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リセット  作者: sayt.
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序章

あなたは、今までの人生に満足していますか?


出来ることならあの頃に戻りたい…そう思ったことがありますか?

「楽になっただろ?」


彼は穏やかに微笑みながら、そう呟いた。その優しい声は、静まり返った室内に吸い込まれるように、消えていく。


久しく感じていなかった想いが、彼の中を駆け巡っていく。

これは何だろう−−彼は妻の頭を撫でてやりながら、記憶を手繰り寄せる。

そうだ。

昔、置き引きにあった財布が出てきたときの感じに似ている。彼は合点がいき、大きく頷いた。

「安堵」という言葉が、今の感情に最もふさわしい。


彼は、もう一度妻の頭を撫でてから、一週間分の疲れを溜めた重たい腰を上げ、キッチンへと向かった。いつものように、冷蔵庫から発泡酒を取り出し、その場でプルトップを上げる。よく冷えた缶が、悴んだ手に突き刺さるようにまとわり付いてくるが、悪い感じはしなかった。

むしろ、それが心地よく思えるほど、気分がいい。

飲み慣れた炭酸を、食道から胃へと一気に流し込む。空っぽの胃袋に、キツい炭酸がじわじわと染み渡っていく。


彼はまたリビングに戻り、妻の横に腰を下ろした。

彼女は、先ほどと全く同じ姿勢で、眠っている。


しかし--彼の他に、きっと居ないだろう。

金曜日の深夜、自分の妻の死体の横で、酒を飲んでいる男は。


だが、こんなに穏やかな気持ちで晩酌したのは、本当に久しぶりだった。

逆に彼女が生きていれば、こんな風に隣り合って酒を飲むことは、決して許されない。

妻は、アルコール依存症だった。



彼は、今まで生きてきた中で、彼女ほど運に見放された人を、見たことが無かった。

彼女の周りで起こる災いが、全て彼女一人に降り注いでいるようだった。

話を聞く限り、彼女が小学生の時から、一般的に「幸せ」と呼べる出来事よりも、

「不幸」と言われる出来事の方が多いように感じられた。

しかし彼女にも、自分が矢面に立つことに、生きがいを感じていたところはあった。

まるで避雷針のように、周囲の人間の難を吸収し、自分の中に蓄積する。

そんな彼女だから、降りかかる災難のうち、過半数程度は、自らが撒いた種による結果だった。

責任感が強く、面倒見が良く、義理堅く、真面目。

悪く言えば、八方美人の偽善者、ということになる。

そして、そういう人間ほど、壊れていくケースが多いのだろう。

彼女も例外ではなかった。


災難のうちの後者--自ら進んで被ったものに対しては、ある程度の耐久力があった。


しかし、自然発生的な落雷--運に見放されているとしか思えない災害が蓄積されていくうち、

彼女の取り柄だった「笑顔」が、少しずつ消えていった。

元々、辛いことを酒の力で忘れることが多かった彼女であったから、アルコール依存症になるのは必然だった。


最初は見てみぬふりをしていた彼も、症状が出てきた辺りからは、止めていた。

日々おかしくなる言動や、引きこもり。

焦点の合わない瞳。

毎日、見つけては処分しているにも関わらず、どこからか湧き出る、酒の空瓶--。


口で言っても、止める訳が無かった。止められていれば依存症にはならないだろう。


症状が出て半年ほどした頃、彼は意を決した。

出勤前に、妻の手首をベッドの柵に縛り付けたのだ。酒も、いつも通り全て処分した。

もちろん彼女は半狂乱になり、「人殺し」と彼を罵った。

彼は彼女と目を合わせないようにして、玄関の鍵を閉めた。扉の向こうからは、まだ叫び声が聞こえていたが、彼は出社した。

しかし、仕事はもちろん手につくはずもない。

居てもたっても居られず、腹痛を理由に早退し、小走りで家に帰った。腹痛は、あながち嘘でもなかった。

これで禁酒に成功してくれることを、ただ祈りながら、玄関を開けた。

しかし、そこに広がっていたのは、彼の予想とは大きくかけ離れた光景だった。


まず目に飛び込んできたのは、血だらけのカーペットだった。その上に、背を向けた妻がしゃがみ込んでいる。

彼は、回り込んで様子を伺った。

ロープを歯で食いちぎろうとしたのだろう。口が真っ赤に染まり、歯が数本抜け落ち、下に転がっている。

手首の肉もえぐられ、大量に出血していた。傷口は、血でよく見えない。

その結果、彼女の腕は片方だけ自由になっていた。

その血だらけの腕を使って、自分の鞄に隠していた酒の小瓶を、ひたすら舐めているのだった。

