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リセット  作者: sayt.
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第一章 再会 Ⅰ

 佐々木は右手の腕時計を見た。午前2時である。

それにしても、デザインの古い時計だ。就職祝いで父親がプレゼントしたものだから、十四年も前のモデルである。

それでも佐々木は、この時計が気に入っている。彼には、1つの物に執着する癖があった。

その次に、目の前に座っている男にゆっくりと焦点を合わせる。

一向に飲む気配の無い缶コーヒーの側面を爪でカチカチと鳴らし、首と肩の間に受話器を挟んで、通話している。

その電話のコードをたどっても、ゴミやら資料やらで机の上が占領され、本体の在り処は定かでない。

佐々木は何となく、この男はB型だろう、と推測した。

彼がこの部屋に入ったのは、午前1時45分。

それから5分後に電話が鳴ったから、彼は10分間待ちぼうけを喰らっている計算になる。

しかし、そんな佐々木の様子を気にかける素振りも無く、男はのんびりと会話を続けている。

会話内容からするに相手が看護師でありそうなのが、ようやっと佐々木の沸点を抑制していた。

彼は決して短気ではないし、どちらかと言えばおっとりしている部類だと言われる方だった。

しかしこの状況下では、そんな彼でもやるせない気持ちになる。



 彼は2時間前まで、暖房のよく効いた、ホームシアター設備の整ったお気に入りの空間にいた。

佐々木の唯一の心の拠り所と言っても過言ではない場所だ。

サイドテーブルには、大好きなぬか漬けとポテトフライ、サンマの塩焼きとハイボールセットを準備し、

借り溜めした海外ドラマDVDに没頭する手はずを整えた。

今日たまたま寄ったDVDショップで、100円セールをやっていたのだ。

全部で8巻あるDVDを全て借りて、上機嫌で帰宅したというわけだ。

--そこまでは良かった。

3巻があともう少しで終わるという時、彼の携帯電話がけたたましく鳴った。

その瞬間、電源を切っておかなかったことを悔やんだことは、言うまでもない。

しかし仕方なく一時停止し、携帯を覗き込んだ。

表示名はなく、番号のみ映し出されていた。見覚えの無い番号だが、市外局番は048--埼玉県の番号だ。

佐々木は、埼玉県の出身だった。

出るか否か、悩んだ。間違い電話の可能性もある。

はたまた、古い友人かも知れない。それはそれで話が長くなる危険性があり、今の状況では大変望ましくない。

しかし---。

あと数コールで留守番電話に切り替わろうという時、彼は通話ボタンを押していた。

「--はい、佐々木ですが」

電話の向こうでは、何やら慌しく活動している気配がある。電話の主もいささか緊張気味の声色で、

「佐々木宗治さんの携帯電話でしょうか?」

と発した。

彼ははい、と頷く。

声を聞いて、少しがっかりした自分がいた。

「私、埼玉第一病院で看護師をしております、広崎と申します。

 田村真衣さんが今当院に搬送されてきまして、非常に危険な状態です。

 今から来ていただけますか?」

忙しいのか、的確に、要点だけをまくし立てる。

しかしいくら早口でも、その中の1つの単語が、佐々木の心臓にハンマーで殴ったような衝撃を与えるには十分な威力を備えていた。

4年ぶりに聞いた単語だったが、頭の中には常にあった単語だ。

「な、なぜ、僕が」

衝撃で頭が混乱し、とりあえずそう答えるしかなかった。

しかし、33歳の大の大人の対応としては、あまりにお粗末だった。

電話の向こうでもそう感じたのか、一瞬ためらいの間があってから、

「田村真衣さんの緊急連絡先に、佐々木さんが登録されておりますので」

と、再び機械的に答える。

「緊急連絡先…」

佐々木は、オウム返しをするのがやっとだ。

その時、電話越しで機械音がけたたましく鳴った。広崎看護師はそれを聞いて余計に忙しなくなり、

「では、よろしくお願いいたします」

と一方的に電話を切ってしまった。

「は!?え、ま……」

彼はツー、ツー、と言う聞き慣れた機械音に、呆然とするしかない。

画面を何度見ても確かに通話は終了しており、実家の犬が笑っている待ち受け画面が、いつも通り表示されている。

その笑顔を見ているうち、少しずつ頭が回転してくる。


いや、もしかしたら、今の電話は気のせいだったのかもしれない。


