『悪役令嬢の私を、最後まで娘と呼んだ人』
「エレノア・グランベル。お前との婚約を破棄する」
十八歳の春。
私は、大勢の貴族たちの前で王太子から捨てられた。
理由は、聖女への嫌がらせ。
身に覚えなどなかった。
けれど、誰も私を信じなかった。
当然だった。
私は昔から「悪役令嬢」と呼ばれていたから。
「公爵家にもすでに話は通してある」
その言葉で。
私は初めて顔を上げた。
「……お父様は?」
「グランベル公爵も了承している」
ああ。
そう。
やっぱり。
最後まで、あの人は私を選ばなかった。
***
私には、父が嫌いな理由があった。
幼い頃から、一度も褒めてもらったことがない。
七歳。
初めて刺繍を完成させた日。
「お父様、見て!」
「……くだらないことをしていないで勉強しなさい」
十歳。
熱を出した日。
「お父様……」
「医者を呼んでおけ」
それだけだった。
十二歳。
乗馬大会で優勝した日。
「一位になりました!」
「公爵令嬢なら当然だ」
十五歳。
王太子との婚約が決まった日。
怖くて泣いている私に、父は言った。
「泣くな」
一度でいいから。
頭を撫でてほしかった。
一度でいいから。
「よく頑張った」と言ってほしかった。
一度でいいから。
娘として、抱きしめてほしかった。
でも。
その願いは十八歳になっても叶わなかった。
そして最後には。
婚約を破棄された私を、父は迎えにも来なかった。
***
屋敷へ戻ると。
父はいなかった。
代わりに家令が立っていた。
「お嬢様」
「お父様は?」
「……王宮へ」
私は笑った。
こんな日まで仕事。
本当に、あの人らしい。
「私を追い出すように言われているのでしょう?」
「それは――」
「いいの」
私は部屋へ向かった。
荷物は小さな鞄一つだけ。
十八年間暮らした部屋なのに。
持っていきたいものなんて、ほとんどなかった。
最後に机の引き出しを開ける。
そこには。
七歳の頃に作った、下手くそな刺繍が入っていた。
父に見せて。
「くだらない」と言われたもの。
どうして捨てなかったんだろう。
私はそれをゴミ箱へ落とした。
「……さようなら、お父様」
そして私は公爵家を出た。
***
それから五年。
私は小さな町で暮らしていた。
貴族の名前を捨て。
普通の女性として働いた。
驚くほど穏やかな毎日だった。
二十三歳になった春。
王都から一人の男が訪ねてきた。
昔、公爵家に仕えていた家令だった。
「……お久しぶりです、お嬢様」
「もうお嬢様じゃないわ」
「私にとっては、いつまでもお嬢様です」
彼は小さな箱を差し出した。
「旦那様からです」
私は受け取らなかった。
「いらない」
「……旦那様がお亡くなりになりました」
時間が止まった。
「……いつ?」
「三日前です」
不思議だった。
涙は出なかった。
悲しくもなかった。
ただ。
胸に、小さな穴が開いたような気がした。
「最期に、お嬢様のお名前を呼んでおられました」
「嘘」
私は笑った。
「あの人が?」
家令は何も言わず、箱を置いた。
「見るかどうかは、お嬢様がお決めください」
そして帰っていった。
***
三日間。
私は箱を開けなかった。
四日目の夜。
なぜか眠れなくて。
私は箱を開けた。
中には。
古びた紙。
小さな靴。
子どもの髪を結ぶリボン。
そして。
見覚えのある刺繍。
「……え?」
七歳の頃。
私が父に見せたものだった。
『おとうさま だいすき』
震える手で持ち上げる。
私は確かに、五年前に捨てた。
なのに。
どうして。
その下には、一冊の日記があった。
父の字だった。
最初のページ。
『エレノアが生まれた。』
それだけ。
次のページ。
『小さすぎて、抱くのが怖い。』
次。
『初めて笑った。』
次。
『今日、父上と呼んだ。人生で一番嬉しい日だった。』
私はページをめくった。
涙は、まだ出なかった。
七歳。
『エレノアが刺繍を持ってきた。』
手が止まる。
『私と妻とエレノアの三人が刺繍されていた。』
『可愛かった。』
『抱きしめたかった。』
その下。
『できなかった。』
私は眉を寄せた。
ページをめくる。
十歳。
『エレノアが熱を出した。』
『怖かった。』
『妻を失った日のことを思い出した。』
『ベッドの横にいたかった。』
『しかし、私がいると安心して甘えてしまう。』
『王太子妃になる娘だ。強くしなければならない。』
『私は間違っているのだろうか。』
次。
十二歳。
『乗馬大会、一位。』