彼が帰宅したことなど、気づいてもいない様子だった。



彼はそれを見て、病院に連れて行く決心をした。


最初からそうしなかったのは、認めたくなかったからだ。

彼女は明らかに--彼と結婚してから、みるみるおかしくなっていった。

もちろん、それだけが理由ではない。

それだけではないが、彼と結婚した事で、彼女の人生が全く別の方向に傾いたのは、紛れも無い事実だった。

彼は、そのことを認めたくなかったのだ。


しかし、通院してしばらくすると、彼女は見違えるほど元気になった。

酒を一切飲まなくなり、少しずつだが、外出もできるようになっていったのだ。

彼は、安心する傍らで、じんわりと胸に広がる、言いようの無い不安を感じていた。


あまりにも、回復が早すぎるのではないか…?


彼なりに、依存症について、調べてきたつもりだった。

妻の依存度からして、こんなに早く、症状がなくなるものなのだろうか--?


しかし、ここでも彼は、気づかないふりをした。


結婚するときに、彼女が思い残していることに、気づかないふりをしたように。

彼女のアルコールに、気づかないふりをしたように。

今が良ければ、それでいい--

彼は、自分にそう言い聞かせていた。


だから今日、妻がこう(・・)なっていても、彼には、想定内の現象の1つでしかなかった。

そしてきっと、心のどこかでは、こう(・・)なることを望んでいたのだろう。

もしかしたら、近い将来、彼の手によって、この結末が訪れていたかもしれない。


彼は、最後の一口を飲み干し、テーブルに目を向けた。

そこには、見慣れない白い封筒が、置いてあった。


「大輔へ」と、か細く表に書いてあるだけのそれは、彼女が生きていたことの証明だった。

彼は、彼女の置手紙が好きだった。仕事の都合で、すれ違いの生活が多かった彼らは、よく置手紙をし合っていたのだ。

彼は微笑みながら、最後の手紙を開封した。


中には、彼への手紙が1枚と、白い粉が入った透明の袋が1つ、入っていた。


手紙の内容は、彼への謝罪と、感謝。と、最後の「お願い」が書き記されていた。

その文面を見る限り、彼女がとても安らかな気持ちで最後を迎えたことが、彼には手に取るように分かった。

それを見て、彼はまた、幸福感に包まれた。

ふと、生前の彼女とよく交わした会話を思い出す。


「ねえ大輔。あたしがもし、脳死とかになったら、どうする?」

「ノウシ?ん~…想像つかねぇよ」

「え~?じゃあ、死んじゃったら?」

「それも想像できないって」

「何それ~!人生何があるか分かんないのに、ダメじゃん」


彼女が病気になるずっと前だったが、実はこの時既に、彼には想像できていたのだ。

自分がその時、どんな行動に出るか、ということの。


彼は、どうしようもなく彼女を愛していた。

その結果、妻を独占し、様々なことを誤魔化してきた。

そのまさに、集大成と言えるだろう。

だから、この遺書でわざわざ「お願い」しなくても、彼は進んでこの結果を選択したことになる。



彼は時計を見た。もう、時間が無い。


読んでいた手紙を、元通り封筒に入れ、灰皿の中で火を付けた。

自分の意志ですることに、彼女を巻き込みたくなかったのだ。

それは、勢い良く燃えて、あっという間に黒い灰となった。

まるで人生みたいだな、とぼんやり考える。


それから、何の躊躇もなく透明の袋を破ると、白い粉を一気に口に放り込んだ。

その薬の名前や経過は、彼にとってはどうでもいいことだ。


何となく、黒い灰を一つまみしてから、妻の横に寝転ぶ。

これを持っていれば、「あちらの世界」で、妻を見つけ出せる気がしたからだった。

無宗教のはずなのに、都合のいい時だけ、「死後の世界」を信じたくなるものだ。


彼は、まだ温かい妻を抱きしめた。不思議と恐怖はない。

彼には、また妻と、「死後の世界」とやらで--今度こそ、幸せな家庭を築く未来しか見えていないのだ。


息苦しくなる中でふと、妻の心臓が動いているような気がした。

しかし、そんなはずはない。

心臓が動いているかどうかは、帰宅してすぐに確認している。

それに…そんな事はもう、どうでもいいのだ。

その時彼は、自分こそ終わりにしたかったということに、初めて気付いた。


無意識の思考も停止し、吐血した。

かすかに見える妻の顔が、真っ赤に染められている。


彼が事切れる刹那--彼女が目を開けたような気がした。











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