彼はそんなことを思い立って、一時停止したDVDをもう一度再生してしまう。

しかし、佐々木の頭の中には、気になるドラマの続きが入り込む余地など無かった。

先ほどの看護師が発した単語が分裂したかのように、彼の頭を占領しているのだ。


彼はもう一度携帯電話の着信履歴を見た。

気のせいではなく、埼玉県の市外局番から、3分前に着暦がある。


田村真衣。

しかし佐々木がピンとくるのは、旧姓である「杉谷真衣」のほうだ。


もちろん、考えることは山ほどあった。

しかしその考えは1つもまとまらず、「杉谷真衣」に関する記憶だけが甦ってくる。


佐々木はそれ以上考えることをやめ、車のキーを手に取り、エンジンを温めていた。

車を発進させた後、DVDも暖房も、部屋の電気もつけっ放しで来たことに気付いたほどだ。



そんな訳で、佐々木は自宅がある茨城から埼玉まで、ノンストップで車を走らせて来たのだ。

そしてこの部屋に入り、ようやく真相が分かると思ったら、これだ。

どんな偽善者でも、少なからず怒りの感情が芽生えるだろう。


ポケットの中でタバコの箱を掴んだその時、目の前の男は受話器を置いた。

しかし受話器を置く本体の在り処が自分でも分からないのか、机の空きスペースに無造作に放った形だ。

受話器からは小さな機械音が鳴り続いているが、男には全く気にしている様子はない。

佐々木にとっても、もうそんな、細かいことはどうでも良かった。

彼は身を乗り出して言った。

「先生。真衣の容態はどうなんです!?」

今の時間で蓄積されたストレスが、語尾に現れてしまう。佐々木はハッとして、軽く咳払いをした。

男はあぁ、あぁ…と呟くように発して、口の上でコーヒーを逆さまにした。

もう入っていないらしい。空き缶は、受話器の上に投げられた。

「いや、意識不明ですね。呼吸もしていますし、心臓も動いてますがね」

まるで世間話でもするような口ぶりに、佐々木は眩暈を覚える。

この男と会話をしなければならない、という現実から逃げ出したい衝動にかられる。

しかし、何の収穫もなく帰るわけにはいかない。

佐々木は嫌気が刺しながらも、口を開いた。

「なぜ倒れたんですか」

佐々木の言葉に、医者は少し驚いた表情を見せた。理由を知らないことが不思議な様子だ。

彼は当然のことのように、

「今回も、自殺未遂ですね」

と、サラッと答えた。

佐々木には動揺を隠す余裕もなく、えっと目を見開く。

「自殺!?…今回もって…」

医者はその反応に、またもや怪訝な表情を浮かべた。

「--以前、一度あるんですよ。その時は病院に向かう途中で、

 意識が回復したんですがね…」

「…そんな…自殺、だなんて」

佐々木には信じられなかった。

少なくとも、佐々木が知っている「杉谷真衣」からは、そんなことをする姿が想像できなかった。

彼の知っている「真衣」は、明るくてやんちゃで、短気で強気な、いつも笑っている女性でしかなかった。


「--ところで」

佐々木が精神を落ち着かせようとしていると、男が沈黙を破った。

「田村真衣さんとは、どのような関係なのでしょうか?」

それを聞かれ、佐々木はまじまじと男を見た。


中肉中背の体型に、ヨレヨレのシャツ。

アジア人丸出しの細い目の下には、隈が張り付いている。

この場所にいて白衣を着ていなければ、彼が医者だと誰も気付かないだろう。

医者として必要な質問なのだろうが--この男には答えたくない、と佐々木の本能が拒絶していた。

全くの野生的な感情だが、意識していない分、これを克服するのはなかなか難しい。

「佐々木さん?どうされましたか?」

「え、あ、はい…」

彼は考え込んでいたふりをして、仕方なく答える。

「私は--4年前まで、真衣さんとお付き合いしていた者です」

「元カレ、ということで?」

「…はい」

「元カレ」と言われると、急に軽い存在になるような気がした。

医者はボリボリと頭を掻いた。何やら白い粉のようなものが散った気がしたが、佐々木は極力視界に入らないよう努めた。

「真衣ちゃんから何も聞いてなかったなー…別れた後も、連絡を取っていたんですか?」

何だか馴れ馴れしいこの医者に、不快感と違和感が合わさった感情が芽生える。

「いえ…別れてから1年ほどは、時々連絡を取っていましたが--彼女が結婚してからは、一切」

医者は頷きながらカルテをめくり、

「なるほど、4年間連絡を取ってなかったわけですね…4年っつうと、真衣ちゃんが通院を始める前か…」

