の部下――矢上聡は、根は真面目な性格だ。しかし、集中力が切れやすく、最後の詰めが甘いという欠点があった。それは、彼らの前職である警察官時代から、何も変わっていない。
「組織」という堅苦しい団体に嫌気が差した佐々木が、起業するために警官を辞める時、仕事でよくペアを組んでいた矢上も、辞職願を提出した。
矢上は佐々木を兄のように慕っていたし、そんな矢上の事を放っておけない気持ちもあり、佐々木はよく面倒を見ていた。頼られるのも、悪い気がしなかったからだ。
正面のノートパソコンを開き、メールをチェックする。
矢上からのメールには確かに、楽しそうにクルージングをする写真や、ぴったりと寄り添ってホテルに入る写真などが添付されていた。
本人たちは夢中で気付かないだろうが、この2人の年齢差からいって、不倫をしているであろうことは、素人目でも明らかだ。
ホテルに向かう依頼人の夫と、腕を組む女の写真を見て、佐々木は違和感を覚えた。
その写真を拡大して見ると、アッシュ系の長い髪を大きめなバレッタで束ねている女性が確認できる。
佐々木が尾行相手女性は、オレンジ色の髪色で、ゆるめのパーマをかけており、その髪は常に肩下まで下ろしていた。
佐々木は急いで返信する。
「相手女性が複数いる可能性あり。顔のアップを撮り忘れるな」
要点だけ書いて、送信ボタンをクリックする。
今の彼には、飲みに行きたいと言う矢上の要望を、応えてやれる気力は無かった。
佐々木は、田村大輔のことを考えていた。
真衣の夫――であった人物である。
真衣の実家から大輔の実家へは、一時間ほどで到着した。
古びた都営住宅の最上階が彼らの住まいで、やたら遅いエレベーターに乗り込み、玄関のチャイムを鳴らした。
出てきたのは髪の明るい、痩せている女性だった。
ドアを数センチだけ開け、怪訝そうに佐々木を見つめた。
その人物は、恐らく40代後半だと思われた。少し若いが、大輔の母親と見るのが自然だろう。
彼は相手の警戒を解くように自然な笑みを浮かべて、丁寧にお辞儀をした。
「突然申し訳ありません。私、私立探偵をしている者ですが…息子さんとお嫁さんについて、お伺いしたいことがありまして――」
「うちには嫁なんて、いませんけど」
ドアの隙間が顔の横幅ほどまで開き、不機嫌そうな視線を浴びせられる。
どうやらここでも真衣が快く思われていないことが、たった数秒のやりとりで分かってしまった。
佐々木は苦笑して一度謝った後、
「息子さん――大輔さんは、今どちらにいらっしゃいますか?真衣さんが意識不明で入院中ですので、それをお伝えしたいのですが…」
不機嫌そうな母親は、一瞬目を見開いてから、フン、と鼻で笑ってみせる。
「――いい気味だわ。早く死んじゃえばいいのにね」
佐々木に聞こえるか、聞こえないかほどの声色でそう呟いた後、今度ははっきりとした口調で言った。
「大輔は、あの女に殺されました」
大輔の母親の話によると、死亡したのは1年前らしい。
真衣と一緒に毒を飲み、大輔だけ死亡した。
恐らく鈴木医師が言っていた「1年前の自殺未遂」がこれだろう。
「あのアル中女の世話に、大輔は疲れきっていたんです―-分かるでしょう?そそのかされたのよ。
そうじゃなかったら、自分から自殺なんてするわけないでしょ」
理恵子が言っていた通り、真衣の飲酒量は尋常ではなかったようだ。
アルコール依存症治療で有名な医者の元へ治療にも通っていたらしい。
「だから、結婚なんてしなければ良かったのよ――あんな、前の男に未練が残ってる女とね。
そうでしょ?あんな女と一緒になるからこんなことに…」
母親はそう言うと、佐々木を睨み付けた。
「あいつ。どこに入院してんの?」
そう言った母親の殺気に、背筋がゾクリとするのを感じながら、守秘義務の説明をして、彼はその場を後にしたのだった。
「前の男に未練が残ってる女と――」
その言葉が佐々木の中に滞留して、黒ずんだ淀みを作っている。
真衣に未練があったことに、佐々木は全く気付いていなかったのだ。
最後に連絡を取ったのは、今から4年前だ。
共通の友人から、彼女が結婚することを聞かされたからだった。
別れてから1年しか経っていなかったし、相手の男は佐々木よりも6つ、真衣より1つ年下という、傍から見ればリスクの高い結婚だった。しかも、真衣がアルバイトをしていた居酒屋の同僚だと言うのだ。職場とはいえ、居酒屋で知り合った男と大して付き合いもせずに結婚を決めてしまって本当にいいのか――――佐々木にはそれが心配だった。そして何より彼自身、真衣が他の男と結婚するという事実に、納得がいかなかったのだ。
電話に出た彼女は、幸せそうな声で言った。
「うん、そうなの。来月には人妻になっちゃうんだね」
その声に、未練の欠片も感じられなかった。そのことに彼は、激しい嫉妬心を抱いた。
彼女に別れを告げられた時から、佐々木の心には未練という名の厄介な雑草が根を張り、奥深くまで伸び続けていた。そして彼の中では、いつかはよりを戻すだろうという漠然とした思いが、無意識のうちに居座っていたのだ。それが、彼女の軽い一言で全て崩壊したのだから、その衝撃はすさまじいものだった。
それ以後どんな女性と付き合っても、真衣の顔や言葉が、何の前触れもなくひょっこりと姿を現すようになった。そして、どんな相手とも、3ヶ月以上続くことが無くなってしまった。
あの時の電話で、何か感じ取っていれば――全てが良い方向に進んでいたのだろうか。
そんな生産性のないことを考えながら、ハイボールを流し込む。程よい苦味が彼の喉を刺激してくれる。
大輔の自殺についても、一度調査する必要がある、と佐々木は考えていた。
彼の母親が言うように、自殺の強要があったのだとすれば、真衣の立場も危うくなる。
もちろん佐々木が知っている真衣には、そんなことはできないはずだった。
しかし、それを前提とするのは――既に無意味だった。
佐々木との空白の4年間。それは、彼女にとってその時間以上の歳月だったのだ。
彼女が目を覚ましたところで、佐々木のことなど気にも留めないかもしれない。
罵声を浴びせられるかもしれないし、殺したいほど恨まれているかもしれない。
しかし…そうだとしても。
今度こそ、目を覚ましたときに、側にいてやりたい。
彼は、そう思うのだった。