『誰よりも格好よかった。』
『よく頑張ったと言えばよかった。』
十五歳。
『婚約が決まった。』
『エレノアが泣いた。』
『抱きしめたかった。』
『だが、できなかった。』
同じ言葉ばかり。
抱きしめたかった。
褒めたかった。
笑いたかった。
愛していると伝えたかった。
なのに。
そのすべての最後に、
『できなかった』
と書いてある。
「……馬鹿じゃないの」
声が震えた。
「だったら……言えばよかったじゃない」
ページをめくる。
十八歳。
婚約破棄の日。
そこだけ。
何ページにもわたって書かれていた。
『エレノアは何もしていない。』
『証拠は捏造されている。』
『分かっている。』
「……え?」
私は息を止めた。
『王家は真相を公にできないという。』
『ならば婚約を解消させる。』
『娘をこんな場所に置いておけない。』
次のページ。
『殿下から、エレノアには私も婚約破棄を了承したと伝えると言われた。』
『それでいい。』
『私を恨めばいい。』
『公爵家を嫌いになれば、あの子はここを出ていける。』
『エレノアは優しい。』
『私が少しでも寂しそうな顔をすれば、きっと残ってしまう。』
涙が落ちた。
「……やめて」
次。
『今日、エレノアが家を出た。』
『見送りには行かなかった。』
『行けば、引き止めてしまうから。』
「やめてよ……」
『部屋に入った。』
『ゴミ箱に刺繍が捨ててあった。』
『拾った。』
『あの子は、もう私を父とは思わないだろう。』
文字が少し滲んでいた。
『それでいい。』
『生きていてくれれば、それでいい。』
私は日記を閉じた。
「……馬鹿」
涙が止まらなかった。
「馬鹿……!」
五年間。
一度も会いに来なかった。
一通の手紙もなかった。
だから。
嫌われていると思っていた。
日記の最後。
死ぬ一週間前。
震えた文字で書かれていた。
『もう長くないらしい。』
『エレノアに会いたい。』
そして。
『会いたい。』
次の日も。
『会いたい。』
その次の日も。
『娘に会いたい。』
最後のページ。
たった一行。
『一度でいいから、エレノアに父親らしいことをしてやりたかった。』
私は床に座り込んだ。
「してほしかったよ……」
誰もいない部屋で叫んだ。
「私だって……してほしかった!」
頭を撫でてほしかった。
褒めてほしかった。
抱きしめてほしかった。
「ずっと待ってたのに……!」
でも。
もう遅い。
どれだけ泣いても。
父はいない。
***
私は五年ぶりに、公爵家へ帰った。
父の墓は。
母の隣にあった。
墓石の前に座る。
何を言えばいいのか分からなかった。
恨み言は山ほどある。
「お父様」
返事はない。
「私……刺繍、上手になったんですよ」
風が吹いた。
「乗馬も、今でも得意です」
返事はない。
「王太子妃にはならなかったけど……ちゃんと働いてます」
涙が落ちた。
「だから……」
私は笑おうとした。
「一回くらい……褒めてくださいよ」
返事はない。
当たり前なのに。
それがたまらなく悲しかった。
「遅いよ……」
墓石に額をつける。
「全部、遅いよ……お父様……」
そのとき。
家令が静かに言った。
「お嬢様」
「……何?」
「旦那様が最期に仰った言葉を、お伝えしてもよろしいでしょうか」
私は顔を上げた。
家令は泣いていた。
「『エレノアは、幸せだろうか』」
胸が締めつけられた。
「そして――」
家令は続けた。
「『あの子は、私の自慢の娘だった』と」
私は。
子どもみたいに泣いた。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
聞きたかった言葉だった。
でも。
「……直接、言ってよ」
もう、その言葉を言ってくれた人はいない。
私は墓石を抱きしめた。
冷たい石だった。
父の腕は、こんなに冷たくなかったはずなのに。
「お父様……」
十八年間、一度も言えなかった言葉が。
やっと出た。
「私も……」
涙で声が途切れる。
「私も、お父様の娘でよかったよ……」
風が吹いた。
木々が揺れた。
返事はない。
それでも私は、しばらくそこから動かなかった。
帰り際。
墓石の前に、あの刺繍を置いた。
七歳の私が。
父と母と自分を並べて縫ったもの。
そして裏側には。
二十三歳になった私が、新しく一言だけ刺繍していた。
『おとうさまへ』
その下に。
『こんど生まれたら、ちゃんと言ってね』
そして最後に――
『わたしも、だいすきでした』
――Fin.




