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第二章 空白の4年 Ⅰ

佐々木の車は、サンデードライバー達が作り出す渋滞を、ようやっと脱出したところだった。

窓を少しだけ開けると、ひんやりとした空気が車内を駆け抜ける。

彼はタバコに火を付けると、ため息と一緒に煙を車外へ吐き出した。


今朝埼玉の病院を出た彼の車は、一度茨城の自宅と事務所へ寄り、今度は千葉へと向かっていた。仕事柄、長時間車に乗っていることは多いのだが――今日のドライブは、鼻歌交じりとはいかなそうだ。

事務所では、たった一人の部下に、彼が今抱えている仕事の引継ぎを済ませてきた。

ただの浮気調査で、今回も調査対象の夫は、「黒」のようだった。

浮気調査を依頼する人間の大半は、既に浮気を確信している。

それでも数%の希望を捨てられない者、動かぬ証拠を掴みたい者が、佐々木の元へやって来る。

そして不思議なことに、依頼者の人種として多いのが、そこそこ金持ちで、そこそこの容姿を備え、社会的地位もそこそこ、という類だ。

調査結果を聞いた反応は様々だが、泣き崩れるといったパターンは少ない。大抵がプライドの欠片にしがみ付いて、平静を装おうとするのだ。

しかし、額の冷や汗だったり、握り締めた拳の震えといった生理現象までは、隠しようが無い。つまりは、全員が一度はショックを受けていることになる。

浮気調査までするからには、離婚する覚悟だろうとも思うが、一概にそうとも言えない。

話し合った結果、離婚せずに見事関係を修復したり、はたまた浮気を繰り返したりする。依頼人の中には、数回目の依頼という常連客も少なくないのだ。

そこまでして「結婚」にしがみ付く理由が、佐々木には理解できなかった。

妻の場合は働きに出ることなく金を得られるし、夫の場合は家に帰れば温かいご飯があり、綺麗な寝床がある。そういうメリットは理解できるのだが、精神的苦痛を伴ってまで、一緒に生活をしていく理由には

ならないような気がする。


佐々木は、真衣の左手のことを考えていた。

「田村」になってからされているはずの銀色に輝く輪っかが、彼女の指にははめられていなかったのだ。

緊急連絡先に佐々木を指名するほどだ。恐らく彼女は夫と離婚しているか、関係が芳しくなく、別居状態にあるに違いない。しかし、実の父親は彼女が高校生の時に他界してしまっているが、真衣には実の母親とその再婚相手、実の兄が1人いる。何故そちらに連絡がいかなかったのか――佐々木には、それが引っかかっていた。

真衣との空白の4年間を知る手がかりはそこにあると感じ、佐々木は彼女の実家を訪ねることにしたのだ。


真衣の実家に行くのは、別れの挨拶をした5年前以来だった。

同棲生活を3年間もしていたから、彼女の両親は結婚するつもりと考えていたようだったし、年に数回は顔を合わせる間柄だったため、母親は少し涙ぐんでいた。彼はそれを見て、今までの7年間を更に悔やんだ。

佐々木はてっきり、真衣の母親に嫌われていると思い込んでいた。いつまで経っても結婚しないのに3年間も同棲していたし、中絶のことも、娘の態度で勘付いていたかもしれない。そして、付き合っていた期間は、どうしても真衣が佐々木の家に泊まることが多くなり、実家にあまり帰っていなかったのだ。

真衣がそうなったのは佐々木のせいだと思われていそうだったし、実際そうだった。そんな様々な理由を総合すると、彼女の母親は、手放しで喜ぶと踏んでいたのだ。

それだけではない。彼女は涙を流しただけでなく、例年のようにバレンタインデーのチョコを佐々木に手渡し、更には今までのお礼まで告げたのだ。

さすがの彼も、涙を流さずにはいられなかった。

そして、心の底から両親に謝罪し、今までの過ちを悔いた。


しかし、それももう5年も前の話だ。

忘れられた、ということはないだろうが、突然訪ねては迷惑だろう――という気持ちと、真実を突き止めなけらばならない、という義務感とが、佐々木の中で葛藤を繰り返していた。真実に対する探究心は、職業病の一種だろう。