と呟いた。

「通院?」

佐々木がオウム返しするのを聞いて、一瞬「まずい」という表情を作ってから、

「いえ、こちらの話で」

と濁した。どうやら、個人情報をポロッと漏らしてしまったらしい。

それからまたフンフン、と頷きながら、

「4年も連絡を取っていない元カノのために、茨城からわざわざ--断ることもできたのに、何故いらしたんですか?」

「え?」

彼はその質問自体に、違和感を覚えた。

確かにこの医者の言うとおり、彼女と佐々木は既に他人だった。

緊急連絡先になっていたのだって、付き合っていた頃に登録していたものかもしれない。

第一、彼女には夫がいるのだ。

看護師が一方的に電話を切ってしまったから?--かけ直すことはできたはずだ。


佐々木は、この医者に言われて初めて、断る意思の無かったことに気づいた。


医者はじいっと佐々木を観察してから、よしっと立ち上がった。

彼の表情から返事を汲み取ったようだった。

「これから病室に様子を見に行きますが、一緒に行かれます?」

「病室に」

彼は、ここが病院だということを忘れかけていた。

「はい…行きます」

まだピンと来ない自分に、渇を入れたかった。

ここに向かう時はきっと、軽い気持ちだったのだ。

懐かしい再会をして、昔話でもする気でいた。

実際に話を聞くまで、「田村真衣が倒れた」という事実は、彼の中でリアルとして存在していなかったのだ。


「宗治はいつもそうだよね。後から大切なことに気付くじゃん」


真衣の苦笑いが甦る。


非常灯だけが照らす緩やかな階段が、急勾配のレールを上がっていくジェットコースターの様に感じられた。

一段一段上る度に、「後悔」と「期待」が複雑に絡み合っていく。

病室の前に着くと、医者は何のためらいも無く、引き戸を開けた。

佐々木はその扉の横に掛けられた、「田村真衣」というプレートを見る。そしてふと思った。

これはもしかしたら、別人なんじゃないか?

「田村」だって、「真衣」だって、考えてみたらありふれた名前だ。何かの手違いで偶然が重なり、自分に連絡が来ただけかもしれない。


そう考え始めたら少し気分が軽くなって、彼もすんなり病室に入ることができた。

個室の真ん中にベッドが備え付けられており、大きな窓からは、外灯が照らす枯れ木が顔を覗かせている。

あとは洗面台、ロッカー、テレビがあるだけの殺風景な病室だ。

医者の体で、ベッドに横たわる患者の顔は見えなかった。

彼は何やら処置をしている様子だが、こちらからは何をしているのか分からない。

ふと患者の足元を見ると、掛け布団から足首が少しのぞいていた。

それを見て、佐々木は息を呑んだ。


その足首は、骨だけのように細かった。

よくドキュメンタリーで見るような、難民の人たちのような足だった。

これはやはり、真衣ではない--彼は確信した。

「やはりまだ、意識は戻っていませんね」

聴診器を首に掛けなおしてから、医者は言った。

医者が横にずれたことで、佐々木の位置からも患者の顔が見えてしまった。


その顔も同様に、痩せこけていた。そして、青白い。

いや、青黒いと言うのか--とにかく、正常な顔色ではない。

喉や鼻、頭に様々な機械が取り付けられている。その物々しい管たちはみな、ベッドの脇に配置された精密機械に伸びていた。

こんなに沢山の管を取り付けられながら、本当にまだ生きているのか--彼には分からなかった。


しかし彼には分かったこともある。

これは、「田村真衣」だ。

同姓同名ではない。間違いでもなかった。


彼の知っている「杉谷真衣」とかけ離れすぎているが--間違いない。

一緒にいた頃の彼女は、痩せてはいたが、健康的な女性だった。

しかしベッドの脇から見える腕は、枯れ枝のように頼りなく細い。


これが本当に、28歳の女性なのだろうか。

初対面ならば、40歳に見えてもおかしくない。

その位、佐々木が知っている彼女からは想像できない姿と化して、ここに横たわっている。

こんな現実を突きつけられるために、わざわざ幸せな時間を犠牲にしてまで、車を飛ばして来たのだろうか…。


「あたしは逃げるのかも知れないね。宗治のこと、好きすぎたのかも」


佐々木の脳裏にまた、真衣の声が過ぎった。

別れ際の一言だ。

今まさに逃げようとしている佐々木を、踏みとどまらせようとしているかの様だった。









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