暁闇の夢
フェルメールは宇佐美伸哉の最も好きな画家である。盗難や盗作が相次いで現存する作品が三十数点しかないということも彼の好むところだ。若くして天才画家としての名声を得た。
それに比べて伸哉の生活は貧しかった。金銭的にも精神的にも。朝から晩までスケッチブックとパレットを持って公園のベンチに座っている。自分は何をしているのか。自嘲の翳りが血の気ない顔を覆う。画家を志したものの失敗し、しかし未だ諦められない。左腕に止まった虫に一瞥もくれることなく、じっとりと汗ばんだ身体は不健康に輝く。
夜になって我に返り家路に向かう。左腕に止まっていた虫もぷーんとどこかに飛んでいった。古臭くカビの匂いがするベッドは伸哉が身体を投げ出すと不平の音を立てた。「そう言いなさんな」伸哉がぼやく。「俺も大して変わらんさ」薄く光る灯が眠る伸哉を優しく照らす。
「絵を描くからモデルになってよ」二年前伸哉は幼馴染の少女に言った。「またぁ?」露骨に嫌な顔をされる。モデルはポーズを要求されたり、何時間も同じ姿勢でいなくてはならないので大変なのだ。「頼むよ〜」必死の懇願に少女は仕方ないわという感じで笑った。その笑顔を描きたいと伸哉は思った。
「コンクールに出したりしないの?」少女が口を開く。「やだよ。もし出してだよ?あなたには才能がありません、なんて言われるのが怖い」「そういうものかしら」「そういうもんだよ」口を動かしながらも手は休めず。数時間が経ち絵が完成した。それを見せると少女は驚嘆し頬を紅く染めた。「あんたやっぱり才能あるよ。コンクールに出しなさいよ」「じゃあやってみるかな」以来、伸哉はアトリエに篭り絵を描きコンクールに応募し続ける。
伸哉のアパートの扉を叩く音がする。ぼさぼさの髪を掻き揚げ、ドナタですかーと問いかける。「失礼。私はこーゆーもんです」と名刺を差し出す男はビシッとスーツ姿を決め込んでいた。「コンクールで作品を見て以来ファンになりましてね。どうです。ウチで絵を描きませんか?」
数年後、伸哉は絵画界の超新星として華々しくデビューした。マスコミから盛んに取材を受け、海外からの受注も多くなり充実した日々を送っていた。故郷に錦を飾り、幼馴染の姿を探した。「お帰りぃ」元気な声が背中を叩く。振り向いた瞳に美しく成長した幼馴染の姿が映った。後に二人は結婚することになる。
蝉の鳴き声で意識が水面上へと浮かんでくる。目を開けるとそこはいつもの世界であった。夢だったのかと妙に納得する。画家としての名声も幼馴染との甘き生活も。放り出されたスケッチブック、シンクに入れたままのパレット、散らかしっ放しの絵の具。いつもと変わらぬどうしようもない日常。
夢オチというごくありふれた作りですが、短編ながら伝えたいことはきちっとまとめられたと思います。
現実と夢の絶望的なまでの差を感じて頂ければ嬉しいです。