そんな考えを巡らせているうち、彼の車は真衣の実家の前で停車した。彼女の母親が再婚した時に購入したその家は、当初よりは古びていたが、まだまだ築年数の浅さを感じさせる。

玄関へと繋がる階段に置かれた植木鉢の草木も、よく手入れされていた。これらは、当時より種類が増えているかもしれない。

駐車スペースに目をやると、車が2台停まっていた。1台は軽自動車で、1台はワゴンサイズの普通車だ。

佐々木の記憶では、その軽自動車は真衣の兄が乗っていたものだった。もしかすると、ちょうど遊びに来ているのかもしれない――そうなると、両親からの話も聞きずらくなる。

出直そうと思い立ち、エンジンをかけた時、ガチャリと玄関の扉が開いてしまった。彼はギクリとして、反射的に顔を背ける。

サイドミラーで様子を伺ってみると、出て来たのは眼鏡をかけた――そうだ、真衣の兄嫁だ。

真衣とは全くタイプの異なる、真面目そうで、どこか間の抜けた女性だった印象を、佐々木は抱いていた。名前は確か――彼は記憶を手繰り寄せる。――確か、「理恵子」だったはずだ。

理恵子はゆっくりと玄関から顔を出すと、こちらの様子を伺い始めた。家の前に不審者が停まっていることに気が付き、様子を見に来たのだろう。

佐々木は困惑した。このまま立ち去れば、本物の不審者になってしまう。

彼が悩んでいると、理恵子はそろそろと階段を降りて来る。佐々木は腹をくくり、車から出る準備をすることにした。あとはもう、流れに任せる他ない。

車の横に立った理恵子は、エプロン姿だった。嫁として家事をやっていたのだろうか?しかし、佐々木が付き合っていた当初、真衣の母は何でも自分でやりたがる性格だった。

もしかすると――。

「もしかして…宗治さんですか?」

佐々木が開けた窓から、やはりどこか緊張感のない、間の抜けた声が聞こえてくる。

彼は少し驚いてから、答えた。

「…ええ、そうです。よく分かりましたね…お久しぶりです」

理恵子は佐々木の顔を見ると、穏やかな笑顔を浮かべた。

「この車、見覚えがあったんです。真衣ちゃんとお付き合いされていた時から、乗ってますもんね。お元気そうですね」

それを聞いて、佐々木は苦笑した。

そんなに頻繁に会っていた訳ではないのに、よく覚えているものだ。この記憶力を、何でもすぐに忘れてしまう彼の部下に分けてやりたい、と密かに考えてから、佐々木は車を降りた。

「あの、真衣のご両親は居ますか?少し話したいことがあるんですが…」

彼の言葉を聞いた瞬間、理恵子の表情が一気に暗くなった。その瞳から、佐々木がしていた推理の中で、一番悲惨な推測が的中したことが、彼には分かってしまった。

「――2人とも、でしょうか?いつ頃…?」

理恵子は、弱弱しく答える。

「――2年前に。可愛がっていたゴンちゃんも一緒に…本当に、あの時は驚きました」

「心中…ですか?」

佐々木は理恵子を見つめて、聞き直す。理恵子は目を伏せたまま、コクリ、と頷いた。「ゴンちゃん」とは、佐々木にも懐いていた柴犬だった。


彼が知る限りでは、真衣の両親の仲はとても良かった。

もちろん結婚したばかりだったし、2人とも第二の人生を共にスタートさせたのだ。自立した子供のことよりも自分たちの人生を優先して、2人の関係を充実させていた。

そんな2人が何故――いや、しかし、人生には何が起こるか分からないものだ。

理恵子は、車の陰に隠れるようにして、重々しく口を開いた。

「…お義父さん、他に好きな人が出来ちゃったんです。それを知って、お義母さんは鬱になってしまって…。真衣ちゃんも、様子を見にちょこちょこ顔を出してたんですけど、お義母さん病気だし、真衣ちゃんに色々言ったみたいなんですよ…。本気じゃなかっただろうけど――」

「色々って?」

理恵子がこんなに喋る人間だとは知らなかったが、佐々木にとっては好都合だった。彼女もきっと、第三者に話を聞いてもらいたいのだろう。そして、真衣と長期間付き合ってきた「元彼」である佐々木に、ちょっとした仲間意識を感じているのかも知れない。

「一度…偶然聞いてしまったんです。”あんたなんか産まなきゃ良かった、何で生まれてきたのよ”…って。真衣ちゃん、一人で部屋で泣いてました…」

佐々木の脳裏に、中絶手術後の真衣が浮かぶ。

理恵子は彼の様子を伺ってから、歯切れ悪く口を開いた。

「――真衣ちゃん、本当に宗治さんが、好きだったみたいですよ。宗治さんと別れてから、少し様子が変でした…すっかり暗くなってしまったし、旦那さんともすごく仲がいいわけではないし…。だから、お義母さんにそういうこと言われる度に、もっと塞ぎ込んで…アルコール、すごい量飲んじゃってたみたい」

佐々木は、辛いことから逃げ出したいときに、酒の力を借りる真衣の習性を思い出す。

彼が浮気をしていたのが発覚した翌日、彼女が日本酒の一升瓶を抱えていたこともあった。


その時彼は、この4年間で少しずつ、記憶がすり替えられていたことに気が付いた。

真衣は確かに、明るく元気な女性だった。

しかし、人一倍脆く、繊細でもあったのだ。

彼はやりきれない思いをなるべく表に出さないように、理恵子を見た。

「それが原因で、真衣は自殺未遂をしたんでしょうか?」

彼女はそれを聞いて、眼鏡の向こうの小さな眼を見開いた。-―佐々木の推測通り、「前回」の自殺未遂の件も、理恵子は知らないようだ。

「そんな…真衣ちゃんまで…。お義母さんたちのお葬式以来、連絡を取っていなかったんです。でも、まさか…」

この反応からして、嘘は付いていないようだった。ただ、想定外の事実を聞いた、という反応とも違うような気がする。恐らくは心のどこかで、「自殺」という選択肢を選んでも不思議がないことを、彼女は知っていたのだろう。そしてそのことに気付いていながら、事前に防げなかった自分を、少なからず責めている節がある――と佐々木には感じられた。

「真衣ちゃん…お葬式で親戚の方々に、陰口を叩かれてたんです。”真衣が苦労をかけたからこんなことになったんじゃないか”って――そういうのも、もしかしたら全部聞こえてたのかしら――」

理恵子はそう言い終えると、深いため息をついて腕を組んだ。

きっと悲しんでいるのは事実だが、その感情は継続しないような気がした。きっと明日には、心のどこかに追い遣られて、彼女は日常生活に戻っていくことだろう。所詮は他人同士であり、理恵子にも自分の生活がある。それが当然の反応だろうと、佐々木は思った。

それと同時に、そうなれない自分の感情にも気付くのだった。

「真衣のご主人は、今どこにいるんでしょうか?」

「え…大輔くん、居ないんですか?」

理恵子が心配そうに顔を上げる。

どうやら、彼女から聞き出せることはもうないようだった。


彼女に、大輔の実家の住所と、真衣と大輔の自宅住所を聞いた後、佐々木は車に乗り込んだ。

帰り際、2階の窓から真衣の兄が見えたが、佐々木と視線が合った瞬間、カーテンを閉めてしまった。

佐々木はかすかな悲愴感を感じながら、バックミラーに写る一軒家に、別れを告げた。





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